日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「天こそ真のホーム」

主日礼拝 2018年9月23日

ところが、 復活があることを否定するサドカイ人のある者たちが、 イエスのところに来て、 質問して、こう言った。 「先生。 モーセは私たちのためにこう書いています。 『もし、 ある人の兄が妻をめとって死に、 しかも子がなかった場合は、 その弟はその女を妻にして、 兄のための子をもうけなければならない。 』
ところで、 七人の兄弟がいました。 長男は妻をめとりましたが、 子どもがなくて死にました。次男も、三男もその女をめとり、 七人とも同じようにして、 子どもを残さずに死にました。あとで、 その女も死にました。すると復活の際、 その女はだれの妻になるでしょうか。 七人ともその女を妻としたのですが。 」
イエスは彼らに言われた。 「この世の子らは、 めとったり、 とついだりするが、次の世に入るのにふさわしく、 死人の中から復活するのにふさわしい、 と認められる人たちは、 めとることも、 とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。 彼らは御使いのようであり、 また、 復活の子として神の子どもだからです。
それに、 死人がよみがえることについては、 モーセも柴の個所で、 主を、 『アブラハムの神、 イサクの神、 ヤコブの神』と呼んで、 このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。 生きている者の神です。 というのは、 神に対しては、 みなが生きているからです。 」

「ルカの福音書20章27-44節」(抜粋)

牧師の言葉

序. この箇所では、人の死後についてイエスさまが答えておられます。私たち人間は死後のことを空想か想像をするしかないのですが、聖書は私たちが知り、そして信じるべき範囲でそのことを教えていますので、耳を傾けて聴きましょう。これまでの自分や教科書、社会や文化がどのように教えていたとしても、その枠を取り払って、聖書が語っていることに信頼を寄せていきたいと願います。それが、聖書の権威を認めるということだからです。
1. 聖書と神の力
ここで登場するのは「復活を否定しているサドカイ人(祭司の一派)」です。御使いも否定する彼らは現実主義者で、目に見えないことは信じない傾向にあったようです。それで地上で7人の夫の妻であった女性は天国では誰の妻になるのか?と含みをもたせて質問しますが、イエスさまは「そんな思い違いをしているのは聖書も神の力も知らないからだ」(マルコ12:24)と強く言われます。天上での人は婚姻関係を持たず、御使いのように死ぬこともあり得ないと教えます。死なないので子孫を残す必要もなく、人として完全な状態にされているので成長や助けも必要としない、というわけです。そのことが「聖書」には記されており、「神の力」は人を復活させ、朽ちない体を与えることが可能だと告げます。
2. 生きている者の神
続けて、イエスさまは、何千年も前に死んだアブラハムやイサク、ヤコブといった信仰の父祖たちも今生きていると宣言します。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だからです。彼らの共通点は、地上で神を信じて生涯を全うしたことです。死後、神との完全な交わりを永遠に喜ぶためには、地上で神と出会い、罪の悔い改めに導かれ、神の教えに従って歩まなければなりません。今、生きている間に、私たちは復活のいのちへと生まれ変わることができるのです。
3. 地上での生活について
このように聖書が語っていることを真剣に受けとめるならば、聴く私たちはそれぞれの答えを出さなければなりません。聖書と神の力を信じるか、これらの教えに背を向けるか、です。もし、耳を閉じて今までの世界観で生きるなら、この地上での生活は非常にせわしく、焦りをもたらすものとなるでしょう。ここで何が何でも自分の名誉を獲得し、目標を達成し、自分を守らないといけないからです。あるいは、人生は大した目標もないと決めて、それなりの満足でよしとして死後に用意されている神や神の家族との永遠の交わりからは完全に引き離されることになります。果たして、それが最善の道でしょうか?この世は天の住まいへの一時的な仮住まいです。すべてを成し遂げなくても、天において絶対の安息と報いと満たしが用意されています。私たちの真のホームは、天にこそあるのです。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

天こそ真のホーム

主日礼拝 2018年9月23日

聖書の言葉

ところが、 復活があることを否定するサドカイ人のある者たちが、 イエスのところに来て、 質問して、こう言った。 「先生。 モーセは私たちのためにこう書いています。 『もし、 ある人の兄が妻をめとって死に、 しかも子がなかった場合は、 その弟はその女を妻にして、 兄のための子をもうけなければならない。 』
ところで、 七人の兄弟がいました。 長男は妻をめとりましたが、 子どもがなくて死にました。次男も、三男もその女をめとり、 七人とも同じようにして、 子どもを残さずに死にました。あとで、 その女も死にました。すると復活の際、 その女はだれの妻になるでしょうか。 七人ともその女を妻としたのですが。 」
イエスは彼らに言われた。 「この世の子らは、 めとったり、 とついだりするが、次の世に入るのにふさわしく、 死人の中から復活するのにふさわしい、 と認められる人たちは、 めとることも、 とつぐこともありません。彼らはもう死ぬことができないからです。 彼らは御使いのようであり、 また、 復活の子として神の子どもだからです。
それに、 死人がよみがえることについては、 モーセも柴の個所で、 主を、 『アブラハムの神、 イサクの神、 ヤコブの神』と呼んで、 このことを示しました。神は死んだ者の神ではありません。 生きている者の神です。 というのは、 神に対しては、 みなが生きているからです。 」

「ルカの福音書20章27-44節」(抜粋)

牧師の言葉

序. この箇所では、人の死後についてイエスさまが答えておられます。私たち人間は死後のことを空想か想像をするしかないのですが、聖書は私たちが知り、そして信じるべき範囲でそのことを教えていますので、耳を傾けて聴きましょう。これまでの自分や教科書、社会や文化がどのように教えていたとしても、その枠を取り払って、聖書が語っていることに信頼を寄せていきたいと願います。それが、聖書の権威を認めるということだからです。
1. 聖書と神の力
ここで登場するのは「復活を否定しているサドカイ人(祭司の一派)」です。御使いも否定する彼らは現実主義者で、目に見えないことは信じない傾向にあったようです。それで地上で7人の夫の妻であった女性は天国では誰の妻になるのか?と含みをもたせて質問しますが、イエスさまは「そんな思い違いをしているのは聖書も神の力も知らないからだ」(マルコ12:24)と強く言われます。天上での人は婚姻関係を持たず、御使いのように死ぬこともあり得ないと教えます。死なないので子孫を残す必要もなく、人として完全な状態にされているので成長や助けも必要としない、というわけです。そのことが「聖書」には記されており、「神の力」は人を復活させ、朽ちない体を与えることが可能だと告げます。
2. 生きている者の神
続けて、イエスさまは、何千年も前に死んだアブラハムやイサク、ヤコブといった信仰の父祖たちも今生きていると宣言します。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だからです。彼らの共通点は、地上で神を信じて生涯を全うしたことです。死後、神との完全な交わりを永遠に喜ぶためには、地上で神と出会い、罪の悔い改めに導かれ、神の教えに従って歩まなければなりません。今、生きている間に、私たちは復活のいのちへと生まれ変わることができるのです。
3. 地上での生活について
このように聖書が語っていることを真剣に受けとめるならば、聴く私たちはそれぞれの答えを出さなければなりません。聖書と神の力を信じるか、これらの教えに背を向けるか、です。もし、耳を閉じて今までの世界観で生きるなら、この地上での生活は非常にせわしく、焦りをもたらすものとなるでしょう。ここで何が何でも自分の名誉を獲得し、目標を達成し、自分を守らないといけないからです。あるいは、人生は大した目標もないと決めて、それなりの満足でよしとして死後に用意されている神や神の家族との永遠の交わりからは完全に引き離されることになります。果たして、それが最善の道でしょうか?この世は天の住まいへの一時的な仮住まいです。すべてを成し遂げなくても、天において絶対の安息と報いと満たしが用意されています。私たちの真のホームは、天にこそあるのです。

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