日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「失望せず祈ろう」

主日礼拝 2018年5月14日

18:1いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教え
るために、イエスは彼らにたとえを話された。
:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がい
た。:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、:5 どうも、 このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」
:6 主は言われた。 「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たときはたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

「ルカの福音書18章1-8節」

牧師の言葉

1. 失望しないために
イエスさまは「主の祈り」ではどんな言葉で祈るのかを教えておられますが、ここでは「いつでも失望しないで祈るべきこと」を教えるためにたとえを話されています。「いつでも祈るべき」というのは、わかりやすいのですが、どうしてそれが出来ないのか、ということをこのたとえで教えてくださっています。それは時間や場所の確保、調整ではなく「失望」が祈りから遠ざける最大の敵だとおっしゃるのです。裏返せば、私たちは落ち込みやすく、祈るのをすぐにやめてしまう弱さを持っているということでもあります。実はこの「失望」とは「悪い中にいる」という言葉の訳です。失望や落胆に左右されている状態は非常に良くないことだ、ということです。そのための浮上のカギこそ「いつでも祈る」ことなのでした。
2. うるさくて仕方がないほどに
イエスさまのたとえは大変ユニークです。ここに登場するのは温情味ある正義の裁判官ではなく「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」です。そこに1人のやもめが裁判を訴えてやって来ました。しばらく取り合わずにいましたが、そのやもめが「うるさくて仕方がない」から、渋々裁判をしてあげるというお話です。やもめの訴訟の内容はわかりませんが、3節にある「私を訴える人をさばいて」とは他の箇所では「復讐する」「罰する」と訳出される強い意味を持つ語です。彼女なりの義があり、そのためにこの裁判官のもとを訪れてずっと頼み続けたということです。悲しいことに、当時の裁判ではいわゆる「ワイロ」が横行しており、立場や財力のある人は圧倒的に有利でした。その意味でも、ここに登場する「やもめ」は社会的にも経済的にも力に乏しく、裁判に有利な条件は何もなかったという背景が読み取れます。しかし、このやもめはそれを理由に「失望しなかった」のが目を見張るべきポイントなのです。自分に自信の持てることであれば強気で向かえます。しかし、自分には持ち合わせも根拠も強みもなかったとしても、落胆し、気力を失わず、ひっきりなしに頼み込んだ姿勢こそが、この裁判官を揺り動かしました。
3. 昼も夜も神を呼んで
イエスさまは、ここで「裁判の仕方」「人の動かし方」を教えているのではありません。このたとえを受けて特に7-8節で「神と選民」の関係と信仰についてチャレンジを与えておられます。不正な裁判官でさえもその頼み事に耳を傾けてくれるのであるとすれば、あわれみ深い神さまは「速やかに」聞いてくださらないことなどないのです!そんなことくらい、分かるでしょう?とイエスさまの声が聞こえてくるようです。「神さまは必ず祈りを聞いてくださる」ことを知ることも嬉しいのですが、それと同じくらい大事なのは、あなたはこのやもめのような訴えをしているか?ということです。「昼も夜も神に叫び求めている選ばれた者たち」という表現に自分がすっぽり当てはまるような衝動をここで感じてほしいということです。その意味で、失望しなかったこのやもめの「信仰」はりっぱで、地上を見渡してもまれなほどなのです。「人の子が来る」という神の国の完成の時まではもしかすると長い年月と様々な試練、祈りが無意味なような感覚にも襲われるかもしれない……けれども、最後まで顔を上げて神を呼び求める教会であり続けたいのです。

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聖書の言葉

「神の国の住人として」

主日礼拝 2018年5月6日

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、 見られない時が来ます。人々が『こちらだ』とか、『あちらだ』とか言っても行ってはなりません。 あとを追いかけてはなりません。いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、 ちょうどそのようであるからです。

「ルカの福音書17章20-37節」(抜粋)

牧師の言葉

1. すでに・来ている
ここでは「神の国」について、イエスさまがパリサイ人と弟子たちに教えておられる場面です。旧約聖書に記されたメシヤ=救い主は、この地上でエルサレムを王国として君臨させ、平和をもたらす王として期待されていました(ゼカリヤ9:9-10等)。この新約時代、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちは、ローマ皇帝よりも強く、優れた=地上の政治的、軍事的勝利をもたら人物こそメシヤであると待望していました。それで、パリサイ人たちはイエスさまに向かって「神の国はいつ来るのか?」と少々意地悪く証拠を見せてみろと言わんばかりに尋ねているのです(20節)。イエスさまは「神の国は目に見えるものではなく、あなたがたのただ中にある」と答えられました。細かく読んでいくと「こことかあそことか目に見えるようには来ない。しかし、見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです」と地上的な成果や軍事的制圧、政治的変化が何も見られない当時の状況にあって、そういうものではなく、あなたがた(パリサイ人)たちのただ中にあるもの=イエスキリストを見なさいと痛烈な教えをもって答えられていることが分かります。私たちはいかがでしょうか。自分の取り巻く状況が一向に良くならない、神さまは何もしてくれない、どこに神の国があるのか・・・と口をとがらせてはいないでしょうか。ここで語っておられるイエスさまをしっかりと見つめたいと願うのです。
2. 未だ(いまだ)・完成していない
続いて弟子たちには、人の子が再び現れて神の国を完成する時のことについて話されます。「すでに」主イエスが来られたことによって、神の国は始まっているのですが、「いまだ」それは完成には至っていないからです。ちょうどそれはノアの洪水のように、ある日突然さばきがなされます。アブラハムの甥、ロトがソドムから救出された一方、主の滅びの宣告を冗談だと取り入れなかった人々はみな滅ぼされたように、やがて、確実に主のさばきはなされて、神の国は完成するのだと教えています。そして、主への応答は一人ひとりがなすもので、自分の代わりに他人に信仰を持ってもらうことはできません。その時には、自分の信仰が神の前で問われるのです。後ろを振り返ったロトの妻が塩の柱にされたように、神さまは、そのことをはっきりとご覧になり、公平なさばきをなさいます。
3. 今・途中です
イエスさまの宣教の第一声は「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)でした。その力強いみことばと愛あるわざによって、罪人が赦され、病人が癒やされる神の国のしるしが多くなされました。そして福音の頂点である十字架と復活によって、永遠のいのちが信じる者すべてに与えられるようになりました。それは地上でどんな健やかで華やかな人生を歩むことよりも素晴らしいことです。なぜなら、地上のことは一時的ですが、救いは永遠に価値あることだからです。地上の住まいやいのちは壊れても、天には永遠の住まいが私たちのために用意されています。そこを目指して、私たちはこの地上で戦い抜くよう召されているのです。信仰に対しては、世の権力からの衝突があり、諦めさせよう無力にさせようという惑わしがあり、弱さゆえに迷うことだってあります。それでも、見えるところではなく、聖書の視点で考え歩むことによって、神の国の住人として息づく自分自身の変化や喜びに気づくことができます。今は、すでに始まっている神の国とやがて完成する神の国の「途中」です。それは、もっとも真剣にならなければいけない、ということでもあります。会話や食事の途中に気がそがれる邪魔が入れば、腹立たしいものです。同様に、私たちは神の国の途中を歩む者として、それに対抗するような力、世の価値観、誘惑には断固とした態度をもって臨むべきなのです。今、途中ですから、というのは大事な姿勢なのです。
礼拝で、神の国の空気をたくさん吸い込み、出てまいりましょう。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

失望せず祈ろう

主日礼拝 2018年5月14日

聖書の言葉

18:1いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教え
るために、イエスは彼らにたとえを話された。
:2 「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がい
た。:3 その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください』と言っていた。
:4 彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、:5 どうも、 このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない』と言った。」
:6 主は言われた。 「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。:7 まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。:8 あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たときはたして地上に信仰が見られるでしょうか。」

「ルカの福音書18章1-8節」

牧師の言葉

1. 失望しないために
イエスさまは「主の祈り」ではどんな言葉で祈るのかを教えておられますが、ここでは「いつでも失望しないで祈るべきこと」を教えるためにたとえを話されています。「いつでも祈るべき」というのは、わかりやすいのですが、どうしてそれが出来ないのか、ということをこのたとえで教えてくださっています。それは時間や場所の確保、調整ではなく「失望」が祈りから遠ざける最大の敵だとおっしゃるのです。裏返せば、私たちは落ち込みやすく、祈るのをすぐにやめてしまう弱さを持っているということでもあります。実はこの「失望」とは「悪い中にいる」という言葉の訳です。失望や落胆に左右されている状態は非常に良くないことだ、ということです。そのための浮上のカギこそ「いつでも祈る」ことなのでした。
2. うるさくて仕方がないほどに
イエスさまのたとえは大変ユニークです。ここに登場するのは温情味ある正義の裁判官ではなく「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」です。そこに1人のやもめが裁判を訴えてやって来ました。しばらく取り合わずにいましたが、そのやもめが「うるさくて仕方がない」から、渋々裁判をしてあげるというお話です。やもめの訴訟の内容はわかりませんが、3節にある「私を訴える人をさばいて」とは他の箇所では「復讐する」「罰する」と訳出される強い意味を持つ語です。彼女なりの義があり、そのためにこの裁判官のもとを訪れてずっと頼み続けたということです。悲しいことに、当時の裁判ではいわゆる「ワイロ」が横行しており、立場や財力のある人は圧倒的に有利でした。その意味でも、ここに登場する「やもめ」は社会的にも経済的にも力に乏しく、裁判に有利な条件は何もなかったという背景が読み取れます。しかし、このやもめはそれを理由に「失望しなかった」のが目を見張るべきポイントなのです。自分に自信の持てることであれば強気で向かえます。しかし、自分には持ち合わせも根拠も強みもなかったとしても、落胆し、気力を失わず、ひっきりなしに頼み込んだ姿勢こそが、この裁判官を揺り動かしました。
3. 昼も夜も神を呼んで
イエスさまは、ここで「裁判の仕方」「人の動かし方」を教えているのではありません。このたとえを受けて特に7-8節で「神と選民」の関係と信仰についてチャレンジを与えておられます。不正な裁判官でさえもその頼み事に耳を傾けてくれるのであるとすれば、あわれみ深い神さまは「速やかに」聞いてくださらないことなどないのです!そんなことくらい、分かるでしょう?とイエスさまの声が聞こえてくるようです。「神さまは必ず祈りを聞いてくださる」ことを知ることも嬉しいのですが、それと同じくらい大事なのは、あなたはこのやもめのような訴えをしているか?ということです。「昼も夜も神に叫び求めている選ばれた者たち」という表現に自分がすっぽり当てはまるような衝動をここで感じてほしいということです。その意味で、失望しなかったこのやもめの「信仰」はりっぱで、地上を見渡してもまれなほどなのです。「人の子が来る」という神の国の完成の時まではもしかすると長い年月と様々な試練、祈りが無意味なような感覚にも襲われるかもしれない……けれども、最後まで顔を上げて神を呼び求める教会であり続けたいのです。

神の国の住人として

主日礼拝 2018年5月6日

聖書の言葉

さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、 見られない時が来ます。人々が『こちらだ』とか、『あちらだ』とか言っても行ってはなりません。 あとを追いかけてはなりません。いなずまが、ひらめいて、天の端から天の端へと輝くように、人の子は、人の子の日には、 ちょうどそのようであるからです。

「ルカの福音書17章20-37節」(抜粋)

牧師の言葉

1. すでに・来ている
ここでは「神の国」について、イエスさまがパリサイ人と弟子たちに教えておられる場面です。旧約聖書に記されたメシヤ=救い主は、この地上でエルサレムを王国として君臨させ、平和をもたらす王として期待されていました(ゼカリヤ9:9-10等)。この新約時代、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちは、ローマ皇帝よりも強く、優れた=地上の政治的、軍事的勝利をもたら人物こそメシヤであると待望していました。それで、パリサイ人たちはイエスさまに向かって「神の国はいつ来るのか?」と少々意地悪く証拠を見せてみろと言わんばかりに尋ねているのです(20節)。イエスさまは「神の国は目に見えるものではなく、あなたがたのただ中にある」と答えられました。細かく読んでいくと「こことかあそことか目に見えるようには来ない。しかし、見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです」と地上的な成果や軍事的制圧、政治的変化が何も見られない当時の状況にあって、そういうものではなく、あなたがた(パリサイ人)たちのただ中にあるもの=イエスキリストを見なさいと痛烈な教えをもって答えられていることが分かります。私たちはいかがでしょうか。自分の取り巻く状況が一向に良くならない、神さまは何もしてくれない、どこに神の国があるのか・・・と口をとがらせてはいないでしょうか。ここで語っておられるイエスさまをしっかりと見つめたいと願うのです。
2. 未だ(いまだ)・完成していない
続いて弟子たちには、人の子が再び現れて神の国を完成する時のことについて話されます。「すでに」主イエスが来られたことによって、神の国は始まっているのですが、「いまだ」それは完成には至っていないからです。ちょうどそれはノアの洪水のように、ある日突然さばきがなされます。アブラハムの甥、ロトがソドムから救出された一方、主の滅びの宣告を冗談だと取り入れなかった人々はみな滅ぼされたように、やがて、確実に主のさばきはなされて、神の国は完成するのだと教えています。そして、主への応答は一人ひとりがなすもので、自分の代わりに他人に信仰を持ってもらうことはできません。その時には、自分の信仰が神の前で問われるのです。後ろを振り返ったロトの妻が塩の柱にされたように、神さまは、そのことをはっきりとご覧になり、公平なさばきをなさいます。
3. 今・途中です
イエスさまの宣教の第一声は「神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)でした。その力強いみことばと愛あるわざによって、罪人が赦され、病人が癒やされる神の国のしるしが多くなされました。そして福音の頂点である十字架と復活によって、永遠のいのちが信じる者すべてに与えられるようになりました。それは地上でどんな健やかで華やかな人生を歩むことよりも素晴らしいことです。なぜなら、地上のことは一時的ですが、救いは永遠に価値あることだからです。地上の住まいやいのちは壊れても、天には永遠の住まいが私たちのために用意されています。そこを目指して、私たちはこの地上で戦い抜くよう召されているのです。信仰に対しては、世の権力からの衝突があり、諦めさせよう無力にさせようという惑わしがあり、弱さゆえに迷うことだってあります。それでも、見えるところではなく、聖書の視点で考え歩むことによって、神の国の住人として息づく自分自身の変化や喜びに気づくことができます。今は、すでに始まっている神の国とやがて完成する神の国の「途中」です。それは、もっとも真剣にならなければいけない、ということでもあります。会話や食事の途中に気がそがれる邪魔が入れば、腹立たしいものです。同様に、私たちは神の国の途中を歩む者として、それに対抗するような力、世の価値観、誘惑には断固とした態度をもって臨むべきなのです。今、途中ですから、というのは大事な姿勢なのです。
礼拝で、神の国の空気をたくさん吸い込み、出てまいりましょう。

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