日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

三日牧師

盛岡みなみ教会の牧師・大塚史明と
妻の朗美による日記です。
ここをご覧くだされば牧師や教会なんて別世界
というようなイメージは払拭されることでしょう。
どうぞ楽しんでください。

牧師・大塚史明、妻・朗美、娘・恵連、協音

「当たり前のことを、バカみたいに?、コツコツと。」

1219 2021.7.11

以下は、盛岡みなみ教会の週報(毎週の礼拝プログラムやメッセージ、祈祷課題が掲載されているもの)の牧師コラムに綴ったものです。ぜひご参照ください。ちなみに、写真と本文は関係がありません。もう8年位前の一枚です。本に囲まれて幸せそうだ。

オスカー・ワイルドという作家(劇作、小説等)をご存じの方も多いかと思います。彼の作品「幸福の王子」は絵本にもなったりして、金を剥ぎ取って与える王子とそれをどこへでも運ぶため羽ばたき続けるツバメの姿は、まるで神の見えない御手を見える化(可視化・・・最近よく使われますね)したようで、本当に慰められる物語です。「サロメ」は新約聖書から着想を得た話ですね。マタイ14章やマルコ6章に出てくる「ヘロディアの娘」こそサロメで、彼の作品ではバプテスマのヨハネに口づけをするため、様々な画策をし、王の前で踊った褒美として、彼の首を願い、そこで願いを果たすというものです。そのワイルドには、「ドブに捨てられた、まだ打ち上げられていない花火を見て泣いたとき、自分のようだと泣いた」(2016年、「木皿食堂」、双葉文庫、p.18)というエピソードがあるそうです。花火は楽しいものです。私の幼少時代でも特別なものでした。夏の時期に特別なイベントがなければそうそうしませんでした。ワイルドの生きた時代であればもっと格別な感があったはずです。しかし、それでも花火は使われることなく捨てられた。打ち上がってこその花火・・・しかしその前に見捨てられたその花火と自分を重ねての涙だったそうです。

 このエピソードを読んでから、自分の生活のことや価値観について思い巡らしています。少年時代に特別だったことが、今や当たり前どころか、なんとも思っていないこともあるのではないか。それは突き詰めると、神の恵みを当然だと思い込み、喜びや賛美をするどころか、またこれかと辟易としたり、ため息を主に向かって吐き出しているのではないか?とチクチク心が刺される思いにもなったりします。また、自分自身だけでなく、家族や普段関わりのある方々にも多少なりとも影響を与えてしまっているのではないだろうか。ある先生が「ABCを大事にしなさい」と教えたそうです。それは「A=当たり前のことを、B≡バカみたいに、C=コツコツと」だそうです。それこそ成熟の道であるような気がします。分かった気でいて分かっていないこと、それが覆されること、気付かされて恥ずかしく思うこともあります。しかし、その当然だと思うことを、愚直・実直に、コツコツとやり続ける。そこに自分の生きる道の確かさと失わない喜びを見出していたいと願います。このエピソードを書いている「木皿泉」という脚本作家はご夫妻での共同ペンネームです。ドラマ「野ブタ。をプロデュースする」等で有名ですが、いつも笑顔を絶やさず、高い目標や理想ではなく、そこにある喜び、失われた宝の輝きを思い出させてくれる作家さんでお気に入りです。

当たり前のことを、バカみたいに?、コツコツと。

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「街の時間、待ちのじかん」

1218 2021.6.30

今日の午後は所用を済ませに街へ。と言っても盛岡のサイズは絶妙で、教会がある住宅街から駅まで車で5分、徒歩でゆっくり20分、自転車で10分ほど。今日は次女の自転車を借りて繰り出しました。駐車の時間や場所を気にすることなく、公園の水を飲んだり、ふと見つけた文具店をのぞいたり、入ったことのない路地を選んだりと自由自在。歩きよりも快適性もあり、自転車は良いものですね。

用が終わり、歴史ある教会の建物が建て替えのため取り壊されていたのに気づき、そのまま川べりを行くと、仲良く歩く老夫婦、メモを取る男性などとすれ違い、自分もここで時間を過ごしたいとベンチに座りました。するとあら不思議。半時間ほど記憶を失っていたようです。気づくとベンチでうたた寝をしてました。空を見上げればまた別の雲が漂い、街を包んでいました。

今年は(も)さんさ踊りは中止。もうしばらくは、盛岡人が盛岡を楽しむ時間が続きそうですね。

街の時間、待ちのじかん

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「お弁当の楽しみ」

1217 2021.6.11

「お弁当」はどうして他の食事と違うのでしょう。いや、正確には他の食事とは違った美味しさを感じるのでしょう。そんなことを考えながら、昨日至ったのは「作る人と食べる人との距離」です。普段の食事は作ればそのままダイレクトに、その場で食べることが多いものです。家庭であっても外食であってもそうですね。けれど、お弁当はアツアツでもなければ、ヒエヒエでもない。入れる食材も、食べる時刻も、持ち運びの方法も、保存の場所も難しい!それでも、お弁当箱を開けたり、口に運んだときの幸せ度は別格のものがあります。また、作った側は「今頃、食べているかな」「全部食べてくれたかな」などと想像する楽しみもあります。

昨日のこども食堂のメインは「鶏の唐揚げ」でした。お肉の中まで熱を通し、かつ硬くならないように・・・試行錯誤を繰り返しながらたどり着いたのは「余熱で仕上げる」こと。揚げきってしまうと火の通りは良いものの、食感が損なわれますが、この方法はバッチリでした。一緒に作業くださる方の太鼓判のひと言が決め手。味つけ以外にも料理の決め手はあるものですね!妻も、家庭やこども食堂の「味付け番」(注:番長ではありませんよ)を長年仰せつかっています。その責任感、素晴らしいと再発見です。

写真はこども食堂のお弁当と今朝の次女用のお弁当。幾度か肉巻きおにぎりをしましたが、今朝のは焼いている自分が微笑むほどの出来栄え。ただ、味が濃かった・・・次、もっと美味しいもの作るからね。父より。

お弁当の楽しみ

お弁当の楽しみ

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「蓄積の大切さ」

1216 2021.5.23

妻が手首を捻挫したことから、調理の大役を担うようになって2週間ほど。それまで時折食事作りをしていたものの、あくまで気まぐれスポット参戦。日常となると、献立から買い物計画、在庫管理など調理以外にやること満載なのだ!と気づきました。結婚以来20年弱ずっっとこのことをしてくれていたのだと妻に感謝です。

さて、自分でもやや心配気味に始まったのですが、やってみると楽しいもので、出来上がっていく様と美味しく食べてくれる様子に清涼感のような満足をいただいています。色々とメニューもチャレンジしていて、自分でも飽きずに取り組めていることは嬉しい発見です。ただ、これまでの蓄積がないので、毎回ネット検索と動画が頼り。いつになったら、自己に蓄積されてある程度できるようになるのでしょうか。あらためて積み上げの大切さを教えてもらいました。

先にも書いたように自分でも飽きないように、新たな品を作っていますが、このお昼は「韓国屋台サンド」を作りました。食パンをホットプレートで温めておいて焼き色を付け、はちみつやヨーグルトなどお好みのソースをかけておき、キャベツと卵を混ぜたものをフライパンに。その上から刻んだハムととろけるチーズを載せて裏面も焼く。それを食パンの上に鎮座させ、ケチャップやマスダードを。ホットサンドメーカーとはまた違った味わいで思わず笑顔になります。

お弁当も本人と周りをびっくりさせないよう、鋭意努力中です。怪我が明けても続けていようと、(今は)思っているところです。

蓄積の大切さ

蓄積の大切さ

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「自分自身を生きる」

1215 2021.5.16

私の名前は史明と書いて「ふみあき」と読み・呼びます。少年期からはこの名前が気に入らなく、何か他の名前だったらいいのにと思ったり、実際に親に詰問したりしていました。すると、両親が「他に案があった」と言ったので、期待して「何だった?」と聞くと「まさあき」だと。どうやらその頃スパイダース(知らんけど)が流行してたようで、堺正章さんにあやかって、明の字は我が家の男系子孫に宛てられる文字として「正明」だったようです。もっと違った感じの名前であったら歯がゆかったのですが、正直、どちらでも一緒のような気もしましたが、その日から「史明」も受け入れることにしています。

さて、私は「史明」として生きているでしょうか。これまで様々な経験や環境に身を置き、多くの人の声や情報が入ってくる中で生きてきました。この歳になって(46かな)、なかなか自分自身を生きるのは難しいことだとも感じるようになっています。子どもたちには思いっきり自分自身を生きてほしいなと願っています。

写真は今年の岩手日報のキャビネコンテストに選んでいただいたもの。どちらが入選かわかりますか?

自分自身を生きる

自分自身を生きる

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「無関心と無関係」

1214 2021.5.2

無関心と無関係は似た言葉ですが、意味合いは違ってきます。たとえば「政治」に置き換えて考えてみます。ある人が「私は政治には無関心だから選挙には行かない」と言ったとします。今であれば18歳以上の男女が選挙権を持っています。日本国民であれば誰でもという意味ですが、あくまで「選挙権=権利」です。それを行使するかしないかは本人の自由意志によります。ただし、ここまで来るのは決して平坦ではなく、最初は男子だけ、しかも国税をいくら以上納める者にしか選挙権は与えられていませんでした。実に国民の1%だったそうです(1889年)。それから徐々に納税基準が減額され、やがて撤廃され、25歳だった年齢もさがり、1945年(戦後)にはついに女子が選挙権を持つようになりました。現在は、人口割合で84%の人が選挙権を持っています。選挙権を行使すると何ができるかと言うと「政治に参加する」ことです。ここがネックで最初のように「自分は政治には無関心だから投票しない」という人は少なくありません。もっとも大きな選挙である国政選挙の投票率は最低だと52%、最高でも77%程度です。半分か1/4の人は「選挙に行っていない」のです。これが「無関心」の数字です。

しかし、無関心であっても「無関係ではいられない」のが政治の力です。部活やサークルであれば、無関心であれば入部することなく、それ以降も無関係でいられます。部費の徴収や練習や大会への参加を要請されることもありません。しかし、政治は無関心であっても、無関係ではいられません。投票に行かなくても消費税は増額されますし、選挙に行かなくても原発は再稼働します。平時にどれだけ「国民の生活を考えろ!」「オリンピック反対!」と声を上げたり、デモをしても、選挙に行かないことには政治の局面は変えることができません。それゆえ無関係でいられないことに対して、無関心でいるのはとても損なことです。選挙権を行使しなければ、自分自身に不利益を被ったり、不可解な従順を強いられたり、自分の考えや希望とは違う生き方をしなくてはならなくなります。だから、無関係でいられないことに対して無関心でいることは損な決断といえます。自分にとって、大いに関係あることですから、関心も持って日々考えていきたいものです。「投票してもムダ」「何やっても変わらないんでしょ」「自分の代が我慢すればいいのだから」との諦めや思考停止に追いやられたり、そんなものだと飼いならされることなく考え、行動いたしましょう。

無関心と無関係

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「こども食堂開店中です」

1213 2021.4.25

私たちの教会でこども食堂を始めて3年が経過しました。きっかけは3.11東日本大震災と支援活動です。生きている人を目の前にして何かをすること、何もできなくてもともに過ごすことを教えられました。支援活動は主に沿岸部へ出ていっての活動でしたが、この教会がある地域にも、普段から人々と関わること、日常をともに歩むことを願うようになりました。そうして始まったこども食堂、最初の二年間は学童タイムから始まり、50名を超える人々といっしょに食事をし、片付けや公園遊びをしていました。昨年来はコロナ禍により、居場所的な活動が困難となり、お弁当テイクアウトで活動を続けています。利用枠は50食ですが、食材やボランティアを調整し77食のお弁当を調理、お手渡しすることができました。また、お弁当だけでは寂しいので、フリーマーケットを設置開催し、学用品や日用品が格安で手に入れられ喜ばれています。マスク越しに会話をしますが、ちょっとしたこの時間が、確かな力や支え、互いの喜びになることを実感しています。

昨年度からひとり親家庭、生活困窮家庭の方々とのつながりも増え新年度からは少し拡大しての活動を計画中です。日曜の礼拝はもちろんのこと、平日にも地域に息づく教会としてお供できましたら幸いです。新年度もよろしくお願いします。

こども食堂開店中です

こども食堂開店中です

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「【受難週のみことばと祈り】1日目」

1212 2021.3.29

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
(マルコの福音書15章34節)

罪のない神の子、イエス キリストが
私と同じ姿になって、
私と同じようにこの世に生まれ、
私が神様に犯した心の罪のすべての裁きを身代わりに背負った結果、
十字架の上で
想像をはるかに超えた
痛みと
苦しみと
残酷さと
悲しさの極限の中で発せられた一言。

イエス キリストに背負っていただいた私の罪が、
どれほど、神の愛を裏切り、悲しませ、苦しませたのか。
いったいなんのために
イエス キリストはこのような言葉を発するほどに苦しまなければならなかったのか。

その答えはただひとつ。

私を赦すため。

神様に心を向けて祈りましょう。
「神様、私の根深いみにくい心の罪を本当にごめんなさい。
神様に造っていただいたいのちなのに、心なのに、神様を無視して
自分の力で生きていけると思っていた傲慢(高慢)な心をお赦しください。
自分には力など1%もなく、すべては神様から与えられていたのに、
それに気づかず、神様以外のものを大切にしていた歩みをお赦しください。
あなたの愛の大きさ、深さ、広さを知って
これ以上の愛はないことを認めます。
その愛を何より大切に生きていきます。
あなたを十字架にかけた私をあわれんで、これからもお導きください。」

【受難週のみことばと祈り】1日目

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「3.11集会にぜひご参加を。」

1211 2021.3.10

3.11いわて教会ネットワーク主催
【3.11集会 オンライン】

明日は3月11日
東日本大震災から10年。
震災による岩手沿岸津波被災から10年。

3.11いわて教会ネットワークは今年も3.11集会を行います。
今年は残念ながらオンラインで行います。
でも全国、海外からも参加することができます!

申込方法やプログラムに関してはサイトをご覧くださり、
ぜひお申し込みくださり、
ご一緒に10年間の振り返りと、現地の報告、およびこれからのための祈りの時を持ちましょう。
https://311.ichurch.jp/10th311meeting/




#3.11 #東日本大震災 #津波被災 #岩手沿岸 #震災支援 #東日本大震災津波 #10年 #東北地方太平洋沖地震 #被災地 #復興 #復興支援

3.11集会にぜひご参加を。

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「神について」

1210 2021.2.21

神について整理すると・・・・

私たちの教会は「神」を礼拝する民です。
ひと言で「神」と言っても、世界にも多くの神々と宗教があり、それぞれ「神」を礼拝し、信じています。
本当に数多くの宗教があり、日本でも「八百万の神」と言われるほど多くの神とされるものがありますが、それらを整理すると種類(主張)としてはそれほど多くはありません。
おおよそ、以下の四つに分類することができます。いかに短くまとめますので、参考になさってください。

1.多神教(多神論)
 まず世界があり、そこから神々が生まれたとする考え。ギリシャ神話や古事記にある「神話」はすべてこれに当てはまります。
それらの神は生まれたり、死んだり、喧嘩をしたり、結婚や子を産んだりします。能力的には有限で全能とか唯一という神観がない。

2.汎神論
 「すべては神である」という哲学で「自然=神」となります。人間、動植物、石などあらゆる事物は神の現れであり、自然と神は同時に存在するので、自然がなければ神もないとする。
「ニューエイジ」と言われる新宗教もこれに当てはまります。

3.理神論
 合理的な考えを神にも当てはめたもの。たとえれば、職人が作った時計が自分で動いているように、この世界も神に造られはしたが、それ以降はいっさい介入しないという立場。
そのため、この世界には神による奇跡も啓示もあり得ず、人間の理性だけが頼りです。

4.聖書の神
 聖書は「はじめに神が天と地を創造された」と冒頭で教えています。
神が存在し、それから初めて自然・人間が創造されます。
世界が存在しなくても、神は存在しておられます。
ここでまず多神教とも汎神論とも違うことが分かります。
神はただ神であられ、自然や世界に依存しません。
また、出エジプトや主イエスのわざや復活において奇跡を起こされた事実は理神論とも違います。
聖書を通じて語ってくださる神は、自然=神の非人格な存在でもありません。
神は「愛の方」だとするのも聖書の神のみです。
大事なのは、どれが合理的で理性にピッタリくるかではなく、人間を超越したお方がおられることを認め、聖書から正しく学ぶことが大切ですね。
聖書は神様があなたに語りかけている愛のことばです。
環境や状況に振り回されることなく、人間の感覚に変化することなく、揺るがない変わらない愛のことばです。
他の神々といわれる神は、どのようにあなたに語りかけているでしょうか?

ほんものを見分ける賢さをもちたいものです。

神について

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盛岡みなみ教会の牧師・大塚史明と妻の朗美による日記です。ここをご覧くだされば牧師や教会なんて別世界というようなイメージは払拭されることでしょう。どうぞ楽しんでください。

当たり前のことを、バカみたいに?、コツコツと。

1219 2021.7.11

当たり前のことを、バカみたいに?、コツコツと。

以下は、盛岡みなみ教会の週報(毎週の礼拝プログラムやメッセージ、祈祷課題が掲載されているもの)の牧師コラムに綴ったものです。ぜひご参照ください。ちなみに、写真と本文は関係がありません。もう8年位前の一枚です。本に囲まれて幸せそうだ。

オスカー・ワイルドという作家(劇作、小説等)をご存じの方も多いかと思います。彼の作品「幸福の王子」は絵本にもなったりして、金を剥ぎ取って与える王子とそれをどこへでも運ぶため羽ばたき続けるツバメの姿は、まるで神の見えない御手を見える化(可視化・・・最近よく使われますね)したようで、本当に慰められる物語です。「サロメ」は新約聖書から着想を得た話ですね。マタイ14章やマルコ6章に出てくる「ヘロディアの娘」こそサロメで、彼の作品ではバプテスマのヨハネに口づけをするため、様々な画策をし、王の前で踊った褒美として、彼の首を願い、そこで願いを果たすというものです。そのワイルドには、「ドブに捨てられた、まだ打ち上げられていない花火を見て泣いたとき、自分のようだと泣いた」(2016年、「木皿食堂」、双葉文庫、p.18)というエピソードがあるそうです。花火は楽しいものです。私の幼少時代でも特別なものでした。夏の時期に特別なイベントがなければそうそうしませんでした。ワイルドの生きた時代であればもっと格別な感があったはずです。しかし、それでも花火は使われることなく捨てられた。打ち上がってこその花火・・・しかしその前に見捨てられたその花火と自分を重ねての涙だったそうです。

 このエピソードを読んでから、自分の生活のことや価値観について思い巡らしています。少年時代に特別だったことが、今や当たり前どころか、なんとも思っていないこともあるのではないか。それは突き詰めると、神の恵みを当然だと思い込み、喜びや賛美をするどころか、またこれかと辟易としたり、ため息を主に向かって吐き出しているのではないか?とチクチク心が刺される思いにもなったりします。また、自分自身だけでなく、家族や普段関わりのある方々にも多少なりとも影響を与えてしまっているのではないだろうか。ある先生が「ABCを大事にしなさい」と教えたそうです。それは「A=当たり前のことを、B≡バカみたいに、C=コツコツと」だそうです。それこそ成熟の道であるような気がします。分かった気でいて分かっていないこと、それが覆されること、気付かされて恥ずかしく思うこともあります。しかし、その当然だと思うことを、愚直・実直に、コツコツとやり続ける。そこに自分の生きる道の確かさと失わない喜びを見出していたいと願います。このエピソードを書いている「木皿泉」という脚本作家はご夫妻での共同ペンネームです。ドラマ「野ブタ。をプロデュースする」等で有名ですが、いつも笑顔を絶やさず、高い目標や理想ではなく、そこにある喜び、失われた宝の輝きを思い出させてくれる作家さんでお気に入りです。

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街の時間、待ちのじかん

1218 2021.6.30

街の時間、待ちのじかん

今日の午後は所用を済ませに街へ。と言っても盛岡のサイズは絶妙で、教会がある住宅街から駅まで車で5分、徒歩でゆっくり20分、自転車で10分ほど。今日は次女の自転車を借りて繰り出しました。駐車の時間や場所を気にすることなく、公園の水を飲んだり、ふと見つけた文具店をのぞいたり、入ったことのない路地を選んだりと自由自在。歩きよりも快適性もあり、自転車は良いものですね。

用が終わり、歴史ある教会の建物が建て替えのため取り壊されていたのに気づき、そのまま川べりを行くと、仲良く歩く老夫婦、メモを取る男性などとすれ違い、自分もここで時間を過ごしたいとベンチに座りました。するとあら不思議。半時間ほど記憶を失っていたようです。気づくとベンチでうたた寝をしてました。空を見上げればまた別の雲が漂い、街を包んでいました。

今年は(も)さんさ踊りは中止。もうしばらくは、盛岡人が盛岡を楽しむ時間が続きそうですね。

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お弁当の楽しみ

1217 2021.6.11

お弁当の楽しみ

お弁当の楽しみ

「お弁当」はどうして他の食事と違うのでしょう。いや、正確には他の食事とは違った美味しさを感じるのでしょう。そんなことを考えながら、昨日至ったのは「作る人と食べる人との距離」です。普段の食事は作ればそのままダイレクトに、その場で食べることが多いものです。家庭であっても外食であってもそうですね。けれど、お弁当はアツアツでもなければ、ヒエヒエでもない。入れる食材も、食べる時刻も、持ち運びの方法も、保存の場所も難しい!それでも、お弁当箱を開けたり、口に運んだときの幸せ度は別格のものがあります。また、作った側は「今頃、食べているかな」「全部食べてくれたかな」などと想像する楽しみもあります。

昨日のこども食堂のメインは「鶏の唐揚げ」でした。お肉の中まで熱を通し、かつ硬くならないように・・・試行錯誤を繰り返しながらたどり着いたのは「余熱で仕上げる」こと。揚げきってしまうと火の通りは良いものの、食感が損なわれますが、この方法はバッチリでした。一緒に作業くださる方の太鼓判のひと言が決め手。味つけ以外にも料理の決め手はあるものですね!妻も、家庭やこども食堂の「味付け番」(注:番長ではありませんよ)を長年仰せつかっています。その責任感、素晴らしいと再発見です。

写真はこども食堂のお弁当と今朝の次女用のお弁当。幾度か肉巻きおにぎりをしましたが、今朝のは焼いている自分が微笑むほどの出来栄え。ただ、味が濃かった・・・次、もっと美味しいもの作るからね。父より。

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蓄積の大切さ

1216 2021.5.23

蓄積の大切さ

蓄積の大切さ

妻が手首を捻挫したことから、調理の大役を担うようになって2週間ほど。それまで時折食事作りをしていたものの、あくまで気まぐれスポット参戦。日常となると、献立から買い物計画、在庫管理など調理以外にやること満載なのだ!と気づきました。結婚以来20年弱ずっっとこのことをしてくれていたのだと妻に感謝です。

さて、自分でもやや心配気味に始まったのですが、やってみると楽しいもので、出来上がっていく様と美味しく食べてくれる様子に清涼感のような満足をいただいています。色々とメニューもチャレンジしていて、自分でも飽きずに取り組めていることは嬉しい発見です。ただ、これまでの蓄積がないので、毎回ネット検索と動画が頼り。いつになったら、自己に蓄積されてある程度できるようになるのでしょうか。あらためて積み上げの大切さを教えてもらいました。

先にも書いたように自分でも飽きないように、新たな品を作っていますが、このお昼は「韓国屋台サンド」を作りました。食パンをホットプレートで温めておいて焼き色を付け、はちみつやヨーグルトなどお好みのソースをかけておき、キャベツと卵を混ぜたものをフライパンに。その上から刻んだハムととろけるチーズを載せて裏面も焼く。それを食パンの上に鎮座させ、ケチャップやマスダードを。ホットサンドメーカーとはまた違った味わいで思わず笑顔になります。

お弁当も本人と周りをびっくりさせないよう、鋭意努力中です。怪我が明けても続けていようと、(今は)思っているところです。

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自分自身を生きる

1215 2021.5.16

自分自身を生きる

自分自身を生きる

私の名前は史明と書いて「ふみあき」と読み・呼びます。少年期からはこの名前が気に入らなく、何か他の名前だったらいいのにと思ったり、実際に親に詰問したりしていました。すると、両親が「他に案があった」と言ったので、期待して「何だった?」と聞くと「まさあき」だと。どうやらその頃スパイダース(知らんけど)が流行してたようで、堺正章さんにあやかって、明の字は我が家の男系子孫に宛てられる文字として「正明」だったようです。もっと違った感じの名前であったら歯がゆかったのですが、正直、どちらでも一緒のような気もしましたが、その日から「史明」も受け入れることにしています。

さて、私は「史明」として生きているでしょうか。これまで様々な経験や環境に身を置き、多くの人の声や情報が入ってくる中で生きてきました。この歳になって(46かな)、なかなか自分自身を生きるのは難しいことだとも感じるようになっています。子どもたちには思いっきり自分自身を生きてほしいなと願っています。

写真は今年の岩手日報のキャビネコンテストに選んでいただいたもの。どちらが入選かわかりますか?

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無関心と無関係

1214 2021.5.2

無関心と無関係

無関心と無関係は似た言葉ですが、意味合いは違ってきます。たとえば「政治」に置き換えて考えてみます。ある人が「私は政治には無関心だから選挙には行かない」と言ったとします。今であれば18歳以上の男女が選挙権を持っています。日本国民であれば誰でもという意味ですが、あくまで「選挙権=権利」です。それを行使するかしないかは本人の自由意志によります。ただし、ここまで来るのは決して平坦ではなく、最初は男子だけ、しかも国税をいくら以上納める者にしか選挙権は与えられていませんでした。実に国民の1%だったそうです(1889年)。それから徐々に納税基準が減額され、やがて撤廃され、25歳だった年齢もさがり、1945年(戦後)にはついに女子が選挙権を持つようになりました。現在は、人口割合で84%の人が選挙権を持っています。選挙権を行使すると何ができるかと言うと「政治に参加する」ことです。ここがネックで最初のように「自分は政治には無関心だから投票しない」という人は少なくありません。もっとも大きな選挙である国政選挙の投票率は最低だと52%、最高でも77%程度です。半分か1/4の人は「選挙に行っていない」のです。これが「無関心」の数字です。

しかし、無関心であっても「無関係ではいられない」のが政治の力です。部活やサークルであれば、無関心であれば入部することなく、それ以降も無関係でいられます。部費の徴収や練習や大会への参加を要請されることもありません。しかし、政治は無関心であっても、無関係ではいられません。投票に行かなくても消費税は増額されますし、選挙に行かなくても原発は再稼働します。平時にどれだけ「国民の生活を考えろ!」「オリンピック反対!」と声を上げたり、デモをしても、選挙に行かないことには政治の局面は変えることができません。それゆえ無関係でいられないことに対して、無関心でいるのはとても損なことです。選挙権を行使しなければ、自分自身に不利益を被ったり、不可解な従順を強いられたり、自分の考えや希望とは違う生き方をしなくてはならなくなります。だから、無関係でいられないことに対して無関心でいることは損な決断といえます。自分にとって、大いに関係あることですから、関心も持って日々考えていきたいものです。「投票してもムダ」「何やっても変わらないんでしょ」「自分の代が我慢すればいいのだから」との諦めや思考停止に追いやられたり、そんなものだと飼いならされることなく考え、行動いたしましょう。

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こども食堂開店中です

1213 2021.4.25

こども食堂開店中です

こども食堂開店中です

私たちの教会でこども食堂を始めて3年が経過しました。きっかけは3.11東日本大震災と支援活動です。生きている人を目の前にして何かをすること、何もできなくてもともに過ごすことを教えられました。支援活動は主に沿岸部へ出ていっての活動でしたが、この教会がある地域にも、普段から人々と関わること、日常をともに歩むことを願うようになりました。そうして始まったこども食堂、最初の二年間は学童タイムから始まり、50名を超える人々といっしょに食事をし、片付けや公園遊びをしていました。昨年来はコロナ禍により、居場所的な活動が困難となり、お弁当テイクアウトで活動を続けています。利用枠は50食ですが、食材やボランティアを調整し77食のお弁当を調理、お手渡しすることができました。また、お弁当だけでは寂しいので、フリーマーケットを設置開催し、学用品や日用品が格安で手に入れられ喜ばれています。マスク越しに会話をしますが、ちょっとしたこの時間が、確かな力や支え、互いの喜びになることを実感しています。

昨年度からひとり親家庭、生活困窮家庭の方々とのつながりも増え新年度からは少し拡大しての活動を計画中です。日曜の礼拝はもちろんのこと、平日にも地域に息づく教会としてお供できましたら幸いです。新年度もよろしくお願いします。

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【受難週のみことばと祈り】1日目

1212 2021.3.29

【受難週のみことばと祈り】1日目

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」
(マルコの福音書15章34節)

罪のない神の子、イエス キリストが
私と同じ姿になって、
私と同じようにこの世に生まれ、
私が神様に犯した心の罪のすべての裁きを身代わりに背負った結果、
十字架の上で
想像をはるかに超えた
痛みと
苦しみと
残酷さと
悲しさの極限の中で発せられた一言。

イエス キリストに背負っていただいた私の罪が、
どれほど、神の愛を裏切り、悲しませ、苦しませたのか。
いったいなんのために
イエス キリストはこのような言葉を発するほどに苦しまなければならなかったのか。

その答えはただひとつ。

私を赦すため。

神様に心を向けて祈りましょう。
「神様、私の根深いみにくい心の罪を本当にごめんなさい。
神様に造っていただいたいのちなのに、心なのに、神様を無視して
自分の力で生きていけると思っていた傲慢(高慢)な心をお赦しください。
自分には力など1%もなく、すべては神様から与えられていたのに、
それに気づかず、神様以外のものを大切にしていた歩みをお赦しください。
あなたの愛の大きさ、深さ、広さを知って
これ以上の愛はないことを認めます。
その愛を何より大切に生きていきます。
あなたを十字架にかけた私をあわれんで、これからもお導きください。」

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3.11集会にぜひご参加を。

1211 2021.3.10

3.11集会にぜひご参加を。

3.11いわて教会ネットワーク主催
【3.11集会 オンライン】

明日は3月11日
東日本大震災から10年。
震災による岩手沿岸津波被災から10年。

3.11いわて教会ネットワークは今年も3.11集会を行います。
今年は残念ながらオンラインで行います。
でも全国、海外からも参加することができます!

申込方法やプログラムに関してはサイトをご覧くださり、
ぜひお申し込みくださり、
ご一緒に10年間の振り返りと、現地の報告、およびこれからのための祈りの時を持ちましょう。
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神について

1210 2021.2.21

神について

神について整理すると・・・・

私たちの教会は「神」を礼拝する民です。
ひと言で「神」と言っても、世界にも多くの神々と宗教があり、それぞれ「神」を礼拝し、信じています。
本当に数多くの宗教があり、日本でも「八百万の神」と言われるほど多くの神とされるものがありますが、それらを整理すると種類(主張)としてはそれほど多くはありません。
おおよそ、以下の四つに分類することができます。いかに短くまとめますので、参考になさってください。

1.多神教(多神論)
 まず世界があり、そこから神々が生まれたとする考え。ギリシャ神話や古事記にある「神話」はすべてこれに当てはまります。
それらの神は生まれたり、死んだり、喧嘩をしたり、結婚や子を産んだりします。能力的には有限で全能とか唯一という神観がない。

2.汎神論
 「すべては神である」という哲学で「自然=神」となります。人間、動植物、石などあらゆる事物は神の現れであり、自然と神は同時に存在するので、自然がなければ神もないとする。
「ニューエイジ」と言われる新宗教もこれに当てはまります。

3.理神論
 合理的な考えを神にも当てはめたもの。たとえれば、職人が作った時計が自分で動いているように、この世界も神に造られはしたが、それ以降はいっさい介入しないという立場。
そのため、この世界には神による奇跡も啓示もあり得ず、人間の理性だけが頼りです。

4.聖書の神
 聖書は「はじめに神が天と地を創造された」と冒頭で教えています。
神が存在し、それから初めて自然・人間が創造されます。
世界が存在しなくても、神は存在しておられます。
ここでまず多神教とも汎神論とも違うことが分かります。
神はただ神であられ、自然や世界に依存しません。
また、出エジプトや主イエスのわざや復活において奇跡を起こされた事実は理神論とも違います。
聖書を通じて語ってくださる神は、自然=神の非人格な存在でもありません。
神は「愛の方」だとするのも聖書の神のみです。
大事なのは、どれが合理的で理性にピッタリくるかではなく、人間を超越したお方がおられることを認め、聖書から正しく学ぶことが大切ですね。
聖書は神様があなたに語りかけている愛のことばです。
環境や状況に振り回されることなく、人間の感覚に変化することなく、揺るがない変わらない愛のことばです。
他の神々といわれる神は、どのようにあなたに語りかけているでしょうか?

ほんものを見分ける賢さをもちたいものです。

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