日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「最後の1ピース」

主日礼拝 2018年8月5日

するとイエスは、 「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。
また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。
「ある人がぶどう園を造り、 それを農夫たちに貸して、 長い旅に出た。
そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、 農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。
そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。
彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。
ぶどう園の主人は言った。 『どうしたものか。 よし、 愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』
ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。 『あれはあと取りだ。 あれを殺そうではないか。 そうすれば、 財産はこちらのものだ。 』そして、 彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。
こうなると、ぶどう園の主人は、 どうするでしょう。
彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません」と言った。
イエスは、彼らを見つめて言われた。 「では、 『家を建てる者たちの見捨てた石、 それが礎の石となった。」と書いてあるのは、 何のことでしょう。この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」
律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕らえようとしたが、やはり民衆を恐れた

「ルカの福音書20章1-19節」(抜粋)

牧師の言葉

人に従うより、神に従うべき
この箇所で、律法学者たちはイエスさまが「誰の権威によって」教えているのかを質問しました。ただし、ここでは純粋な質問というより、イエスを退散させ、抹殺しようとする考えからです。しかし、イエスさまはこの問にお答えにならず、逆に質問を投げかけています。それは意地悪でしているのではなく、もし、人が神に対して質問をするなら、それはその人自身が問われていることを教えるためです。なぜなら、神の知識に関することは、教えられて、説明されて終わるという種類のものではなく「じゃあ、あなたはどのように考えますか?」という応答が求められるものだからです。それなので、ここでも「イエスは誰の権威で教えているのか」という質問は、その人が答えることによって明らかにされるものなのです。私たちの身の回りでも人による権威は時に安心をもたらしますが、時に利己的で、間違った方向に暴走する場合もあります。要するに、絶対ではないのです。それに比べて、もし神の権威というものがあるとすれば、それは悪に傾くことのない絶対的な義となります。どうせ従うのであれば、人によるのではなく、神による権威にひれ伏したく願います。

人生の要を
この後、イエスさまはぶどう園のたとえ話をしました。主人は農夫たちに任せて長旅に出ます。収獲の際、その一部を納めるようしもべを送りましたが三人連続でひどい目に遭わされてしまいます。それで「愛するひとり息子」なら丁重に迎えるかと期待するのですが、その息子は殺されてしまうのです。これは、主人=父なる神、農夫=律法学者たち、しもべ=神の預言者、息子=イエスを表しています。そのことが明らかだったので、聞いている祭司長たちも「自分たちのことだ」と分かったのです。イエスさまはこのたとえによって、罪とは何か、またそれが示されたならどうするべきかを教えておられます。罪とは、神に本来の位置、本来の権威を与えず、認めないことです。それよりも、自分の法、気持ち、やり方を尊大に扱い、平気でいることです。そして、それが見当違いであることは、たとえの終わりで主人が農夫たちを殺してしまう点において明らかなのです。聞いていた者たちは「自分たちのことだ」とハッとしてイエスを捕らえて殺そうという衝動に駆られました。罪を示されて、自分のことだと分かると、激昂する人と、反対に心を痛め、我に返り、神に赦しを請う人とに分かれます。明らかに、後者のほうが良いのですが、自分も、周囲もそうすることはまれです。それぐらい、私たち人間は罪を認めることが難しく、昨今言われているように「謝ったら死ぬ」という程に避けたいことなのかもしれません。しかし、神の前に罪を悔い改めることなしに、堂々と生きることはできません。人生の要は、イエスがあなたの罪を背負って処分してくださったことに答えることにあるからです。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

最後の1ピース

主日礼拝 2018年8月5日

聖書の言葉

するとイエスは、 「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい」と言われた。
また、イエスは、民衆にこのようなたとえを話された。
「ある人がぶどう園を造り、 それを農夫たちに貸して、 長い旅に出た。
そして季節になったので、ぶどう園の収穫の分けまえをもらうために、 農夫たちのところへひとりのしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。
そこで、別のしもべを遣わしたが、彼らは、そのしもべも袋だたきにし、はずかしめたうえで、何も持たせないで送り帰した。
彼はさらに三人目のしもべをやったが、彼らは、このしもべにも傷を負わせて追い出した。
ぶどう園の主人は言った。 『どうしたものか。 よし、 愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』
ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。 『あれはあと取りだ。 あれを殺そうではないか。 そうすれば、 財産はこちらのものだ。 』そして、 彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。
こうなると、ぶどう園の主人は、 どうするでしょう。
彼は戻って来て、この農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。」これを聞いた民衆は、「そんなことがあってはなりません」と言った。
イエスは、彼らを見つめて言われた。 「では、 『家を建てる者たちの見捨てた石、 それが礎の石となった。」と書いてあるのは、 何のことでしょう。この石の上に落ちれば、だれでも粉々に砕け、またこの石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛び散らしてしまうのです。」
律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕らえようとしたが、やはり民衆を恐れた

「ルカの福音書20章1-19節」(抜粋)

牧師の言葉

人に従うより、神に従うべき
この箇所で、律法学者たちはイエスさまが「誰の権威によって」教えているのかを質問しました。ただし、ここでは純粋な質問というより、イエスを退散させ、抹殺しようとする考えからです。しかし、イエスさまはこの問にお答えにならず、逆に質問を投げかけています。それは意地悪でしているのではなく、もし、人が神に対して質問をするなら、それはその人自身が問われていることを教えるためです。なぜなら、神の知識に関することは、教えられて、説明されて終わるという種類のものではなく「じゃあ、あなたはどのように考えますか?」という応答が求められるものだからです。それなので、ここでも「イエスは誰の権威で教えているのか」という質問は、その人が答えることによって明らかにされるものなのです。私たちの身の回りでも人による権威は時に安心をもたらしますが、時に利己的で、間違った方向に暴走する場合もあります。要するに、絶対ではないのです。それに比べて、もし神の権威というものがあるとすれば、それは悪に傾くことのない絶対的な義となります。どうせ従うのであれば、人によるのではなく、神による権威にひれ伏したく願います。

人生の要を
この後、イエスさまはぶどう園のたとえ話をしました。主人は農夫たちに任せて長旅に出ます。収獲の際、その一部を納めるようしもべを送りましたが三人連続でひどい目に遭わされてしまいます。それで「愛するひとり息子」なら丁重に迎えるかと期待するのですが、その息子は殺されてしまうのです。これは、主人=父なる神、農夫=律法学者たち、しもべ=神の預言者、息子=イエスを表しています。そのことが明らかだったので、聞いている祭司長たちも「自分たちのことだ」と分かったのです。イエスさまはこのたとえによって、罪とは何か、またそれが示されたならどうするべきかを教えておられます。罪とは、神に本来の位置、本来の権威を与えず、認めないことです。それよりも、自分の法、気持ち、やり方を尊大に扱い、平気でいることです。そして、それが見当違いであることは、たとえの終わりで主人が農夫たちを殺してしまう点において明らかなのです。聞いていた者たちは「自分たちのことだ」とハッとしてイエスを捕らえて殺そうという衝動に駆られました。罪を示されて、自分のことだと分かると、激昂する人と、反対に心を痛め、我に返り、神に赦しを請う人とに分かれます。明らかに、後者のほうが良いのですが、自分も、周囲もそうすることはまれです。それぐらい、私たち人間は罪を認めることが難しく、昨今言われているように「謝ったら死ぬ」という程に避けたいことなのかもしれません。しかし、神の前に罪を悔い改めることなしに、堂々と生きることはできません。人生の要は、イエスがあなたの罪を背負って処分してくださったことに答えることにあるからです。

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