日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「暗やみと剣」

主日礼拝 2019年1月13日

それから、イエスは弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も袋も履き物も持たせずに遣わしたとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。
すると言われた。「しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい。あなたがたに言いますが、『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現するのです。」 彼らが、「主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります」と言うと、イエスは、「それで十分」と答えられた。
イエスの周りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。 そして、そのうちの一人が大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。するとイエスは、「やめなさい。そこまでにしなさい」と言われた。そして、耳にさわって彼を癒やされた。それからイエスは、押しかけて来た祭司長たち、宮の守衛長たち、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って出て来たのですか。 わたしが毎日、宮で一緒にいる間、あなたがたはわたしに手をかけませんでした。しかし、今はあなたがたの時、暗闇の力です。」

「ルカの福音書22章35-53節」(抜粋)

牧師の言葉

序. 私たちが罪や過ち、失敗を犯すには2つの要因がある。一つはしようとすることが出来ないとき。もう一つは判断そのものが間違っているとき。前者は能力的に難しい場合がありますが、後者に関しては選択の余地があります。私たちが聖書=神の言葉を前にし、心して聞くとき、判断や識別力において新しい人が造られていきます。聖書を真摯に聴くことからまことの礼拝と新しい人への歩みが始まるのです。
1. 剣を持つ生き方
ここでイエスさまは「財布も袋も持って行きなさい」(35節)と言われました。これまで9章や10章では弟子たちを「財布も袋も履き物も持たせずに」宣教の旅へと遣わしたのですが、ここでは真逆です。それはイエスさまの考えが変わったのではなく、この直前でペテロが「牢であると死であろうと覚悟はできております」(33節)と自分の力や信念を軸にやっていこうとしていたからでした。そういう時、私たちは意気込み、威勢を保ってやる気になるものですが、それだけでイエスに従うことはできないのです。私たちがイエスを信じ、付き従っていくためにはイエスさまによる「とりなしの祈り」(32節)こそが必要なのです。自分を支えるものが自分であれば心許ないことを、分からせるための箇所なのです。
2. 人間の時、暗闇の力
そうして「剣」を持った弟子たちは、イエスさまににじり寄った兵士に切りかかりました(50節)。人がひとたび「剣」を持ち出せば、必ず剣を振りかざし、人を傷つけるしかなくなるのです。並行箇所では「剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52)とある通りでした。これを53節で「今はあなたがたの時、暗闇の力です」と言われています。人間による支配は暗闇が世を覆う。戦争、奴隷、植民地、迫害、原発、隠ぺい、改ざん、数の論理、暴力、不祥事、虚偽など枚挙にいとまがありません。これらは解決も救いも私たちにもたらしません。
3. イエスさまのされること
そんな闇の力が猛威をふるう中、イエスさまにはここで2つのことをしておられます。一つは「耳にさわって彼を癒やされた」(51節)とあるように、この世で傷ついた人を癒やす働きです。しかもそれは、私たちが傷つけた人を癒やしてくださるという意味です。自分の受けた傷はもとより、自分が傷つけてしまった人をイエスさまが代わりに癒やしてくださる。ここに希望があります。もう一つは「彼は不法な者たちとともに数えられた」(37節)と旧約聖書イザヤ53章から引用された、罪人と同じようになり、その罪を負い、身代わりとなって死なれ、しかもすべての人の救いのためにとりなしをされる働きです。父なる神の御前ではイエスのわざだけが完全な義です。私たちには失敗のない弁護者(とりなし)がいてくださるのです。この方によってのみ、救いが与えられます。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

暗やみと剣

主日礼拝 2019年1月13日

聖書の言葉

それから、イエスは弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も袋も履き物も持たせずに遣わしたとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。
すると言われた。「しかし今は、財布のある者は財布を持ち、同じように袋も持ちなさい。剣のない者は上着を売って剣を買いなさい。あなたがたに言いますが、『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていること、それがわたしに必ず実現します。わたしに関わることは実現するのです。」 彼らが、「主よ、ご覧ください。ここに剣が二本あります」と言うと、イエスは、「それで十分」と答えられた。
イエスの周りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。 そして、そのうちの一人が大祭司のしもべに切りかかり、右の耳を切り落とした。するとイエスは、「やめなさい。そこまでにしなさい」と言われた。そして、耳にさわって彼を癒やされた。それからイエスは、押しかけて来た祭司長たち、宮の守衛長たち、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って出て来たのですか。 わたしが毎日、宮で一緒にいる間、あなたがたはわたしに手をかけませんでした。しかし、今はあなたがたの時、暗闇の力です。」

「ルカの福音書22章35-53節」(抜粋)

牧師の言葉

序. 私たちが罪や過ち、失敗を犯すには2つの要因がある。一つはしようとすることが出来ないとき。もう一つは判断そのものが間違っているとき。前者は能力的に難しい場合がありますが、後者に関しては選択の余地があります。私たちが聖書=神の言葉を前にし、心して聞くとき、判断や識別力において新しい人が造られていきます。聖書を真摯に聴くことからまことの礼拝と新しい人への歩みが始まるのです。
1. 剣を持つ生き方
ここでイエスさまは「財布も袋も持って行きなさい」(35節)と言われました。これまで9章や10章では弟子たちを「財布も袋も履き物も持たせずに」宣教の旅へと遣わしたのですが、ここでは真逆です。それはイエスさまの考えが変わったのではなく、この直前でペテロが「牢であると死であろうと覚悟はできております」(33節)と自分の力や信念を軸にやっていこうとしていたからでした。そういう時、私たちは意気込み、威勢を保ってやる気になるものですが、それだけでイエスに従うことはできないのです。私たちがイエスを信じ、付き従っていくためにはイエスさまによる「とりなしの祈り」(32節)こそが必要なのです。自分を支えるものが自分であれば心許ないことを、分からせるための箇所なのです。
2. 人間の時、暗闇の力
そうして「剣」を持った弟子たちは、イエスさまににじり寄った兵士に切りかかりました(50節)。人がひとたび「剣」を持ち出せば、必ず剣を振りかざし、人を傷つけるしかなくなるのです。並行箇所では「剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタイ26:52)とある通りでした。これを53節で「今はあなたがたの時、暗闇の力です」と言われています。人間による支配は暗闇が世を覆う。戦争、奴隷、植民地、迫害、原発、隠ぺい、改ざん、数の論理、暴力、不祥事、虚偽など枚挙にいとまがありません。これらは解決も救いも私たちにもたらしません。
3. イエスさまのされること
そんな闇の力が猛威をふるう中、イエスさまにはここで2つのことをしておられます。一つは「耳にさわって彼を癒やされた」(51節)とあるように、この世で傷ついた人を癒やす働きです。しかもそれは、私たちが傷つけた人を癒やしてくださるという意味です。自分の受けた傷はもとより、自分が傷つけてしまった人をイエスさまが代わりに癒やしてくださる。ここに希望があります。もう一つは「彼は不法な者たちとともに数えられた」(37節)と旧約聖書イザヤ53章から引用された、罪人と同じようになり、その罪を負い、身代わりとなって死なれ、しかもすべての人の救いのためにとりなしをされる働きです。父なる神の御前ではイエスのわざだけが完全な義です。私たちには失敗のない弁護者(とりなし)がいてくださるのです。この方によってのみ、救いが与えられます。

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