日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「有益な子育てのために」

主日礼拝 2018年11月11日

そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。
「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。 主に叱られて気落ちしてはならない。
主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、 むちを加えられるのだから。」
訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。
さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。
すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

「ヘブル人への手紙12章4-11節」(抜粋)

牧師の言葉

この日は「子ども祝福式」を執り行った際のメッセージです。子を持つ方は親として、あるいは自分が子であったことを思いつつ、上の聖書からともに以下3つのことを学びたいと願います。
1. 子育て・人間関係の目的
親であれば我が子の成功や祝福を願うものです。子を粗末に扱い、無関心でいる親はまずいません。もし子に対してそういう態度になるとしたら、他人の子ぐらいのものです。では「成功」とは何を基準にしているのでしょう。社会や世の中では一般的には、健康で、学歴があり、仕事がこなせ、お金を持ち、実績や称賛を受け取ることに目安が置かれています。今朝の聖書箇所では「(神は)ご自分の聖さにあずからせよう」(12:10)とあり、世とは別の目的・価値観を提供しておられます。聖書が教える成功とは、神のご性質を知り、身につけていく人のことです。一歩ずつ神に近づき、神と出会う人です。その人はどこでも希望を持ち、他者を勇気づけます。
2. 訓練・懲らしめの意味
この目的を達成するために「訓練」という言葉が何度も登場します。すべての訓練は神の聖さにあずかるという目的のために使われる手段なのです。この「訓練」とは「懲らしめ」とも訳される言葉で、非常に強いものです。誰も「懲らしめられること」を好む人はいません。何よりも今は「私は褒められて伸びるタイプです」とか「怒られ慣れてない世代」ということを耳にする時代です。しかし、この「訓練・懲らしめ」には子よりも偉大な親に託された権威でもあります。もし親が感情的に怒鳴ったり、子を所有物のように扱うなら、その心は届くことはありません。この「訓練・懲らしめ」という言葉には「子が栄えるために正す」という意味が本来です。親の腹いせや自分の気を静めるためではありません。子がより優れた者となるために、愛をもって矯正することです。それが成功した人生を送る大事な要素、素地となり、祝福をもたらします。
3. 有益的なやり方で
あなたにはどのような「訓練の経験」がありますか?思い返すと、人生の糧となり、忘れられない出来事、分岐点となったのは、試練や痛い思いをした経験ではないでしょうか。嫌だと思っていた苦い経験が、今の自分にたくましさや忍耐深さ、土台を形成することになったと言えるものがあるはずです。近視眼的・短絡的に考えず、すべてをそのご計画に従って働かせることの出来る神さまからの訓練だと位置づけられたなら、あなたの人生は捨てたものではありません。あなたが親であるなら、懲らしめを控えると、その子を不幸にすることを肝に銘じるべきです。ただし、場当たり的、感情的な言葉や教育はかえって逆効果となります。家庭で会話や経験の共有を最優先して信頼関係を結び、愛情をもって訓練することは、必ずその子に有益な影響をもたらします。

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聖書の言葉

「わたしを覚えて」

主日礼拝 2018年11月4日

その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った。
イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。 あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません。」
そしてイエスは杯を取り、感謝の祈りをささげてから言われた。「これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。 あなたがたに言います。今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません。」
それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。

「ルカの福音書22章1-23節」(抜粋)

牧師の言葉

序. 主イエスが、私たち教会が守り行うように定められた式は2つあります。それが「洗礼式」と「聖餐式」です。ここでは「聖餐式」についてその成り立ち(ルーツ)と行い続けることの意味を学びます。
1. 過越(すぎこし)の食事として
この場面は、イエスさまが十字架にかかられる前夜です。処刑が近づいているイエスさまの切なる願いは「弟子たちといっしょに過越の食事」をすることでした(15節)。それはどうしても伝えたいことがあったからです。過越とは旧約時代にイスラエルの民がエジプトで奴隷であった時、その苦しみの叫びを聞き入れられた神さまが、みことば通りに子羊を屠り、その血を門柱と鴨居に塗っている家は、そのさばきを「過ぎ越された」ことに由来しています。以来、イスラエルの民は年に一度絶やさず過越の食事を守り、奴隷からの解放と救出してくださった神のみわざを褒め称えていました。過越は救出と新しい人生の始まりの到来を告げるものだったのです。
2. パンとぶどう酒が表すもの
ここでイエスさまは、過越の際に屠られる子羊にご自分をなぞらえて「これはわたしのからだです」「わたしの血による、新しい契約です」(19,20節)と教えられました。これが今の聖餐式の原点になっています。イエスさまは罪を犯した者の身代わりとしてそのからだを十字架ではりつけにされ、罪の赦しのために流されなければならない血を、潮のように吹き流されたのです。それまで毎年、毎週犠牲のいけにえが神殿礼拝ではささげられていましたが、イエスさまが十字架にかかられたことで、完全な罪の赦しと贖いがなされたので、もう私たちは動物のいけにえをささげる必要はなくなりました。その代わり、聖餐式によって、主イエスを信じる者は罪が赦され、神の国に入り、永遠のいのちが与えられるという新しい契約に生きる者と招待されるのです。
3. わたしを覚えて、行いなさい
動物のいけにえの代わりに、イエスさまは弟子たちがこれからは聖餐式を守り続けるよう指示を残されました。その目的は「わたしを覚えて行いなさい」というものです。それは、一度きりの十字架の死によって罪の罰、代償としては完全で十分であることを理解するためです。それは、当時弟子たちがイエスさまといっしょに食事をしたのと同じように確かに、私たちが聖餐式で味わうパンとぶどう酒において、イエスさまとのリアルな交わりが実現し、救いへの招きと完成が本物であることを私たちが確認してよいためです。罪の奴隷からの解放と本物に生きる指針のため、イエスさまはすべてのことをしてくださいました。私たちはまずその救いを受け取り、味わうことから始めるのです。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

有益な子育てのために

主日礼拝 2018年11月11日

聖書の言葉

そして、あなたがたに向かって子どもたちに対するように語られた、この励ましのことばを忘れています。
「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。 主に叱られて気落ちしてはならない。
主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、 むちを加えられるのだから。」
訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、すべての子が受けている訓練を受けていないとしたら、私生児であって、本当の子ではありません。
さらに、私たちには肉の父がいて、私たちを訓練しましたが、私たちはその父たちを尊敬していました。それなら、なおのこと、私たちは霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。肉の父はわずかの間、自分が良いと思うことにしたがって私たちを訓練しましたが、霊の父は私たちの益のために、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして訓練されるのです。
すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。

「ヘブル人への手紙12章4-11節」(抜粋)

牧師の言葉

この日は「子ども祝福式」を執り行った際のメッセージです。子を持つ方は親として、あるいは自分が子であったことを思いつつ、上の聖書からともに以下3つのことを学びたいと願います。
1. 子育て・人間関係の目的
親であれば我が子の成功や祝福を願うものです。子を粗末に扱い、無関心でいる親はまずいません。もし子に対してそういう態度になるとしたら、他人の子ぐらいのものです。では「成功」とは何を基準にしているのでしょう。社会や世の中では一般的には、健康で、学歴があり、仕事がこなせ、お金を持ち、実績や称賛を受け取ることに目安が置かれています。今朝の聖書箇所では「(神は)ご自分の聖さにあずからせよう」(12:10)とあり、世とは別の目的・価値観を提供しておられます。聖書が教える成功とは、神のご性質を知り、身につけていく人のことです。一歩ずつ神に近づき、神と出会う人です。その人はどこでも希望を持ち、他者を勇気づけます。
2. 訓練・懲らしめの意味
この目的を達成するために「訓練」という言葉が何度も登場します。すべての訓練は神の聖さにあずかるという目的のために使われる手段なのです。この「訓練」とは「懲らしめ」とも訳される言葉で、非常に強いものです。誰も「懲らしめられること」を好む人はいません。何よりも今は「私は褒められて伸びるタイプです」とか「怒られ慣れてない世代」ということを耳にする時代です。しかし、この「訓練・懲らしめ」には子よりも偉大な親に託された権威でもあります。もし親が感情的に怒鳴ったり、子を所有物のように扱うなら、その心は届くことはありません。この「訓練・懲らしめ」という言葉には「子が栄えるために正す」という意味が本来です。親の腹いせや自分の気を静めるためではありません。子がより優れた者となるために、愛をもって矯正することです。それが成功した人生を送る大事な要素、素地となり、祝福をもたらします。
3. 有益的なやり方で
あなたにはどのような「訓練の経験」がありますか?思い返すと、人生の糧となり、忘れられない出来事、分岐点となったのは、試練や痛い思いをした経験ではないでしょうか。嫌だと思っていた苦い経験が、今の自分にたくましさや忍耐深さ、土台を形成することになったと言えるものがあるはずです。近視眼的・短絡的に考えず、すべてをそのご計画に従って働かせることの出来る神さまからの訓練だと位置づけられたなら、あなたの人生は捨てたものではありません。あなたが親であるなら、懲らしめを控えると、その子を不幸にすることを肝に銘じるべきです。ただし、場当たり的、感情的な言葉や教育はかえって逆効果となります。家庭で会話や経験の共有を最優先して信頼関係を結び、愛情をもって訓練することは、必ずその子に有益な影響をもたらします。

わたしを覚えて

主日礼拝 2018年11月4日

聖書の言葉

その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った。
イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。 あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません。」
そしてイエスは杯を取り、感謝の祈りをささげてから言われた。「これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。 あなたがたに言います。今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません。」
それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。

「ルカの福音書22章1-23節」(抜粋)

牧師の言葉

序. 主イエスが、私たち教会が守り行うように定められた式は2つあります。それが「洗礼式」と「聖餐式」です。ここでは「聖餐式」についてその成り立ち(ルーツ)と行い続けることの意味を学びます。
1. 過越(すぎこし)の食事として
この場面は、イエスさまが十字架にかかられる前夜です。処刑が近づいているイエスさまの切なる願いは「弟子たちといっしょに過越の食事」をすることでした(15節)。それはどうしても伝えたいことがあったからです。過越とは旧約時代にイスラエルの民がエジプトで奴隷であった時、その苦しみの叫びを聞き入れられた神さまが、みことば通りに子羊を屠り、その血を門柱と鴨居に塗っている家は、そのさばきを「過ぎ越された」ことに由来しています。以来、イスラエルの民は年に一度絶やさず過越の食事を守り、奴隷からの解放と救出してくださった神のみわざを褒め称えていました。過越は救出と新しい人生の始まりの到来を告げるものだったのです。
2. パンとぶどう酒が表すもの
ここでイエスさまは、過越の際に屠られる子羊にご自分をなぞらえて「これはわたしのからだです」「わたしの血による、新しい契約です」(19,20節)と教えられました。これが今の聖餐式の原点になっています。イエスさまは罪を犯した者の身代わりとしてそのからだを十字架ではりつけにされ、罪の赦しのために流されなければならない血を、潮のように吹き流されたのです。それまで毎年、毎週犠牲のいけにえが神殿礼拝ではささげられていましたが、イエスさまが十字架にかかられたことで、完全な罪の赦しと贖いがなされたので、もう私たちは動物のいけにえをささげる必要はなくなりました。その代わり、聖餐式によって、主イエスを信じる者は罪が赦され、神の国に入り、永遠のいのちが与えられるという新しい契約に生きる者と招待されるのです。
3. わたしを覚えて、行いなさい
動物のいけにえの代わりに、イエスさまは弟子たちがこれからは聖餐式を守り続けるよう指示を残されました。その目的は「わたしを覚えて行いなさい」というものです。それは、一度きりの十字架の死によって罪の罰、代償としては完全で十分であることを理解するためです。それは、当時弟子たちがイエスさまといっしょに食事をしたのと同じように確かに、私たちが聖餐式で味わうパンとぶどう酒において、イエスさまとのリアルな交わりが実現し、救いへの招きと完成が本物であることを私たちが確認してよいためです。罪の奴隷からの解放と本物に生きる指針のため、イエスさまはすべてのことをしてくださいました。私たちはまずその救いを受け取り、味わうことから始めるのです。

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