日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「本物になれ」

主日礼拝 2018年2月4日

14:25  さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたがイエスは彼らのほうに向いて言われた。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。
また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。
そういうわけで、あなたがたはだれでも、 自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。
ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。 14:35 土地にも肥やしにも役立たず、外に捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」

「ルカの福音書14章25-35節」(抜粋)

牧師の言葉

◆大ぜいの人に向かって
ここで、イエスさまには「大ぜいの群衆」がいっしょに歩いていました。そこで主イエスは振り返り、何度も「わたしの弟子になることはできません」(26,26,33節)と言われました。普通なら一人でも多くの人をご自分の近くへ置いておきたいと思うものです。あえて突き放すような言い方をされたのはなぜでしょうか?それは、主イエスの弟子=付き従う者は「本物であってほしい」から です。主の弟子の持つべき覚悟は「自分の父、母、妻、子、兄弟に姉妹、ひいては自分のいのちや全財産」を憎み、捨てなければならないと言われるほどです。これは文字通り家族親族に憎しみを抱き切り捨てよ、というわけではありません。主は、あなたの父と母を敬え、兄弟・隣人を愛せよ、と言われるお方だからです。ここでは、世にあるものより神を愛することが鮮明に打ち出されています。そして、どんなものであっても主イエスのために気持ちよく差し出せるチャレンジがあるのです。それは年齢、性別、職種、国籍に関係なく「大ぜいの群衆」すべてに求めておられるものなのです。

◆背負うべきもの
捨てるべきものを示されつつ、主イエスは「自分の十字架を負ってついて来なさい」(27節)とも言われます。「自分の十字架」とはいったい何でしょう?これに続いて、塔を建てる際には予算を計算しないと途中で恥をかく、数的に優位な王とは戦わずに講話を求めるたとえが話されます。それは、主の弟子になることを「自分にできるかどうか」よくよく吟味して決断しなければならないことを教えています。もし主の弟子への招きを断るのであれば、自分の中に真の平安があるか確認できないといけません。もし、自分はイエスを主とすることを決意したのであれば、塩けを最後まで保つ塩のように、これからどんな局面においても、キリストの弟子として生き続けるのです。途中で放り投げるのは十字架ではありません。なるなら本物の弟子になりましょう。その他はいりません。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

本物になれ

主日礼拝 2018年2月4日

聖書の言葉

14:25  さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたがイエスは彼らのほうに向いて言われた。
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言うでしょう。
また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。
そういうわけで、あなたがたはだれでも、 自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。
ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。 14:35 土地にも肥やしにも役立たず、外に捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」

「ルカの福音書14章25-35節」(抜粋)

牧師の言葉

◆大ぜいの人に向かって
ここで、イエスさまには「大ぜいの群衆」がいっしょに歩いていました。そこで主イエスは振り返り、何度も「わたしの弟子になることはできません」(26,26,33節)と言われました。普通なら一人でも多くの人をご自分の近くへ置いておきたいと思うものです。あえて突き放すような言い方をされたのはなぜでしょうか?それは、主イエスの弟子=付き従う者は「本物であってほしい」から です。主の弟子の持つべき覚悟は「自分の父、母、妻、子、兄弟に姉妹、ひいては自分のいのちや全財産」を憎み、捨てなければならないと言われるほどです。これは文字通り家族親族に憎しみを抱き切り捨てよ、というわけではありません。主は、あなたの父と母を敬え、兄弟・隣人を愛せよ、と言われるお方だからです。ここでは、世にあるものより神を愛することが鮮明に打ち出されています。そして、どんなものであっても主イエスのために気持ちよく差し出せるチャレンジがあるのです。それは年齢、性別、職種、国籍に関係なく「大ぜいの群衆」すべてに求めておられるものなのです。

◆背負うべきもの
捨てるべきものを示されつつ、主イエスは「自分の十字架を負ってついて来なさい」(27節)とも言われます。「自分の十字架」とはいったい何でしょう?これに続いて、塔を建てる際には予算を計算しないと途中で恥をかく、数的に優位な王とは戦わずに講話を求めるたとえが話されます。それは、主の弟子になることを「自分にできるかどうか」よくよく吟味して決断しなければならないことを教えています。もし主の弟子への招きを断るのであれば、自分の中に真の平安があるか確認できないといけません。もし、自分はイエスを主とすることを決意したのであれば、塩けを最後まで保つ塩のように、これからどんな局面においても、キリストの弟子として生き続けるのです。途中で放り投げるのは十字架ではありません。なるなら本物の弟子になりましょう。その他はいりません。

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