日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「三本の十字架」

主日礼拝 2019年3月10日

ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

「ルカの福音書23章32-48節」(抜粋)

牧師の言葉

1. 十字架が分かれ道
十字架を背負ったイエスさまが到着したのは「どくろ」という名の場所でした。そこは名の通り「死刑にされるため」の場所。町外れにありながら、丘にあったと思われ、それは人々への見せしめ、見世物のためでもありました。当時の人々がはっきりと見ていたように、今、私たちもこの光景を目に浮かべ焼き付けよという位置取りなのです。聖書の証言はこのとき他に二人もいっしょに十字架刑にされたとしています。イエスが真ん中であることが分かるように「右と左」につけられました。イエスさまを中心にして、十字架を中心にして右と左に分かれ道がある。それは十字架が問いかけるメッセージです。
2. 「救い」の勘違い
イエスさまを含む三人が十字架につけられるこの場面で気づくことがあります。それは周囲にいる者たちが「救い」について思い違いをしているという点です。死刑を執行する兵士たちは何食わぬ顔でくじ引きをし、イエスの衣を4つに切り裂いて分けています。議員たちは「他人を救ったのなら、自分を救え」とあざ笑っています。兵士たちも同じように「王なら自分を救ってみろ」とあざけります。それどころか同じ十字架につけられている1人の男も「自分とおれたちを救え」と要求します。彼らに共通しているのは、イエスに対して「自分を救ってみろ」と言っている点です。もし、イエスさまが自分を救うことだけを考えていたら十字架につけられることはありませんでした。不当な裁判を回避し、十字架を押しのけることも、敵を瞬時に滅ぼすこともお出来になる力を持っておられる方だからです。しかし、イエスさまが地上に来られた目的は「仕えられるためではなく仕えるため」であり、いのちを救うためではなく「いのちを与えるため」(マルコ10:45)だからです。世の王は自分の救いのため人々を支配し、そのいのちを奪うことがありますが、まことの王であるイエスはそれとは真逆のことをしてくださいました。十字架での「救い」はイエスさまご自身のためではなく、「何をしているのか分からない」でいる自分の罪深さに気づけない人を救うためなのです。
3. パラダイスへ
このときイエスさまが十字架上された「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」という約束が光っています。直前で犯罪人が「あなたの御国」という言葉を発しています。この人は、イエスさまが地上での最期を迎えた後、「御国」に帰られることを知っていました。もう一つ、彼が分かっていたのは自分が十字架刑に値する罪人だということです。「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ」と告白しています。自分は死んで当然の者であり、それに値する罪を犯してきた。しかし、この方イエスは悪いことを何もせず罪もないのに十字架につけられている。ここに私たちも知るべき事柄、告白すべき言葉があります。①自分は罪人であること、②罪のないイエスさまは自分ではなく罪人を救うために十字架につけられたことです。地上の生涯を終えて「パラダイス」でイエスに迎えられたのはこれらに気づき、悔い改め、告白した罪人その人でした。

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聖書の言葉

「十字架を背負って」

主日礼拝 2019年3月3日

彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。
民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った。
イエスは彼女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。

「ルカの福音書23章26-31節」(抜粋)

牧師の言葉

◆たまたま通りがかって
ここは一見唐突な場面です。イエスが十字架を背負って「ドロローサ=悲しみの道」を途上する際、たまたまそこにいた「クレネ人シモン」にむりやり十字架を負わせたというのです。おそらくイエスが重みに耐えきれず何度もつまずくので、代わりに背負う人物をあてがったのだと思われます。しかし、こんな偶然の重なりの中に、不思議な神のわざが現れることとなります。大勢いた人々でなぜシモンが。クレネとは今日のアフリカ大陸リビア地方だと思われます。そんな遠くからなぜそこにいたのか。総合しても、ありえない偶然が重なった出来事にしか思えませんのに、マルコには「アレクサンドロとルフォスの父シモン」と説明書きがあり、彼の息子の名が記されています。さらにローマ人への手紙には「ルフォスによろしく」とあります。これは一体何を意味するのでしょうか。実は、このとき十字架を背負ったシモンの息子たちの名前です。それが後の教会の手紙に記されているということは、彼らが教会の軸・核として奉仕し活躍していた人物である、ということです。その彼らの元手となったのは、他ならぬこのとき「むりやり十字架を背負わされた」父シモンでした。それは決して偶然や無駄な出来事ではなく、神の深遠な計画が実現していたのです。この一点に神のご計画が実現しようとしている。このことに胸震わせる厳かな経験を礼拝でさせていただきたいのです。;これを読む私たちにはそれを知れる楽しみがあるのです。
◆真の自由と十字架のしみ
こうして十字架を背負わされ惨めいっぱいのイエスさまは、あなたの目にはどのように映っているでしょうか。哀れで、無力な人でしょうか。何もできない神の子としてあざけり笑うでしょうか。もっとすごいことを見せてくれ!と助け舟を出したくなる弱々しい人物でしょうか。このとき、イエスをそうさせたのはローマ兵士たちであり、群衆でありました。いわば、軍事力や数の力によって一人の人をいたぶり、からかい、いじめています。軍事力=暴力・力の支配は、相手に憎しみを与えます。互いに争い、その傷や痛み、恨みは子孫にまで及びます。国と国、民族と民族の争いが絶えないのは、軍事や力によって相手と争い、傷つけ、支配してきたからにほかなりません。何も国や民族という大きなことを考えなくても、あなたの身の回り、家庭や社会、地域において、もしひどいことを言われたら心の中であっても言い返しますし、やりきれない思いを抱えます。しかしこれは憎しみをもってかかってくる相手に支配されているしるしでもあります。相手に意地悪をされて憎しみや仕返しをたくらむなら、それは相手に心が支配されている状態で、それを喜ぶのは神さまではなく、サタン=悪魔です。悲しいかな私たちは悪魔の奴隷、手下となっていることにも気づかず、愚かに過ごしているのです。しかし、イエスさまはまったく別の道を選んでおられます。むち打たれても、ののしられても、暴力を振るわれても決してそれに抵抗することはありませんでした。そのイエスの十字架を背負ったのがこの時のシモンです。一説によれば彼はエルサレム神殿への礼拝のための巡礼者ですから一番良い晴れ着を来ていたとも言われます。その一張羅はイエスさまの背負われた十字架の血がにじみ、汚れたことでしょう。しかし、それは彼がイエスを信じる者としての最初の証しとなったのです。むりやり背負わされた彼の前には耐え忍びなお一歩ずつ進むイエスさまの姿がありました。それからの彼の生涯はイエスさまを遠巻きに見ていた野次馬から、イエスのあとに従ってついていくまことの弟子、クリスチャンとなりました。この道をあなたも選びませんか?

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三本の十字架

主日礼拝 2019年3月10日

聖書の言葉

ほかにも二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った。「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」
兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。「これはユダヤ人の王」と書いた札も、イエスの頭の上に掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。
すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

「ルカの福音書23章32-48節」(抜粋)

牧師の言葉

1. 十字架が分かれ道
十字架を背負ったイエスさまが到着したのは「どくろ」という名の場所でした。そこは名の通り「死刑にされるため」の場所。町外れにありながら、丘にあったと思われ、それは人々への見せしめ、見世物のためでもありました。当時の人々がはっきりと見ていたように、今、私たちもこの光景を目に浮かべ焼き付けよという位置取りなのです。聖書の証言はこのとき他に二人もいっしょに十字架刑にされたとしています。イエスが真ん中であることが分かるように「右と左」につけられました。イエスさまを中心にして、十字架を中心にして右と左に分かれ道がある。それは十字架が問いかけるメッセージです。
2. 「救い」の勘違い
イエスさまを含む三人が十字架につけられるこの場面で気づくことがあります。それは周囲にいる者たちが「救い」について思い違いをしているという点です。死刑を執行する兵士たちは何食わぬ顔でくじ引きをし、イエスの衣を4つに切り裂いて分けています。議員たちは「他人を救ったのなら、自分を救え」とあざ笑っています。兵士たちも同じように「王なら自分を救ってみろ」とあざけります。それどころか同じ十字架につけられている1人の男も「自分とおれたちを救え」と要求します。彼らに共通しているのは、イエスに対して「自分を救ってみろ」と言っている点です。もし、イエスさまが自分を救うことだけを考えていたら十字架につけられることはありませんでした。不当な裁判を回避し、十字架を押しのけることも、敵を瞬時に滅ぼすこともお出来になる力を持っておられる方だからです。しかし、イエスさまが地上に来られた目的は「仕えられるためではなく仕えるため」であり、いのちを救うためではなく「いのちを与えるため」(マルコ10:45)だからです。世の王は自分の救いのため人々を支配し、そのいのちを奪うことがありますが、まことの王であるイエスはそれとは真逆のことをしてくださいました。十字架での「救い」はイエスさまご自身のためではなく、「何をしているのか分からない」でいる自分の罪深さに気づけない人を救うためなのです。
3. パラダイスへ
このときイエスさまが十字架上された「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」という約束が光っています。直前で犯罪人が「あなたの御国」という言葉を発しています。この人は、イエスさまが地上での最期を迎えた後、「御国」に帰られることを知っていました。もう一つ、彼が分かっていたのは自分が十字架刑に値する罪人だということです。「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ」と告白しています。自分は死んで当然の者であり、それに値する罪を犯してきた。しかし、この方イエスは悪いことを何もせず罪もないのに十字架につけられている。ここに私たちも知るべき事柄、告白すべき言葉があります。①自分は罪人であること、②罪のないイエスさまは自分ではなく罪人を救うために十字架につけられたことです。地上の生涯を終えて「パラダイス」でイエスに迎えられたのはこれらに気づき、悔い改め、告白した罪人その人でした。

十字架を背負って

主日礼拝 2019年3月3日

聖書の言葉

彼らはイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人を捕まえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。
民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った。
イエスは彼女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。

「ルカの福音書23章26-31節」(抜粋)

牧師の言葉

◆たまたま通りがかって
ここは一見唐突な場面です。イエスが十字架を背負って「ドロローサ=悲しみの道」を途上する際、たまたまそこにいた「クレネ人シモン」にむりやり十字架を負わせたというのです。おそらくイエスが重みに耐えきれず何度もつまずくので、代わりに背負う人物をあてがったのだと思われます。しかし、こんな偶然の重なりの中に、不思議な神のわざが現れることとなります。大勢いた人々でなぜシモンが。クレネとは今日のアフリカ大陸リビア地方だと思われます。そんな遠くからなぜそこにいたのか。総合しても、ありえない偶然が重なった出来事にしか思えませんのに、マルコには「アレクサンドロとルフォスの父シモン」と説明書きがあり、彼の息子の名が記されています。さらにローマ人への手紙には「ルフォスによろしく」とあります。これは一体何を意味するのでしょうか。実は、このとき十字架を背負ったシモンの息子たちの名前です。それが後の教会の手紙に記されているということは、彼らが教会の軸・核として奉仕し活躍していた人物である、ということです。その彼らの元手となったのは、他ならぬこのとき「むりやり十字架を背負わされた」父シモンでした。それは決して偶然や無駄な出来事ではなく、神の深遠な計画が実現していたのです。この一点に神のご計画が実現しようとしている。このことに胸震わせる厳かな経験を礼拝でさせていただきたいのです。;これを読む私たちにはそれを知れる楽しみがあるのです。
◆真の自由と十字架のしみ
こうして十字架を背負わされ惨めいっぱいのイエスさまは、あなたの目にはどのように映っているでしょうか。哀れで、無力な人でしょうか。何もできない神の子としてあざけり笑うでしょうか。もっとすごいことを見せてくれ!と助け舟を出したくなる弱々しい人物でしょうか。このとき、イエスをそうさせたのはローマ兵士たちであり、群衆でありました。いわば、軍事力や数の力によって一人の人をいたぶり、からかい、いじめています。軍事力=暴力・力の支配は、相手に憎しみを与えます。互いに争い、その傷や痛み、恨みは子孫にまで及びます。国と国、民族と民族の争いが絶えないのは、軍事や力によって相手と争い、傷つけ、支配してきたからにほかなりません。何も国や民族という大きなことを考えなくても、あなたの身の回り、家庭や社会、地域において、もしひどいことを言われたら心の中であっても言い返しますし、やりきれない思いを抱えます。しかしこれは憎しみをもってかかってくる相手に支配されているしるしでもあります。相手に意地悪をされて憎しみや仕返しをたくらむなら、それは相手に心が支配されている状態で、それを喜ぶのは神さまではなく、サタン=悪魔です。悲しいかな私たちは悪魔の奴隷、手下となっていることにも気づかず、愚かに過ごしているのです。しかし、イエスさまはまったく別の道を選んでおられます。むち打たれても、ののしられても、暴力を振るわれても決してそれに抵抗することはありませんでした。そのイエスの十字架を背負ったのがこの時のシモンです。一説によれば彼はエルサレム神殿への礼拝のための巡礼者ですから一番良い晴れ着を来ていたとも言われます。その一張羅はイエスさまの背負われた十字架の血がにじみ、汚れたことでしょう。しかし、それは彼がイエスを信じる者としての最初の証しとなったのです。むりやり背負わされた彼の前には耐え忍びなお一歩ずつ進むイエスさまの姿がありました。それからの彼の生涯はイエスさまを遠巻きに見ていた野次馬から、イエスのあとに従ってついていくまことの弟子、クリスチャンとなりました。この道をあなたも選びませんか?

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