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日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
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心の養いとなりますように。

「用意されている御国へ」
主日礼拝 2010年7月11日
あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。
まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらの私の兄弟たち、しかも最も小さな者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。
(「マタイの福音書」25章31-46節(抜粋))
◆ 初めからあなたを・・・
上のみことばは最後の審判において羊と山羊とを左右に分ける有名なたとえに続くものです。聖書はここでも救われる者を羊にたとえるのですが、それを振り分けるのはこのことを話しておられる人の子=イエスご自身です。イエスさまが栄光の座に着かれるとき、永遠の御国に入る者とそうでない者とに分けられるのです。イエスさまは栄光の王、審判者です。そして、この方が救い主として地上の生涯を歩まれ、今もとりなしておられるところに、私たちのいっさいの慰めがあるのです。やがてすべてを審かれる方は、まず罪人を救うために来られ、悔い改め、向きを変えて御国に入るように願っておられる。しかも、これらの羊には「世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」と言われていることが驚きです。途中からとか最後になってそう決めたのではなく、世の初めからこの終わりにいたるまであなたを選び、愛し、守り通してくださる神の御心がそっくりこの言葉に表れているのです。ああ、御国を受け継ぐためにこの私がいったい何をしたというのでしょうか!
◆ 神を迎えて生きる
分けられた後、主はそれぞれに言われます。「最も小さい者たちのひとりにした」のと「最も小さい者たちのひとりにしなかった」というのが分岐点でした。彼らの反応も「いつ、私たちは・・・しましたか」と「いつ・・・しなかったのでしょう」というものです。このことは、ここを読む私たちがあれこれと勘定しながら「これで大丈夫だ」「あと少しだな」などとうがって生きることへの警鐘です。それよりもわざや人の大小の一切を忘れて自らをささげるような歓待を主は望んでおられます。わが身を削って他者に仕える。忍耐する。それが喜びとなるまでイエスさまの思いに答えようではありませんか。なぜなら最も小さい者、最も小さいことにも栄えある価値を見いだし与えてくださるのはイエスさましかおられないからです。
「いいから信頼しなさい」
主日礼拝 2010年7月4日
「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ」
(「マタイの福音書」25章14-30節(抜粋))
◆ タラントは誰のものか
「タラント」は「タレント=才能」の元になった言葉です。当時タラントは通貨の単位でした。1タラントは6,000デナリに相当し、当時の一日の労働賃金が1デナリですから、その6,000倍です。ここでは主人から1〜5タラントを託された人の話が出ています。1タラントでも相当な金額なのですが、その5倍の5タラントを預かった者は商売をしてさらに倍に、2タラントの者もさらに倍に増やします。ですが1タラントの者は地中に隠しておきました。主人が帰った際、5タラント、2タラントの者は同じように褒められています。ここに大きな慰めがあります。金額には相当の差がありますが、かける言葉は同じです。額が主人のほめる基準ではないのです。そして、彼らが儲けたタラントは自分のものだといっさい主張していないのも素晴らしい点です。預かったタラントも、労苦して(商売と同じ言葉)得たタラントもすべてを主人に差し出しています。こういう徹底したしもべになりたいと思います。しかし、1タラントの者には「役に立たないしもべ」とされました。それは、このしもべが「ご主人さま。あなたは・・・ひどい方だとわかっていました」(24節)という態度で過ごしていたからです。
◆ 自分を知るために
この主人はどのしもべにも同じ祝福を考えていました。才能や能力は皆、平等ではないけれど、祝福は同じ! そこがこの主人の素晴らしさ、破格の優しさでしょう。かのぶどう園の主人がどの時間に来た者であっても同じ1デナリの賃金を与えたのと同じです。しかし、1タラントのしもべは不平等さに憤り、卑屈になり、口をとがらせて人生などこんなものだと決めつけていました。主人のしもべという誇りはどこにもありません。こういう者への祝福は用意されてはありません。この3人は同じように皆、主人のしもべでしたが、主人の働きを担っているという心を持っていたのは最初の2人です。才能の豊かさ、稼いだ実績がモノを言うのでは決してない。ただ、この私を丸ごと用いて働きを進めようと決めておられる主なる神さまを信頼することだけは、決して忘れずに、この良き誇りをもって毎日を丁寧に、懸命に生きようではありませんか。そして、主の喜びのために、すべてのものを用いましょう。「主人の喜びをともに喜んでくれ」とは直訳では「喜びの中に入ってくれ」です。この私が神の喜びそのものに入ることができるとは何と言う幸せでしょう。

