日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「苦い杯全部」

主日礼拝 2019年2月10日

さて、イエスを監視していた者たちは、イエスをからかい、むちでたたいた。そして目隠しをして、「当ててみろ、おまえを打ったのはだれだ」と聞いた。
また、ほかにも多くの冒瀆のことばをイエスに浴びせた。
夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まり、イエスを彼らの最高法院に連れ出して、こう言った。「おまえがキリストなら、そうだと言え。」
しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。
ピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあると分かると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころ、エルサレムにいたのである。ヘロデはイエスを見ると、非常に喜んだ。イエスのことを聞いていて、ずっと前から会いたいと思い、またイエスが行うしるしを何か見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと質問したが、イエスは何もお答えにならなかった。
祭司長たちと律法学者たちはその場にいて、イエスを激しく訴えていた。
ヘロデもまた、自分の兵士たちと一緒にイエスを侮辱したり、からかったりしてから、はでな衣を着せてピラトに送り返した。この日、ヘロデとピラトは親しくなった。それまでは互いに敵対していたのである。

「ルカの福音書22:63-23:12」(抜粋)

牧師の言葉

1.恐れていますか?
イエスが捕らえられた時、救出する人は誰もいませんでした。ペテロをはじめ弟子たちにその思いはあったかもしれませんが、行動には出せずに逃げたり、関わりを否定することしかできませんでした。ここの始まりも「イエスをからかい、むちでたたいた」のはそれまでイエスさまとは無関係だった人たちです。監視員、長老会、学者、総督・・・イエスの周りに集まっていた人たち実にその「全員」(23:1)がイエスさまを敵視し、あざ笑っていたことになります。彼らのうち誰も「神の子を相手にしている」とは思っていませんでした。ここに、人間の恐ろしさがあります。自分のしていることがわからないほど麻痺し、自分が神を相手に罪を犯していることに無関心、無感覚のまま・・・この裁判においてイエスさまはあらゆる問いに正面から答えておられないよう見受けられます。それは「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう」(22:67)という彼らをはじめ私たち人間の態度にあります。聖書を開く時、イエスさまの言葉を聞く時、この礼拝の場にいる時、私は神から問われ、神に対してどう答え、いかに生きるのかを真剣に取り組みたいと願います。
2.訴える理由が見つからないのに・・・
人々がこぞってイエスさまについて訴えを出し、証言をするのですが、どれも罪状として不十分なものばかりでした。当時ユダヤをあずかっていた総督ポンテオ・ピラトも訴えを聞きながら出した結論は「訴える理由が何も見つからない」というものでした。弟子や信者でもない人物から「罪がない」と断言されているのは重要なしるしです。イエスの無罪性はキリスト教内部が作り出した幻想ではなく、当時の総督が人々の前で証言している教理なのです。私たちがイエスさまを信頼できる根拠がここにあります。では、イエスは罪がないと認められたのに、どうして十字架刑にかかなければならなかったのでしょうか?その理由としては、ご自身の罪のためではなく、全人類の罪を背負ったからに他ならない、というものしか残らなくなります。
3.人の最高の栄誉とは
ピラトは罪を見出せないので、ガリラヤ地方の領主ヘロデにイエスの身柄を引き渡しました。彼もまたイエスに興味を抱いており、様々な質問をしましたが、イエスは無言・沈黙を貫きました(23:9)。その理由は、人間の側に神を責め立てて質問し、神が答えるならば信じてやってもいい、イエスが弁解でもすればよくしてやってもよいという思い違いに気づかせるためだと考えられます。そのような神の計画がこと進む中、ヘロデとピラトは仲違いを解消した、と記します。人間は共通の「敵」を持つことで、いともたやすく心変わりし、連帯を組みます。人間の罪性の恐ろしさ、暗さを表している箇所です。良いことで連帯するよりも、敵を作って与する方が容易なのです。イエスをからかい、興味本位の軽い気持ちで接するなら、神もあなたをそのように扱われます。まずは神を神とし、恐れ、礼拝し、自らはもろい土の器、問われるべきは自分であるとひざまずくところから始めましょう。人の最高の栄誉は、神を正しく崇めることにあるのだからです。

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聖書の言葉

「弱さと恵み」

主日礼拝 2019年2月4日

彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろしたすると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。「この人も、イエスと一緒にいました。」 しかし、ペテロはそれを否定して、「いや、私はその人を知らない」と言った。 しばらくして、ほかの男が彼を見て言った。「あなたも彼らの仲間だ。」しかし、ペテロは「いや、違う」と言った。それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」
しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。そして、外に出て行って、激しく泣いた。

「ルカの福音書22章54-62節」

牧師の言葉

1.距離をとる生き方
主イエスが十字架につけられる前夜、ユダの裏切りによって逮捕され裁判へとかけられます。弟子のペテロは「遠く離れてついて行」きました。これは矛盾する表現です。師の一番近くにいるのが弟子たる姿です。ここの前の33節では「ご一緒なら牢であろうと死であろうと覚悟はできております」と申し出たばかりでしたが、この場面では「離れて」ついて行くのです。このように、うまく自分を守りつつ距離を取る付き合い方は人間の弱さです。ペテロは自分も捕まるかもしれない恐怖から、弟子であることを隠してついて行きました。これは弟子本来の姿ではありません。自分を守ることはできても、距離を取った分だけ、本物の部分・核を損なうのです。
2.あぶり出される罪
大祭司の中庭で主イエスが捕らえられている時、ペテロは「交じって腰を下ろし」ます。本来、この世から取り分けられてまことの神に従う者として生きるべき弟子・クリスチャンが、世の人々の中に「交じって」いるのです。身分を隠し、群衆に紛れ込み、信仰を明かすことなくひっそりとやり過ごそうとする・・・しかしそのままでいることは許されませんでした。夜を灯す明かりが、ペテロの顔を照らし、ある女がそれに気づいたのです。「この人も、イエスと一緒にいました」。本当は、これはクリスチャンには最大の名誉です。あの人は、イエスと一緒に生きている、と言われるのですから。しかし、この時のペテロには一番聞きたくない言葉でした。代わる代わる三人に問われたペテロは「知らない」とすべてを否定しました。あなたが何者であるのか、どんな生き方をしているのか。実は、このことは他人がよ〜く見ています。世間はクリスチャンがどのような生き方をするのか見ています。見られることを窮屈に思うのではなく、主イエスの弟子として証しする最大のチャンスだと捉えたいものです。
3.弱さのうちに働く神
三度目の「知らない」と弁明をしている間に鶏が鳴き、ペテロはそう言われた主のことばを思い出し号泣します。彼の胸のうちに去来するものは何であったのでしょう。直前の主イエスとのやり取りでは「あなたの信仰がなくならないよう祈りました。立ち直った兄弟たちを力づけてやりなさい」(23:32)とあります。ペテロは、ここで自分の弱さを知ったのです。弟子と言いながら離れて距離を取り、皆に交じって身を潜め、いざ問われると弟子であることを否定する。自分の力では何もできない、決意は当てにならない。しかし、ペテロはそんな自分の弱さから「信仰がなくならないよう祈り、立ち直りを期待する」主イエスに出会いました。弱さを知らないと高慢になります。けれども神は弱さの内に働きます。やがてペテロは新生し、「主の忍耐は救い」(2ペテロ3:15)と証しするようになります。これを神の恵みと言うのです。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

苦い杯全部

主日礼拝 2019年2月10日

聖書の言葉

さて、イエスを監視していた者たちは、イエスをからかい、むちでたたいた。そして目隠しをして、「当ててみろ、おまえを打ったのはだれだ」と聞いた。
また、ほかにも多くの冒瀆のことばをイエスに浴びせた。
夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まり、イエスを彼らの最高法院に連れ出して、こう言った。「おまえがキリストなら、そうだと言え。」
しかしイエスは言われた。「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう。わたしが尋ねても、あなたがたは決して答えないでしょう。
ピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあると分かると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころ、エルサレムにいたのである。ヘロデはイエスを見ると、非常に喜んだ。イエスのことを聞いていて、ずっと前から会いたいと思い、またイエスが行うしるしを何か見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと質問したが、イエスは何もお答えにならなかった。
祭司長たちと律法学者たちはその場にいて、イエスを激しく訴えていた。
ヘロデもまた、自分の兵士たちと一緒にイエスを侮辱したり、からかったりしてから、はでな衣を着せてピラトに送り返した。この日、ヘロデとピラトは親しくなった。それまでは互いに敵対していたのである。

「ルカの福音書22:63-23:12」(抜粋)

牧師の言葉

1.恐れていますか?
イエスが捕らえられた時、救出する人は誰もいませんでした。ペテロをはじめ弟子たちにその思いはあったかもしれませんが、行動には出せずに逃げたり、関わりを否定することしかできませんでした。ここの始まりも「イエスをからかい、むちでたたいた」のはそれまでイエスさまとは無関係だった人たちです。監視員、長老会、学者、総督・・・イエスの周りに集まっていた人たち実にその「全員」(23:1)がイエスさまを敵視し、あざ笑っていたことになります。彼らのうち誰も「神の子を相手にしている」とは思っていませんでした。ここに、人間の恐ろしさがあります。自分のしていることがわからないほど麻痺し、自分が神を相手に罪を犯していることに無関心、無感覚のまま・・・この裁判においてイエスさまはあらゆる問いに正面から答えておられないよう見受けられます。それは「わたしが言っても、あなたがたは決して信じないでしょう」(22:67)という彼らをはじめ私たち人間の態度にあります。聖書を開く時、イエスさまの言葉を聞く時、この礼拝の場にいる時、私は神から問われ、神に対してどう答え、いかに生きるのかを真剣に取り組みたいと願います。
2.訴える理由が見つからないのに・・・
人々がこぞってイエスさまについて訴えを出し、証言をするのですが、どれも罪状として不十分なものばかりでした。当時ユダヤをあずかっていた総督ポンテオ・ピラトも訴えを聞きながら出した結論は「訴える理由が何も見つからない」というものでした。弟子や信者でもない人物から「罪がない」と断言されているのは重要なしるしです。イエスの無罪性はキリスト教内部が作り出した幻想ではなく、当時の総督が人々の前で証言している教理なのです。私たちがイエスさまを信頼できる根拠がここにあります。では、イエスは罪がないと認められたのに、どうして十字架刑にかかなければならなかったのでしょうか?その理由としては、ご自身の罪のためではなく、全人類の罪を背負ったからに他ならない、というものしか残らなくなります。
3.人の最高の栄誉とは
ピラトは罪を見出せないので、ガリラヤ地方の領主ヘロデにイエスの身柄を引き渡しました。彼もまたイエスに興味を抱いており、様々な質問をしましたが、イエスは無言・沈黙を貫きました(23:9)。その理由は、人間の側に神を責め立てて質問し、神が答えるならば信じてやってもいい、イエスが弁解でもすればよくしてやってもよいという思い違いに気づかせるためだと考えられます。そのような神の計画がこと進む中、ヘロデとピラトは仲違いを解消した、と記します。人間は共通の「敵」を持つことで、いともたやすく心変わりし、連帯を組みます。人間の罪性の恐ろしさ、暗さを表している箇所です。良いことで連帯するよりも、敵を作って与する方が容易なのです。イエスをからかい、興味本位の軽い気持ちで接するなら、神もあなたをそのように扱われます。まずは神を神とし、恐れ、礼拝し、自らはもろい土の器、問われるべきは自分であるとひざまずくところから始めましょう。人の最高の栄誉は、神を正しく崇めることにあるのだからです。

弱さと恵み

主日礼拝 2019年2月4日

聖書の言葉

彼らはイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れてついて行った。人々が中庭の真ん中に火をたいて、座り込んでいたので、ペテロも中に交じって腰を下ろしたすると、ある召使いの女が、明かりの近くに座っているペテロを目にし、じっと見つめて言った。「この人も、イエスと一緒にいました。」 しかし、ペテロはそれを否定して、「いや、私はその人を知らない」と言った。 しばらくして、ほかの男が彼を見て言った。「あなたも彼らの仲間だ。」しかし、ペテロは「いや、違う」と言った。それから一時間ほどたつと、また別の男が強く主張した。「確かにこの人も彼と一緒だった。ガリラヤ人だから。」
しかしペテロは、「あなたの言っていることは分からない」と言った。するとすぐ、彼がまだ話しているうちに、鶏が鳴いた。主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と言われた主のことばを思い出した。そして、外に出て行って、激しく泣いた。

「ルカの福音書22章54-62節」

牧師の言葉

1.距離をとる生き方
主イエスが十字架につけられる前夜、ユダの裏切りによって逮捕され裁判へとかけられます。弟子のペテロは「遠く離れてついて行」きました。これは矛盾する表現です。師の一番近くにいるのが弟子たる姿です。ここの前の33節では「ご一緒なら牢であろうと死であろうと覚悟はできております」と申し出たばかりでしたが、この場面では「離れて」ついて行くのです。このように、うまく自分を守りつつ距離を取る付き合い方は人間の弱さです。ペテロは自分も捕まるかもしれない恐怖から、弟子であることを隠してついて行きました。これは弟子本来の姿ではありません。自分を守ることはできても、距離を取った分だけ、本物の部分・核を損なうのです。
2.あぶり出される罪
大祭司の中庭で主イエスが捕らえられている時、ペテロは「交じって腰を下ろし」ます。本来、この世から取り分けられてまことの神に従う者として生きるべき弟子・クリスチャンが、世の人々の中に「交じって」いるのです。身分を隠し、群衆に紛れ込み、信仰を明かすことなくひっそりとやり過ごそうとする・・・しかしそのままでいることは許されませんでした。夜を灯す明かりが、ペテロの顔を照らし、ある女がそれに気づいたのです。「この人も、イエスと一緒にいました」。本当は、これはクリスチャンには最大の名誉です。あの人は、イエスと一緒に生きている、と言われるのですから。しかし、この時のペテロには一番聞きたくない言葉でした。代わる代わる三人に問われたペテロは「知らない」とすべてを否定しました。あなたが何者であるのか、どんな生き方をしているのか。実は、このことは他人がよ〜く見ています。世間はクリスチャンがどのような生き方をするのか見ています。見られることを窮屈に思うのではなく、主イエスの弟子として証しする最大のチャンスだと捉えたいものです。
3.弱さのうちに働く神
三度目の「知らない」と弁明をしている間に鶏が鳴き、ペテロはそう言われた主のことばを思い出し号泣します。彼の胸のうちに去来するものは何であったのでしょう。直前の主イエスとのやり取りでは「あなたの信仰がなくならないよう祈りました。立ち直った兄弟たちを力づけてやりなさい」(23:32)とあります。ペテロは、ここで自分の弱さを知ったのです。弟子と言いながら離れて距離を取り、皆に交じって身を潜め、いざ問われると弟子であることを否定する。自分の力では何もできない、決意は当てにならない。しかし、ペテロはそんな自分の弱さから「信仰がなくならないよう祈り、立ち直りを期待する」主イエスに出会いました。弱さを知らないと高慢になります。けれども神は弱さの内に働きます。やがてペテロは新生し、「主の忍耐は救い」(2ペテロ3:15)と証しするようになります。これを神の恵みと言うのです。

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