日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「隠された目、開かれた目」

主日礼拝 2018年6月10日

さてイエスは、 十二弟子をそばに呼んで、 彼らに話された。 「さあ、 これから、 わたしたちはエルサレムに向かって行きます。 人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、 そして彼らにあざけられ、 はずかしめられ、 つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。 しかし、 人の子は三日目によみがえります。 」
しかし弟子たちには、 これらのことが何一つわからなかった。 彼らには、 このことばは隠されていて、 話された事が理解できなかった。
イエスがエリコに近づかれたころ、 ある盲人が、 道ばたにすわり、 物ごいをしていた。
群衆が通って行くのを耳にして、 これはいったい何事ですか、 と尋ねた。
ナザレのイエスがお通りになるのだ、 と知らせると、彼は大声で、 「ダビデの子のイエスさま。 私をあわれんでください」と言った。
彼を黙らせようとして、 先頭にいた人々がたしなめたが、 盲人は、 ますます「ダビデの子よ。 私をあわれんでください」と叫び立てた。
イエスは立ち止まって、 彼をそばに連れて来るように言いつけられた。
彼が近寄って来たので、 「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、 彼は、 「主よ。 目が見えるようになることです」と言った。
イエスが彼に、 「見えるようになれ。 あなたの信仰があなたを直したのです」と言われると、
彼はたちどころに目が見えるようになり、 神をあがめながらイエスについて行った。 これを見て民はみな神を賛美した。

「ルカの福音書18章28-43節」(抜粋)

牧師の言葉

1・隠されていた使徒たちの目
イエスさまには多くの人々がつき従っていましたが、特に目をかけ、ともに時間を過ごしたのが使徒と呼ばれる十二人です。彼らは特別出来がよかったとか秀でた才能があったわけではありません。言い方は良くないかも知れませんが、使徒たちはどこにでもいる人たちで、前職も漁師や取税人、政治活動家など様々でした。彼らが特別だったわけではなく、イエスさまが特別に彼らをそばに置いて教えられたのです。私たちはそれぞれイエスさまから特別扱いをされる存在である、というわけです。彼らはイエスさまと一番長く、濃い時間を過ごしましたが、その言動は人間味あふれるものです。ここの箇所でも「私たちは自分のものを捨てて、従ってきました」と言っています。自分は特別なことをしている、他の人とは違う献身の仕方だ・・・といった出世的な匂いを発していたのです。それでもイエスさまから彼らを切り捨てることはなさらず、十字架と復活後までとことん付き合っておられます。イエスさまは、最後まで私たちを特別扱いしてくださるのです。しかし、この箇所のように、弟子たちや私たちには、すぐイエスさまの愛の深さやあわれみ深さが分からないことがあります。それを「彼らにはこのことばが隠されていて」と聖書は表現しています。使徒たちの目は曇っていたのです・・・そういう彼らとイエスさまはずっと付き合い、見限らなかったところに着目していたいと願います。
2・目を開かれた物乞い
これに続くのが、エリコの町の外で道端にいた物乞いでした。彼は目が見えなかったため、イエスさまが通られることを知ると、大声で「私をあわれんでください」と叫ぶのでした。先回りしていた人たちに静止されても構わない強さで続けます。とうとうイエスさまが立ち止まり、近くに呼んで「わたしに何をしてほしいのか」と問われると、この物乞いは「目が見えるように」と頼みました。この人は、自分のほんとうの問題を知っていたのでしょう。彼が困っていたことはたくさんあったはずです。「毎日、物乞いしなくていいような財産がほしい」、「私の面倒を見てくれる良い人を与えてほしい」など。しかし、それらは一時的な解消でしかなく、彼には目が見えないということが根源的な問題でした。そこを即座に答えられたのは、彼が自分の貧しさを普段から知っていたからにほかなりません。一方、弟子たちは「自分こそ」という実績を引っさげて進み出たのですが、まだ隠されていて、開かれていない目がありました。弟子たちは、自分の惨めさが見えていなかったのです。その根底にはイエスさまのあわれみではなく、自分がどれだけやってきたのかという思いがこびりついていました。彼の目が見えるようになる直前、イエスさまは「あなたの信仰があなたを直した」と言われました。イエスは神の子であり、どんなことでもおできになる神の力と権能を持っておられます。しかし、ここではあえてこの物乞いの信仰に注目するよう仕向けておられます。開かれた彼の信仰の目は本物で、物理的に見えるようになって終わりではなく「イエスについて行った」とあるように、主の弟子となって歩み始めます。あなたの目はイエスさまをどのように見ているでしょうか?

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聖書の言葉

「全面的に神を頼れ」

主日礼拝 2018年6月3日

イエスにさわっていただこうとして、 人々がその幼子たちを、 みもとに連れて来た。 ところが、 弟子たちがそれを見てしかった。
しかしイエスは、 幼子たちを呼び寄せて、 こう言われた。 「子どもたちをわたしのところに来させなさい。 止めてはいけません。 神の国は、 このような者たちのものです。
まことに、 あなたがたに告げます。 子どものように神の国を受け入れる者でなければ、 決してそこに、 入ることはできません。 」
またある役人が、 イエスに質問して言った。 「尊い先生。 私は何をしたら、 永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。 」
イエスは彼に言われた。 「なぜ、 わたしを『尊い』と言うのですか。 尊い方は、 神おひとりのほかにはだれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。 『姦淫してはならない。 殺してはならない。 盗んではならない。 偽証を立ててはならない。 父と母を敬え。 』」
すると彼は言った。 「そのようなことはみな、 小さい時から守っております。 」
イエスはこれを聞いて、 その人に言われた。 「あなたには、 まだ一つだけ欠けたものがあります。 あなたの持ち物を全部売り払い、 貧しい人々に分けてやりなさい。 そうすれば、 あなたは天に宝を積むことになります。 そのうえで、 わたしについて来なさい。 」
すると彼は、 これを聞いて、 非常に悲しんだ。 たいへんな金持ちだったからである。
イエスは彼を見てこう言われた。 「裕福な者が神の国に入ることは、 何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、 らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。 」
これを聞いた人々が言った。 「それでは、 だれが救われることができるでしょう。 」
イエスは言われた。 「人にはできないことが、 神にはできるのです。 」

「ルカの福音書18章15-27節」

牧師の言葉

1・子どものように神の国を受け入れる
イエスさまの周りには多くの人が集まってきました。中には議論を仕掛けたり、試すような人もいますが、その多くはお言葉をいただくためとかひと目でもというようにとにかくイエスさまに出会ってみたい、近づきたいと願う人たちでした。今朝の場面でも「イエスに触れていただこうと」子どもたちが連れて来られています。連れて来られたとは、その親たちが祝福を求めてイエスのもとに子どもたちを連れて来たからです。「幼子たち」とされている言葉は、胎児、乳飲み子という意味も含みます(ルカ1:41、2:12、1ペテロ2:2)。彼らを遠ざけようとした弟子たちを叱ったイエスさまは「子どもたちをわたしのところに来させなさい・・・神の国はこのような者たちのもの・・・子どものように神の国を受け入れる者でなければ決して入れない」と言われました。どうして神の国が胎児や乳飲み子たちのものだと言われたのでしょう?それは子どもの素直さや無邪気さが買われてのことではありません。胎児や乳飲み子は与えられたもので育てられます。口に近づけられたものを拒みません。また親は子のやる気に従って育てるようなことはしません。同様に、天の父なる神はイエスを信じる者に神の国を与えてくださるお方です。私たちは乳飲み子のように与えられた神の言葉をいただくのみです。自分は自分以外の存在に寄りかかっていることをよしとし、神のもとを離れず、その懐で抱かれる子として身を預けるのです。

2・永遠のいのちを受け継ぐためには?
続いて「ある指導者」がどうしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるか?と質問しました。彼は自分を幼子や乳飲み子のようだとは考えず、そのしていることによってイエスさまに永遠のいのち=神の国に入る資格を認めてもらおうとしました。直前で「子どものようでなければ」と言われているのに対して「何をしたら」とその教えをひっくり返しています。彼には、その自信と自負があったからです。聖書の戒めは「少年のころからすべてを守ってきた」と断言するほどに・・・そんな彼に対し、イエスさまは「まだ一つ、欠けているところがある」として全財産を売り払い、貧しい人に分けるよう命じました。彼は大変な金持ちであったため、非常に悲しみます。これは財産を処分しないと永遠のいのちには物足りないということではありません。彼には「天に宝を持つ」ことが欠けていたのです。別の箇所でイエスさまは「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです」(マタイ6:21)と教えています。この指導者は、神の戒めには忠実であっても、その心は自分の出来栄えにばかり向いていて、神に従っている喜びも、ささげる思い切りの良さもありませんでした。確かに、自分のしたことが自分の結果として認められないことは辛いかもしれません。けれども、永遠のいのちを受け継ぐような功績は誰にも果たせないと知ることによって、幼子のようでなければ神の国に入れないと言われたイエスさまの言葉にすがりつけるようになるのです。神は、自分の立派さや出来栄えよりも全面的に神とその恵みを頼りにし、その身を預けるよう、あなたに呼びかけておられるのです。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

隠された目、開かれた目

主日礼拝 2018年6月10日

聖書の言葉

さてイエスは、 十二弟子をそばに呼んで、 彼らに話された。 「さあ、 これから、 わたしたちはエルサレムに向かって行きます。 人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、 そして彼らにあざけられ、 はずかしめられ、 つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。 しかし、 人の子は三日目によみがえります。 」
しかし弟子たちには、 これらのことが何一つわからなかった。 彼らには、 このことばは隠されていて、 話された事が理解できなかった。
イエスがエリコに近づかれたころ、 ある盲人が、 道ばたにすわり、 物ごいをしていた。
群衆が通って行くのを耳にして、 これはいったい何事ですか、 と尋ねた。
ナザレのイエスがお通りになるのだ、 と知らせると、彼は大声で、 「ダビデの子のイエスさま。 私をあわれんでください」と言った。
彼を黙らせようとして、 先頭にいた人々がたしなめたが、 盲人は、 ますます「ダビデの子よ。 私をあわれんでください」と叫び立てた。
イエスは立ち止まって、 彼をそばに連れて来るように言いつけられた。
彼が近寄って来たので、 「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられると、 彼は、 「主よ。 目が見えるようになることです」と言った。
イエスが彼に、 「見えるようになれ。 あなたの信仰があなたを直したのです」と言われると、
彼はたちどころに目が見えるようになり、 神をあがめながらイエスについて行った。 これを見て民はみな神を賛美した。

「ルカの福音書18章28-43節」(抜粋)

牧師の言葉

1・隠されていた使徒たちの目
イエスさまには多くの人々がつき従っていましたが、特に目をかけ、ともに時間を過ごしたのが使徒と呼ばれる十二人です。彼らは特別出来がよかったとか秀でた才能があったわけではありません。言い方は良くないかも知れませんが、使徒たちはどこにでもいる人たちで、前職も漁師や取税人、政治活動家など様々でした。彼らが特別だったわけではなく、イエスさまが特別に彼らをそばに置いて教えられたのです。私たちはそれぞれイエスさまから特別扱いをされる存在である、というわけです。彼らはイエスさまと一番長く、濃い時間を過ごしましたが、その言動は人間味あふれるものです。ここの箇所でも「私たちは自分のものを捨てて、従ってきました」と言っています。自分は特別なことをしている、他の人とは違う献身の仕方だ・・・といった出世的な匂いを発していたのです。それでもイエスさまから彼らを切り捨てることはなさらず、十字架と復活後までとことん付き合っておられます。イエスさまは、最後まで私たちを特別扱いしてくださるのです。しかし、この箇所のように、弟子たちや私たちには、すぐイエスさまの愛の深さやあわれみ深さが分からないことがあります。それを「彼らにはこのことばが隠されていて」と聖書は表現しています。使徒たちの目は曇っていたのです・・・そういう彼らとイエスさまはずっと付き合い、見限らなかったところに着目していたいと願います。
2・目を開かれた物乞い
これに続くのが、エリコの町の外で道端にいた物乞いでした。彼は目が見えなかったため、イエスさまが通られることを知ると、大声で「私をあわれんでください」と叫ぶのでした。先回りしていた人たちに静止されても構わない強さで続けます。とうとうイエスさまが立ち止まり、近くに呼んで「わたしに何をしてほしいのか」と問われると、この物乞いは「目が見えるように」と頼みました。この人は、自分のほんとうの問題を知っていたのでしょう。彼が困っていたことはたくさんあったはずです。「毎日、物乞いしなくていいような財産がほしい」、「私の面倒を見てくれる良い人を与えてほしい」など。しかし、それらは一時的な解消でしかなく、彼には目が見えないということが根源的な問題でした。そこを即座に答えられたのは、彼が自分の貧しさを普段から知っていたからにほかなりません。一方、弟子たちは「自分こそ」という実績を引っさげて進み出たのですが、まだ隠されていて、開かれていない目がありました。弟子たちは、自分の惨めさが見えていなかったのです。その根底にはイエスさまのあわれみではなく、自分がどれだけやってきたのかという思いがこびりついていました。彼の目が見えるようになる直前、イエスさまは「あなたの信仰があなたを直した」と言われました。イエスは神の子であり、どんなことでもおできになる神の力と権能を持っておられます。しかし、ここではあえてこの物乞いの信仰に注目するよう仕向けておられます。開かれた彼の信仰の目は本物で、物理的に見えるようになって終わりではなく「イエスについて行った」とあるように、主の弟子となって歩み始めます。あなたの目はイエスさまをどのように見ているでしょうか?

全面的に神を頼れ

主日礼拝 2018年6月3日

聖書の言葉

イエスにさわっていただこうとして、 人々がその幼子たちを、 みもとに連れて来た。 ところが、 弟子たちがそれを見てしかった。
しかしイエスは、 幼子たちを呼び寄せて、 こう言われた。 「子どもたちをわたしのところに来させなさい。 止めてはいけません。 神の国は、 このような者たちのものです。
まことに、 あなたがたに告げます。 子どものように神の国を受け入れる者でなければ、 決してそこに、 入ることはできません。 」
またある役人が、 イエスに質問して言った。 「尊い先生。 私は何をしたら、 永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。 」
イエスは彼に言われた。 「なぜ、 わたしを『尊い』と言うのですか。 尊い方は、 神おひとりのほかにはだれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。 『姦淫してはならない。 殺してはならない。 盗んではならない。 偽証を立ててはならない。 父と母を敬え。 』」
すると彼は言った。 「そのようなことはみな、 小さい時から守っております。 」
イエスはこれを聞いて、 その人に言われた。 「あなたには、 まだ一つだけ欠けたものがあります。 あなたの持ち物を全部売り払い、 貧しい人々に分けてやりなさい。 そうすれば、 あなたは天に宝を積むことになります。 そのうえで、 わたしについて来なさい。 」
すると彼は、 これを聞いて、 非常に悲しんだ。 たいへんな金持ちだったからである。
イエスは彼を見てこう言われた。 「裕福な者が神の国に入ることは、 何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、 らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。 」
これを聞いた人々が言った。 「それでは、 だれが救われることができるでしょう。 」
イエスは言われた。 「人にはできないことが、 神にはできるのです。 」

「ルカの福音書18章15-27節」

牧師の言葉

1・子どものように神の国を受け入れる
イエスさまの周りには多くの人が集まってきました。中には議論を仕掛けたり、試すような人もいますが、その多くはお言葉をいただくためとかひと目でもというようにとにかくイエスさまに出会ってみたい、近づきたいと願う人たちでした。今朝の場面でも「イエスに触れていただこうと」子どもたちが連れて来られています。連れて来られたとは、その親たちが祝福を求めてイエスのもとに子どもたちを連れて来たからです。「幼子たち」とされている言葉は、胎児、乳飲み子という意味も含みます(ルカ1:41、2:12、1ペテロ2:2)。彼らを遠ざけようとした弟子たちを叱ったイエスさまは「子どもたちをわたしのところに来させなさい・・・神の国はこのような者たちのもの・・・子どものように神の国を受け入れる者でなければ決して入れない」と言われました。どうして神の国が胎児や乳飲み子たちのものだと言われたのでしょう?それは子どもの素直さや無邪気さが買われてのことではありません。胎児や乳飲み子は与えられたもので育てられます。口に近づけられたものを拒みません。また親は子のやる気に従って育てるようなことはしません。同様に、天の父なる神はイエスを信じる者に神の国を与えてくださるお方です。私たちは乳飲み子のように与えられた神の言葉をいただくのみです。自分は自分以外の存在に寄りかかっていることをよしとし、神のもとを離れず、その懐で抱かれる子として身を預けるのです。

2・永遠のいのちを受け継ぐためには?
続いて「ある指導者」がどうしたら永遠のいのちを受け継ぐことができるか?と質問しました。彼は自分を幼子や乳飲み子のようだとは考えず、そのしていることによってイエスさまに永遠のいのち=神の国に入る資格を認めてもらおうとしました。直前で「子どものようでなければ」と言われているのに対して「何をしたら」とその教えをひっくり返しています。彼には、その自信と自負があったからです。聖書の戒めは「少年のころからすべてを守ってきた」と断言するほどに・・・そんな彼に対し、イエスさまは「まだ一つ、欠けているところがある」として全財産を売り払い、貧しい人に分けるよう命じました。彼は大変な金持ちであったため、非常に悲しみます。これは財産を処分しないと永遠のいのちには物足りないということではありません。彼には「天に宝を持つ」ことが欠けていたのです。別の箇所でイエスさまは「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのです」(マタイ6:21)と教えています。この指導者は、神の戒めには忠実であっても、その心は自分の出来栄えにばかり向いていて、神に従っている喜びも、ささげる思い切りの良さもありませんでした。確かに、自分のしたことが自分の結果として認められないことは辛いかもしれません。けれども、永遠のいのちを受け継ぐような功績は誰にも果たせないと知ることによって、幼子のようでなければ神の国に入れないと言われたイエスさまの言葉にすがりつけるようになるのです。神は、自分の立派さや出来栄えよりも全面的に神とその恵みを頼りにし、その身を預けるよう、あなたに呼びかけておられるのです。

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