日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「まことの主がおられる」

主日礼拝 2018年7月22日

これらのことを話して後、 イエスは、 さらに進んで、 エルサレムへと上って行かれた。
オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、 まだだれも乗ったことのない、 ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。 それをほどいて連れて来なさい。もし、 『なぜ、 ほどくのか』と尋ねる人があったら、 こう言いなさい。 『主がお入用なのです。 』」
使いに出されたふたりが行って見ると、 イエスが話されたとおりであった。
彼らがろばの子をほどいていると、 その持ち主が、 「なぜ、 このろばの子をほどくのか」と彼らに言った。
弟子たちは、 「主がお入用なのです」と言った。
そしてふたりは、 それをイエスのもとに連れて来た。 そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。

「ルカの福音書19章28-40節」(抜粋)

牧師の言葉

いつも先頭で導いてくださる主イエス
イエスさまの周りには、特別な十二使徒と弟子たち、女性たち、またその町々の群衆がいつも付いていました。そのため、時にはご自分一人だけで寂しいところへいって祈ることも大事にされていました。さて、イエスさまに付いていた人々、特に弟子たちはどんな人たちだったでしょうか?特別賢い人物に限定とか決まった立場、職業にあるわけではありませんでした。前の18章では「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった」(38節)とあるように、イエスさまの言われていることがよく理解できていなかったようです。それでも、今朝の場面でイエスさまは彼らの先頭に立ってエルサレムへと向かわれます。それは、弟子たちが賢いからではなく、どんな分からず屋でも、今は自信がなくても、イエスさまはその人を導いてくださるのだ、ということです。そんなイエスさまが、二人の弟子に向かって「向こうの村でつながれている子ろばがいたらほどいて持ってきなさい」と言われました。そうして、向かうと弟子たちは、言われたとおりの子ろばを見つけることになるのです。しかし、ろばの持ち主に断りなしに、つないでいた紐をほどくことは大変勇気のいることです!どこまでイエスさまを信頼するべきなのでしょうか?イエスさまはそう言われたけど、やはりこれはいけないことだ・・・持ち主の意向をまず聞かないと・・・状況が整わないと不安だし・・・そういった思いが駆け巡るのが自然なのことではないでしょうか。しかし、弟子たちはまずイエスさまの命令に従ったのです。

最高の場所で用いられる生き方を
イエスさまは、その時の言葉もあらかじめ教えてくださっていました。持ち主に「どうしてほどくのか」と聞かれたら「主がお入り用なのです」と言いなさい、です。ここでの「持ち主(複数形)」と「主(単数形)」とは同じ言葉が使われていて、それは、まるで「子ろばの真の持ち主はただお一人で、それは主イエスです」と言えるような仕方です。これを聞いた持ち主たちは、素直にその言葉に従い、弟子たちが連れて行くのを許してくれました。自分の所有物を、まことの主のためにささげたのです。自分で囲って持っておくよりも、主のために連れ出された方が良いと判断しました。
さて、あなたはいかがでしょうか?自分の所有だと考えているものに対して「主がお入り用なのです(必要を持っておられます)」と切り出されたら・・・自分で囲って握りしめるでしょうか?それとも明け渡すことができるでしょうか?実は、この子ろばはイエスさまをお載せするという最高の仕事のために連れ出されました。あなたを最高の場所で、これ以上ない栄えある仕事のために用いることができるのは・・・自分や社会や世間ではなく、もうおわかりですね。まことの主だけがおできになります!

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聖書の言葉

「トランスフォーマー」

主日礼拝 2018年7月8日

それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

ルカの福音書19章1〜10節

牧師の言葉

(この日のメッセージは福迫真里師(バンクーバー日系人福音教会)です)
車が何のパーツもつけたり取ったりせずに、ロボットに変身。またロボットから車に変身する「トランスフォーマー」。2007年から始まった映画も大人気で、トランスフォーマーのおもちゃも多く出回っている。同じパーツしかないにも関わらず、全く違う形に変身し、役割まで変わってしまうのである。

聖書の中には、同じ姿かたちの人間でありながら、神様と出会って生き方が、価値観が、全く変わってしまった人を多く見ることができる。「ザアカイ」もその一人。彼は取税人のかしらであった。当時のイスラエル地方はローマの支配下にあり、ローマに統治されていたのである。そのローマの言いなりに、ユダヤ人たちから税金を集めていたのが取税人という仕事。そのため、ユダヤ人でありながらローマに取り入っているように思われ、人々から嫌われる仕事であった。また、このザアカイはその中でも、取税人のかしらであり、それゆえ、金持ちであった。彼は、人々から嫌われていた。彼は、お金さえあれば、自分はそれでいいんだ・・・と自分に言い聞かせていたかもしれない。しかし、彼の心はお金では満たされないものがあった。イエス様がエリコを通ることを知ると、必死でイエス様を一目見ようとする。その彼の姿には、尋常ではない執着心のようなものを感じる。イエス様は、そんなザアカイに向かって、「ザアカイ」と彼の名前で呼びかけ、彼の家に泊まることにしてあると人々の前で公言されたのである。イエス様の口から自分の名前を聞いたザアカイはどんな気持であったのだろうか。そして、誰も訪ねてこないような彼の家に、泊まりに来てくださると言う。ザアカイはもはやお金さえあればいいんだという鎧を着る必要はなくなった。自分の名前を呼び、家に泊まりに来てくださるイエス様がおられる。彼はこれだけで十分であった。大喜びでイエス様を迎え入れただけでなく、以前の彼からは信じられない約束を発言した。彼は自分の財産を半分は貧しい人に。だまし取ったものは、四倍にして返します。とイエス様に約束したのである。彼の価値観は、もはやお金ではなくなった。彼はイエス様から愛されていることを体験し、この愛によって満たされることを知ったのである。人からだまし取る人生から、人に施しをする人生へと変えられた。「ザアカイ」は「ザアカイ」のままである。背は低いし、何も変わらない。しかし、彼の内側は変えられたのである。それにより、奪う人生から与える人生に役割も変わったのである。
イエス様は神様であり、私たち自身も気づいていない心の渇きや寂しさ、満たされない思いをすべてご存知なのである。イエス様を信じたからと言って、急に頭が良くなったり、運動ができるようになったり、背が伸びたり、鼻が高くなったりすることはない。自分は自分のままである。しかし、そのままの自分の内側がイエス様の愛によって変えられて、受ける者から与える者へ。不平から感謝へ。憎しみから愛へ。嘆きから喜びへと、この世の中にあっての役割が変えられていくのである。
「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17

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聖書の言葉

「恐怖と大胆」

主日礼拝 2018年7月1日

「ある身分の高い人が、 遠い国に行った。 王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、 十ミナを与え、 彼らに言った。 『私が帰るまで、 これで商売しなさい。 』しかし、 その国民たちは、 彼を憎んでいたので、 あとから使いをやり、 『この人に、 私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った。さて、 彼が王位を受けて帰って来たとき、 金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、 彼らを呼び出すように言いつけた。
さて最初の者が現れて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。 』
主人は彼に言った。 『よくやった。 良いしもべだ。 あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、 十の町を支配する者になりなさい。 』
二番目の者が来て言った。 『ご主人さま。 あなたの一ミナで、 五ミナをもうけました。 』
主人はこの者にも言った。 『あなたも五つの町を治めなさい。 』
もうひとりが来て言った。 『ご主人さま。 さあ、 ここにあなたの一ミナがございます。 私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、 きびしい方ですから、 恐ろしゅうございました。 あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、 お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。 』
主人はそのしもべに言った。 『悪いしもべだ。 私はあなたのことばによって、 あなたをさばこう。 あなたは、 私が預けなかったものを取り立て、 蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、 というのか。だったら、 なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。 そうすれば私は帰って来たときに、 それを利息といっしょに受け取れたはずだ。 』
そして、 そばに立っていた者たちに言った。 『その一ミナを彼から取り上げて、 十ミナ持っている人にやりなさい。 』

「ルカの福音書19章11-27節」(抜粋)

牧師の言葉

ここは「十ミナのたとえ」です。マタイの福音書25章に「タラントのたとえ」が出てきますが、それに似た部分と違う部分があります。このルカの福音書ではイエスさまがいよいよ十字架にかかるエルサレムを目前にして語られています。
・主人(王)が不在の中で
 イエスさまは、神の国はすぐにでも到来すると人々が思っていたところでこのたとえを話されました。「ある身分の高い人が王位を受けるために遠い国に出かける」とはイエスさまが十字架にかかり、復活し、天に昇られることを示しています。
一方、「彼が私たちの王になってくれるなと拒絶する国民」とは当時イエスさまを十字架につけた群衆、イエスさまに敵対する人々を指します。そして、焦点はこの主人が「商売をしなさい」と命じた十人の過ごし方にあります。しもべらは、主人が遠くの国に行って不在の中、主人のために仕えることを求められています。これは今の私たちにも共通して言えることです。また国民は彼が王になることを望まなかったのも、今の世界と共通しています。親族や地域でイエスさまを歓迎したり、認めたりする人がいるのは「稀(まれ)」ではないでしょうか。世の中の価値観も、倫理も荒れる方へ加速しており、非常に厳しい状況の中で、見えない主人に仕えるのです。
・一人1ミナの意味
十人のしもべには十ミナ=ひとり一ミナずつ分配されます。マタイのタラントのたとえは3人それぞれ分配額が違うのに対し、ここでは全員が同じ額をもらっています。それは、このミナが能力やタレント(才能・賜物)を表すのではなく、主人に対する使命を表すものだからです。神に仕えるという点において、誰もが平等です。ある人は熱心に神に仕え、ある人はそうでなくてもよい、ということはありません。時代や環境、量や種類がちがっても、「神に対していかに生きるか」という使命は全員に向けられています。各人、いかに主人に仕えるか。あなたがいかに主人を大切に思って過ごすか。そうした主に対する生き方を測るのための1ミナでした。
・いかに仕えたか
はじめのしもべは預かった一ミナで十ミナを儲け、十の町を任されます。次の五ミナを儲けたしもべは五つの町です。しかし、3人目のしもべは布に包んでいたため一ミナのまま主人に返しました。「主人は厳しく、恐ろしくて怖かった」からです。主人は報いを与えるどころか、それを聞いて怒り、一ミナさえも取り上げます。はじめに王となることを拒否した国民にも厳しいさばきが結末に与えられています。これらのしもべの違いは、主人に対する生き方=神への信仰を発揮させるか、隠すかの違いです。五ミナ、十ミナをもうけたしもべのように、神への信仰を堂々と掲げて生きるなら、そこには大胆さと思い切りの良さ、力や成長が生まれるのです。主人不在の中、主人への忠誠を掲げて世間で生きるのは大変な勇気がいることです。しかも、国民はその主人を憎み、王になることを反対している状況だからです。そのような世間に押されたり、任せてくれた主人を恐れてその信仰を眠らせてしまうなら、その人の生き方は萎縮し、ますます恐怖感が募るようになるのです。王はともに町を治める勇士を求めておられます。鮮明に信仰を表明し、大胆な力をいただきましょう。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

まことの主がおられる

主日礼拝 2018年7月22日

聖書の言葉

これらのことを話して後、 イエスは、 さらに進んで、 エルサレムへと上って行かれた。
オリーブという山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づかれたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、 まだだれも乗ったことのない、 ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。 それをほどいて連れて来なさい。もし、 『なぜ、 ほどくのか』と尋ねる人があったら、 こう言いなさい。 『主がお入用なのです。 』」
使いに出されたふたりが行って見ると、 イエスが話されたとおりであった。
彼らがろばの子をほどいていると、 その持ち主が、 「なぜ、 このろばの子をほどくのか」と彼らに言った。
弟子たちは、 「主がお入用なのです」と言った。
そしてふたりは、 それをイエスのもとに連れて来た。 そして、そのろばの子の上に自分たちの上着を敷いて、イエスをお乗せした。

「ルカの福音書19章28-40節」(抜粋)

牧師の言葉

いつも先頭で導いてくださる主イエス
イエスさまの周りには、特別な十二使徒と弟子たち、女性たち、またその町々の群衆がいつも付いていました。そのため、時にはご自分一人だけで寂しいところへいって祈ることも大事にされていました。さて、イエスさまに付いていた人々、特に弟子たちはどんな人たちだったでしょうか?特別賢い人物に限定とか決まった立場、職業にあるわけではありませんでした。前の18章では「弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった」(38節)とあるように、イエスさまの言われていることがよく理解できていなかったようです。それでも、今朝の場面でイエスさまは彼らの先頭に立ってエルサレムへと向かわれます。それは、弟子たちが賢いからではなく、どんな分からず屋でも、今は自信がなくても、イエスさまはその人を導いてくださるのだ、ということです。そんなイエスさまが、二人の弟子に向かって「向こうの村でつながれている子ろばがいたらほどいて持ってきなさい」と言われました。そうして、向かうと弟子たちは、言われたとおりの子ろばを見つけることになるのです。しかし、ろばの持ち主に断りなしに、つないでいた紐をほどくことは大変勇気のいることです!どこまでイエスさまを信頼するべきなのでしょうか?イエスさまはそう言われたけど、やはりこれはいけないことだ・・・持ち主の意向をまず聞かないと・・・状況が整わないと不安だし・・・そういった思いが駆け巡るのが自然なのことではないでしょうか。しかし、弟子たちはまずイエスさまの命令に従ったのです。

最高の場所で用いられる生き方を
イエスさまは、その時の言葉もあらかじめ教えてくださっていました。持ち主に「どうしてほどくのか」と聞かれたら「主がお入り用なのです」と言いなさい、です。ここでの「持ち主(複数形)」と「主(単数形)」とは同じ言葉が使われていて、それは、まるで「子ろばの真の持ち主はただお一人で、それは主イエスです」と言えるような仕方です。これを聞いた持ち主たちは、素直にその言葉に従い、弟子たちが連れて行くのを許してくれました。自分の所有物を、まことの主のためにささげたのです。自分で囲って持っておくよりも、主のために連れ出された方が良いと判断しました。
さて、あなたはいかがでしょうか?自分の所有だと考えているものに対して「主がお入り用なのです(必要を持っておられます)」と切り出されたら・・・自分で囲って握りしめるでしょうか?それとも明け渡すことができるでしょうか?実は、この子ろばはイエスさまをお載せするという最高の仕事のために連れ出されました。あなたを最高の場所で、これ以上ない栄えある仕事のために用いることができるのは・・・自分や社会や世間ではなく、もうおわかりですね。まことの主だけがおできになります!

トランスフォーマー

主日礼拝 2018年7月8日

聖書の言葉

それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

ルカの福音書19章1〜10節

牧師の言葉

(この日のメッセージは福迫真里師(バンクーバー日系人福音教会)です)
車が何のパーツもつけたり取ったりせずに、ロボットに変身。またロボットから車に変身する「トランスフォーマー」。2007年から始まった映画も大人気で、トランスフォーマーのおもちゃも多く出回っている。同じパーツしかないにも関わらず、全く違う形に変身し、役割まで変わってしまうのである。

聖書の中には、同じ姿かたちの人間でありながら、神様と出会って生き方が、価値観が、全く変わってしまった人を多く見ることができる。「ザアカイ」もその一人。彼は取税人のかしらであった。当時のイスラエル地方はローマの支配下にあり、ローマに統治されていたのである。そのローマの言いなりに、ユダヤ人たちから税金を集めていたのが取税人という仕事。そのため、ユダヤ人でありながらローマに取り入っているように思われ、人々から嫌われる仕事であった。また、このザアカイはその中でも、取税人のかしらであり、それゆえ、金持ちであった。彼は、人々から嫌われていた。彼は、お金さえあれば、自分はそれでいいんだ・・・と自分に言い聞かせていたかもしれない。しかし、彼の心はお金では満たされないものがあった。イエス様がエリコを通ることを知ると、必死でイエス様を一目見ようとする。その彼の姿には、尋常ではない執着心のようなものを感じる。イエス様は、そんなザアカイに向かって、「ザアカイ」と彼の名前で呼びかけ、彼の家に泊まることにしてあると人々の前で公言されたのである。イエス様の口から自分の名前を聞いたザアカイはどんな気持であったのだろうか。そして、誰も訪ねてこないような彼の家に、泊まりに来てくださると言う。ザアカイはもはやお金さえあればいいんだという鎧を着る必要はなくなった。自分の名前を呼び、家に泊まりに来てくださるイエス様がおられる。彼はこれだけで十分であった。大喜びでイエス様を迎え入れただけでなく、以前の彼からは信じられない約束を発言した。彼は自分の財産を半分は貧しい人に。だまし取ったものは、四倍にして返します。とイエス様に約束したのである。彼の価値観は、もはやお金ではなくなった。彼はイエス様から愛されていることを体験し、この愛によって満たされることを知ったのである。人からだまし取る人生から、人に施しをする人生へと変えられた。「ザアカイ」は「ザアカイ」のままである。背は低いし、何も変わらない。しかし、彼の内側は変えられたのである。それにより、奪う人生から与える人生に役割も変わったのである。
イエス様は神様であり、私たち自身も気づいていない心の渇きや寂しさ、満たされない思いをすべてご存知なのである。イエス様を信じたからと言って、急に頭が良くなったり、運動ができるようになったり、背が伸びたり、鼻が高くなったりすることはない。自分は自分のままである。しかし、そのままの自分の内側がイエス様の愛によって変えられて、受ける者から与える者へ。不平から感謝へ。憎しみから愛へ。嘆きから喜びへと、この世の中にあっての役割が変えられていくのである。
「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17

恐怖と大胆

主日礼拝 2018年7月1日

聖書の言葉

「ある身分の高い人が、 遠い国に行った。 王位を受けて帰るためであった。彼は自分の十人のしもべを呼んで、 十ミナを与え、 彼らに言った。 『私が帰るまで、 これで商売しなさい。 』しかし、 その国民たちは、 彼を憎んでいたので、 あとから使いをやり、 『この人に、 私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った。さて、 彼が王位を受けて帰って来たとき、 金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、 彼らを呼び出すように言いつけた。
さて最初の者が現れて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。 』
主人は彼に言った。 『よくやった。 良いしもべだ。 あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、 十の町を支配する者になりなさい。 』
二番目の者が来て言った。 『ご主人さま。 あなたの一ミナで、 五ミナをもうけました。 』
主人はこの者にも言った。 『あなたも五つの町を治めなさい。 』
もうひとりが来て言った。 『ご主人さま。 さあ、 ここにあなたの一ミナがございます。 私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、 きびしい方ですから、 恐ろしゅうございました。 あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、 お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。 』
主人はそのしもべに言った。 『悪いしもべだ。 私はあなたのことばによって、 あなたをさばこう。 あなたは、 私が預けなかったものを取り立て、 蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、 というのか。だったら、 なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。 そうすれば私は帰って来たときに、 それを利息といっしょに受け取れたはずだ。 』
そして、 そばに立っていた者たちに言った。 『その一ミナを彼から取り上げて、 十ミナ持っている人にやりなさい。 』

「ルカの福音書19章11-27節」(抜粋)

牧師の言葉

ここは「十ミナのたとえ」です。マタイの福音書25章に「タラントのたとえ」が出てきますが、それに似た部分と違う部分があります。このルカの福音書ではイエスさまがいよいよ十字架にかかるエルサレムを目前にして語られています。
・主人(王)が不在の中で
 イエスさまは、神の国はすぐにでも到来すると人々が思っていたところでこのたとえを話されました。「ある身分の高い人が王位を受けるために遠い国に出かける」とはイエスさまが十字架にかかり、復活し、天に昇られることを示しています。
一方、「彼が私たちの王になってくれるなと拒絶する国民」とは当時イエスさまを十字架につけた群衆、イエスさまに敵対する人々を指します。そして、焦点はこの主人が「商売をしなさい」と命じた十人の過ごし方にあります。しもべらは、主人が遠くの国に行って不在の中、主人のために仕えることを求められています。これは今の私たちにも共通して言えることです。また国民は彼が王になることを望まなかったのも、今の世界と共通しています。親族や地域でイエスさまを歓迎したり、認めたりする人がいるのは「稀(まれ)」ではないでしょうか。世の中の価値観も、倫理も荒れる方へ加速しており、非常に厳しい状況の中で、見えない主人に仕えるのです。
・一人1ミナの意味
十人のしもべには十ミナ=ひとり一ミナずつ分配されます。マタイのタラントのたとえは3人それぞれ分配額が違うのに対し、ここでは全員が同じ額をもらっています。それは、このミナが能力やタレント(才能・賜物)を表すのではなく、主人に対する使命を表すものだからです。神に仕えるという点において、誰もが平等です。ある人は熱心に神に仕え、ある人はそうでなくてもよい、ということはありません。時代や環境、量や種類がちがっても、「神に対していかに生きるか」という使命は全員に向けられています。各人、いかに主人に仕えるか。あなたがいかに主人を大切に思って過ごすか。そうした主に対する生き方を測るのための1ミナでした。
・いかに仕えたか
はじめのしもべは預かった一ミナで十ミナを儲け、十の町を任されます。次の五ミナを儲けたしもべは五つの町です。しかし、3人目のしもべは布に包んでいたため一ミナのまま主人に返しました。「主人は厳しく、恐ろしくて怖かった」からです。主人は報いを与えるどころか、それを聞いて怒り、一ミナさえも取り上げます。はじめに王となることを拒否した国民にも厳しいさばきが結末に与えられています。これらのしもべの違いは、主人に対する生き方=神への信仰を発揮させるか、隠すかの違いです。五ミナ、十ミナをもうけたしもべのように、神への信仰を堂々と掲げて生きるなら、そこには大胆さと思い切りの良さ、力や成長が生まれるのです。主人不在の中、主人への忠誠を掲げて世間で生きるのは大変な勇気がいることです。しかも、国民はその主人を憎み、王になることを反対している状況だからです。そのような世間に押されたり、任せてくれた主人を恐れてその信仰を眠らせてしまうなら、その人の生き方は萎縮し、ますます恐怖感が募るようになるのです。王はともに町を治める勇士を求めておられます。鮮明に信仰を表明し、大胆な力をいただきましょう。

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