三日牧師

盛岡みなみ教会の牧師・大塚史明と
妻の朗美による日記です。
ここをご覧くだされば牧師や教会なんて別世界
というようなイメージは払拭されることでしょう。
どうぞ楽しんでください。

牧師・大塚史明、妻・朗美、娘・恵連、協音

「得意げに」

938 2010.7.13

娘たちと岩手大学の植物園へ行ってきました。5月に池を覆うようにしていたおたまじゃくしたちはすでにカエルとなっていずこへ。かわりにザリガニ釣りに熱中しました。何度か手応えのあるバトルを経験した後、長女はやっと死骸を捕獲。こういうものに躊躇なく触れるのは、ある年齢以下に備わったうらやましい素質だと思います。さて、そのザリガニにご飯でもあげようと近くのベンチに置いて、木の実を探して帰って来ると、もはや姿はありませんでした。生き返った・・・のではなく、鳥が持ち去ったようです。なんだかんだで思わぬ橋渡しができたようです。

将来、娘に「こんなことできてたんだよ」と伝えるのが今から楽しみです。

得意げに

「愛されて5歳」

937 2010.7.9

昨日は、7日に5歳の誕生日を迎えた長女の誕生パーティを幼稚園が終わってから行いました。幼稚園のお友達や近所の仲良しを招待して、ママの手作りケーキでお祝いし、公園や水遊び、2階の子ども部屋での遊びなどを満喫し後、絵本を読んで夕方解散というシンプルなパーティでした。
しかし、このごくごくシンプルなパーティに何と、37名が駆けつけてくれたのです! 私たち家族4人を入れると41名! 子ども26人、大人15人。中にはパパさんも含めた家族で参加してくださる方々もいました。こんな誕生会は初めて! シンプルなパーティが賑やかに盛り上がる楽しい楽しいときとなりました。

神さまに愛され、家族に愛され、こんなにたくさんのお友達に愛されている事を再確認できた素晴らしい日、感動いっぱいの思い出深い日でした。長女は1日クタクタなはずなのに、いただいたカードひとりひとりに返事を書いてから眠りにつきました。

5歳になった娘よ、あなたがこんなにも愛されている事を忘れないで、あなたも人の喜びを自分の喜びとして愛する人になっていこうね。

愛されて5歳

「見る目が違うから」

936 2010.7.7

先日、次女を連れて動物園へ行きました。その日は妻が仕事番、姉が幼稚園に行っている間の隠密行動です。まだその日の出来事を正確に報告出来ない年頃ならではの荒技です。さて、その動物園に行きますと、次女がおもしろいのです。こちらは見せたいものがたくさんあり、声を張り上げて「ほら、ぞうさんだ」とか「くまさん寝てるね」とか「あの羊、がらがらどんに出て来るみたいだね」と促すのですが、次女はそれを見ながらも「あ、アリさん」と手前の柵を歩くアリに見とれたり、「石、石」と動物の横にある石に目を付けたり。決して私の声なんかにそそのかされはしない、柔軟な視点。この目のつけどころが将来どのようにいかされるのか、楽しみです。一番そばで見ていよっと。

画像は、抱っこ体験コーナーでのこと。ひよこ、モルモット、うさぎを抱かせていただきました。幼子の手の中にちいさないのち。こういうのは、グッときます・・・

見る目が違うから

「母の愛はどこに」

935 2010.7.1

長女との会話を妻から伝え聞いて爆笑しました。シャワーに入る際に
妻 「今日は髪を洗うよ。」
長女「嫌だ。」
妻 「今日は汗かいたから、洗わないとあせものブツブツができてかゆくなるよ。」
長女「嫌だ、今日は洗わない。」
妻 「じゃあ、頭にブツブツできてかゆくなっても知らないよ。」
長女「え? 知らないの?」
妻 「うん。」
長女「そんな親いる?」
妻 「!?・・・わははははははは!」

これを聞いて私も爆笑。いったい、どこで覚えて来たのでしょう。

画像は盛岡市役所裏にある新渡戸像です。彼も「母親がやると髪をとかれる痛みも、母の愛に感じるものだ」というようなことを記していたのを思い出しました。

ねえ、本当に放っておく親なんていないんだよ。このことは覚えておいてね。

母の愛はどこに

「整いましたっ」

934 2010.6.24

月曜日、家族で「シオン錦秋湖」にて過ごしました。午前、私は草刈り作業に。きっとやり方はぎこちなかったと思うのですが、生まれて初めてあのブイーンという機械式の草刈り機を使わせてもらい大満足の時間でした。妻子たちは、頼もしい案内人兼介助人に同伴していただいて山へ散歩に。合流した後は、桑の実をいただいて、いとたのし。そして、ランチはキャンプ場に新設の「ウッドデッキレストランこかげ」にて朴葉にパスタやピタを乗せていただきました。これで笑顔、感謝に満たされないわけがありません。

休日はこうしよう、ああしようと力ずくで過ごしがちですが、神さまがすでに楽しむためのステージを備えてくださっているところで過ごす方が、心身に染み渡るものが段違いだということに気づきました。神さまが造られた大自然に囲まれて、本来の自分がいるべきところに帰ったような、そんな気持ちにもなりました。

以来、まるで天から「整いましたっ」という御声が聞こえるようで、身近にある外の世界にてより多くの時間を過ごしたいと思っています。

整いましたっ

「何を思う」

933 2010.6.16

画像は、教会前の公園でクローバーの布団に寝そべる長女です。北国である盛岡の公園や学校には冬のスキー、そり遊び用に、こうした山が設置されているのです。夏場はこうして寝そべったり、ここからグルングルンと転がって遊んでいます。

4歳の夕暮れに、娘はいったい何を考えているのかな。そう思って調べてみると、シロツメクサの花言葉は「私を思って」だそうです。自分のことを考えてたのか・・・

何を思う

「つま先から手先まで」

932 2010.6.14

見よ、この必死の姿を。ハッパをかけて頑張っているのではありません。ただ夢中で遊ぶとこうなるのです。つま先で全体重を支え、視線は目的物を凝視し、手先を正確に動かし、やりたいことをやっています。髪が吹き乱れてもおかまいなし。遊ぶ時は、こんなにも自由で、必死になるものだと教えられました。

全神経を集中させながらも、すべてが自由。私もそんなふうに仕事をし、過ごしたいと思うのです。

つま先から手先まで

「批判を獲得する」

931 2010.6.8

岩手県立図書館で「子どものための哲学」(永井均、講談社新書、1996年)という本を借りてきました。哲学に興味があるわけではないのですが、立ち読みをしているうち手に取って読もうと引込まれたのです。それは、著書に「ぼくの疑問とそれに対する答えは、少数とはいえ、理解者や批判者を得ることができた」(p.17)というくだりがあったからです。中でも「批判者を得る」という表現に初めて出会ったので、言い訳がましい私には新鮮すぎる言葉でした。哲学の議論は、相手を論破することではなく「自分では気づかない自説の難点や弱点を相手に指摘してもらうことだけをめざして」(p.112)いるともあります。もう目からうろこどころではない、仰天の世界でした。著者は大学の教授らしいのですが、何という魅力的な哲学をする人でしょう。題名にもあるように、子どもになりながら、しばらく、ゆっくりと読んでみようと思います。

横にいるわが妻。この本によれば一流の哲学者なのです。はは〜(と、筆者ひれ伏す)。

批判を獲得する

「言語伝達の妙」

930 2010.6.4

次女の顔や服に汚れが認められ何かを「やらかした」様子。そのため何があったのか妻が次女を尋問していた。すると長女が「カニリック、カニリックで遊んでたの」と報告をする。「カニリック??」という耳慣れない言葉に何度か聞き直した妻は「カニリック・・・ハミガキ粉ね?(はみがっこ・・・かな)」とさすが親だから通じたとばかり得意気の顔。さらにはちゃんと「ハミガキ粉」と言えずに雰囲気で伝えていた長女をかわいいと思ったのだった。
しかし!! 次の瞬間目に飛び込んで来たのが画像の物体。そう「カニリック」とは「クリニカ」を右から読んでいたのだ。なに、「歯磨き粉」が言えないのではない。それどころか長女はちゃんと商品名をもって指摘していたのだ。奥深いやり取りに洗面台周辺は笑いの渦に囲まれたのだった。

うむ、右から読むとはなかなかやるな。旧約聖書が書かれたヘブル語を読めるのもそう遠い将来ではないと、一連の出来事の横でほくそえんでいたのは親ばかの私なのである。

言語伝達の妙

「ポップアップせよ」

929 2010.6.2

岩手大学校内にあるお気に入りの池。これまではもっぱらオタマジャクシ観察が主たる目的だったのですが、なかなか代わり映えしないので、しびれをきらしていたら、蓮の花が咲いていたので親は大喜びしました。葉はいろいろな生物の隠れ家だったり、フロアマットだったりしていたのですが、葉と葉の間から赤や白の鮮やかな花が咲いています。泥中の蓮華と言いますが、ここは水中の蓮華です。水中から、飛び出すようにして咲いているその姿は、普段見透かすことのできない水面下にもいのちがあふれていることを雄弁に教えてくれています。

私も見えぬ所で苦労して、素敵な花だけを見てもらいたいのですがねえ。

ポップアップせよ