日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「「何%従いますか?」」

主日礼拝 2019年5月12日

彼に七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを所有していた。この人は東の人々の中で一番の有力者であった。
彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の順番の日に、家で宴会を開き、人を遣わして彼らの三人の姉妹も招き、よく一緒に食べたり飲んだりしていた。
宴会の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別した。朝早く起きて、彼ら一人ひとりのために、それぞれの全焼のささげ物を献げたのである。ヨブは、「もしかすると、息子たちが罪に陥って、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。

「ヨブ記1章2-5節」

牧師の言葉

1. どこをゴールに
ヨブは相当な繁栄をその人生で与えられていました。遊牧生活の時代にあって家畜や家族、しもべのおびただしいほどの数はそのまま祝福の現れでもあります。それは「東の方で一番の有力者」と称されるほどです。おおよそこういう人物は政治や財界において高い立場に登り、その活躍を記されていくのが自然の流れでしょうが、聖書は世での活躍とは全く違った家族の様子に読者の目を向けていきます。ヨブの息子、娘たちはよく宴会を催していました。互いの「順番の日」(おそらく誕生日、参照3:1)にそれぞれの家に招いて家族全員でお祝いをしていたのです。このようにヨブには理想的な富と家族と愛の交わりとがありました。ディズニー映画とは違うのは、こうした表面的な繁栄がゴールではない点です。聖書には神を中心とした視点が必ずあるからです。
2. ここから礼拝へ
当時の宴会は一週間ほど続くこともあったようですが、ヨブはそれらが一段落すると子どもたちを呼び寄せました。しかも「朝早く」とありますから宴会とは一転した規律あるリズムが生まれています。そこで彼らを「聖別」するためです。「聖別」とは礼拝のために身を聖め整える準備です。宴会の雰囲気を持ち込むのでも、着の身着のまま流れにまかせてでもなく、はっきりと礼拝に向かって一線を画します。「聖別する」は「分離する」が字義的な意味です。普段の生活や世からはっきりと分離し、神の前に出る。礼拝へ向かう原点がここにあるような気がします。「聖別」は自分を「神専用」として整えることです。神専用の自分として礼拝に臨む交わりの中に、主なる神さまは語り、働いてくださるのではないでしょうか。
3. 生きて神に従う
その時代の礼拝は「全焼のささげ物」がハイライトでした。それは文字通り動物を神へのいけにえとするもので、すべてを「全焼」して煙を立ち昇らせます。旧約聖書には和解のささげ物、穀物のささげ物とありますが、この全焼のささげ物だけは祭司にもその取り分はなく、すべてあますところなく主への犠牲としてなければなりません。それはこの全焼のいけにえは「完全な服従」の意味・表明しているからです。1章1節において「この人は誠実で(完全で)・・・神を恐れて」と記されていたのはまさにこの点においてです。ヨブは一部ではなくすべてをもって神を礼拝し、神に従う信仰者でした。またそれを自分だけの生き方とせず、家族にしっかりと教え込みました。子どもたちには財産ではなく、神を恐れる信仰を受け継がせるのがヨブ家の指針です。明らかな罪はもちろんのこと「心の中で神を呪ったかもしれない」隠れた罪にも向けられた徹底ぶりでした。隠せるものは隠しておこうという身勝手な礼拝ではなく、すべてをさらけ出し、全面的に悔い改めるのが神に受け入れられる真の礼拝であることをヨブの姿は語っています。罪人の責任のとり方はいのちを賭けたり、隠れ退くものではなく、罪を告白し、罪を悔い改め、赦しをいただき、感謝と賛美をもって神の栄光のため生きることです。

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聖書の言葉

「「神を恐れて」(ヨブ記始まり)」

主日礼拝 2019年5月5日

1:1 ウツの地に、その名をヨブという人がいた。この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。

「ヨブ記」1章1節

牧師の言葉

1. ヨブ記を学ぶにあたって
今回から旧約聖書「ヨブ記」を15回ほどで学びます。初めにあたり、この書を読むねらいについて分かち合います。ヨブ記は聖書の中でも文学的な芸術作品として知られ、親しまれてきました(その構成は複雑なため構成図を作成・印刷しましたので聖書に挟んでご利用ください)。ヨブ記が扱っているテーマも多岐に渡るのですが、以下の3つに絞って進んでまいります。①人生の苦しみについて(因果応報の考え方、苦難と信仰の関係、苦難における神の主権とあわれみ)、②神の義について(神がおられるならなぜ災害や悪が起こるのを許されるのか)、③真の慰めについて(人からの助言が苛立つ理由、「なぜ?」と叫びたくなる事柄に対する神からの回答)に大きく分け、全15回ほどでヨブ記全体1〜42章を見ていくこととします。聖書は神からのメッセージが強い印象かと思いますが、ヨブは人間から神へ語りかけ、叫び、思いをぶつける要素が多い書物です。ぜひご一緒にヨブ記の深みを味わいましょう。
2. 初めの一行で
初回は1節のみ。これから始まる壮大な書物の設定が打ち出されています。主人公は「ヨブ」。人名は人となりや神が語ろうとする内容を表す場合とがあり、ヨブには「敵」「憎む」として災難を受けた者を表す説(ヘブル語根)や「帰る」「悔いる」として苦難を通して信仰に立ち返る(アラム語根)説があります。聖書の人名はその人となりを表す場合とその人物の生涯を通して語られる神のメッセージを表す場合とがあります。そして、舞台となる「ウツの地」は「ウツの地エドムよ」(哀歌4:21)とあるように、ヤコブに長子の祝福を売った兄エサウの子孫エドム人の地です。いわゆるイスラエル人にとっては「本流から外れた地(亜流)」となります。神の民としての選民意識が高かった彼らにとって、エドム人の地に住む者の信仰が描かれている点が癪(しゃく)に障ったかもしれません。日本昔話の「むかしむかし、あるところに〜」のようなありきたりの出だしではなく、なにか「引っかかり」を感じる始まりとなっています。そのヨブについての記述はこうです。「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」のですから、読者にとってますます引き込まれる表現になっています。
3. 誠実でまっすぐで・・・
「誠実」は完全で欠けのない様子を、「正しい」はまっすぐ、無垢であることを表しますが、それぞれが「神を恐れ」と「悪から遠ざかっていた」とで補完され、ヨブの完全さとは「完全に神を信頼する」信仰においてであること、また彼の「正しさ」は「悪から遠ざかる(目を向けない)」と生活においてであることが分かります。そんな非の打ち所のないように見えるヨブの上に、前代未聞(未曾有)の災難が降りかかります。ということは、ここですでに「因果応報=悪い行いに応じて災難があてがわれる」との考えは退けられています。自らの悪が苦難をもたらし、自らの正しさが平穏や祝福をもたらす定式から離れ、みことばの真理を見つめながらヨブ記を学んでまいりましょう。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

「何%従いますか?」

主日礼拝 2019年5月12日

聖書の言葉

彼に七人の息子と三人の娘が生まれた。彼は羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを所有していた。この人は東の人々の中で一番の有力者であった。
彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の順番の日に、家で宴会を開き、人を遣わして彼らの三人の姉妹も招き、よく一緒に食べたり飲んだりしていた。
宴会の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別した。朝早く起きて、彼ら一人ひとりのために、それぞれの全焼のささげ物を献げたのである。ヨブは、「もしかすると、息子たちが罪に陥って、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。

「ヨブ記1章2-5節」

牧師の言葉

1. どこをゴールに
ヨブは相当な繁栄をその人生で与えられていました。遊牧生活の時代にあって家畜や家族、しもべのおびただしいほどの数はそのまま祝福の現れでもあります。それは「東の方で一番の有力者」と称されるほどです。おおよそこういう人物は政治や財界において高い立場に登り、その活躍を記されていくのが自然の流れでしょうが、聖書は世での活躍とは全く違った家族の様子に読者の目を向けていきます。ヨブの息子、娘たちはよく宴会を催していました。互いの「順番の日」(おそらく誕生日、参照3:1)にそれぞれの家に招いて家族全員でお祝いをしていたのです。このようにヨブには理想的な富と家族と愛の交わりとがありました。ディズニー映画とは違うのは、こうした表面的な繁栄がゴールではない点です。聖書には神を中心とした視点が必ずあるからです。
2. ここから礼拝へ
当時の宴会は一週間ほど続くこともあったようですが、ヨブはそれらが一段落すると子どもたちを呼び寄せました。しかも「朝早く」とありますから宴会とは一転した規律あるリズムが生まれています。そこで彼らを「聖別」するためです。「聖別」とは礼拝のために身を聖め整える準備です。宴会の雰囲気を持ち込むのでも、着の身着のまま流れにまかせてでもなく、はっきりと礼拝に向かって一線を画します。「聖別する」は「分離する」が字義的な意味です。普段の生活や世からはっきりと分離し、神の前に出る。礼拝へ向かう原点がここにあるような気がします。「聖別」は自分を「神専用」として整えることです。神専用の自分として礼拝に臨む交わりの中に、主なる神さまは語り、働いてくださるのではないでしょうか。
3. 生きて神に従う
その時代の礼拝は「全焼のささげ物」がハイライトでした。それは文字通り動物を神へのいけにえとするもので、すべてを「全焼」して煙を立ち昇らせます。旧約聖書には和解のささげ物、穀物のささげ物とありますが、この全焼のささげ物だけは祭司にもその取り分はなく、すべてあますところなく主への犠牲としてなければなりません。それはこの全焼のいけにえは「完全な服従」の意味・表明しているからです。1章1節において「この人は誠実で(完全で)・・・神を恐れて」と記されていたのはまさにこの点においてです。ヨブは一部ではなくすべてをもって神を礼拝し、神に従う信仰者でした。またそれを自分だけの生き方とせず、家族にしっかりと教え込みました。子どもたちには財産ではなく、神を恐れる信仰を受け継がせるのがヨブ家の指針です。明らかな罪はもちろんのこと「心の中で神を呪ったかもしれない」隠れた罪にも向けられた徹底ぶりでした。隠せるものは隠しておこうという身勝手な礼拝ではなく、すべてをさらけ出し、全面的に悔い改めるのが神に受け入れられる真の礼拝であることをヨブの姿は語っています。罪人の責任のとり方はいのちを賭けたり、隠れ退くものではなく、罪を告白し、罪を悔い改め、赦しをいただき、感謝と賛美をもって神の栄光のため生きることです。

「神を恐れて」(ヨブ記始まり)

主日礼拝 2019年5月5日

聖書の言葉

1:1 ウツの地に、その名をヨブという人がいた。この人は誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた。

「ヨブ記」1章1節

牧師の言葉

1. ヨブ記を学ぶにあたって
今回から旧約聖書「ヨブ記」を15回ほどで学びます。初めにあたり、この書を読むねらいについて分かち合います。ヨブ記は聖書の中でも文学的な芸術作品として知られ、親しまれてきました(その構成は複雑なため構成図を作成・印刷しましたので聖書に挟んでご利用ください)。ヨブ記が扱っているテーマも多岐に渡るのですが、以下の3つに絞って進んでまいります。①人生の苦しみについて(因果応報の考え方、苦難と信仰の関係、苦難における神の主権とあわれみ)、②神の義について(神がおられるならなぜ災害や悪が起こるのを許されるのか)、③真の慰めについて(人からの助言が苛立つ理由、「なぜ?」と叫びたくなる事柄に対する神からの回答)に大きく分け、全15回ほどでヨブ記全体1〜42章を見ていくこととします。聖書は神からのメッセージが強い印象かと思いますが、ヨブは人間から神へ語りかけ、叫び、思いをぶつける要素が多い書物です。ぜひご一緒にヨブ記の深みを味わいましょう。
2. 初めの一行で
初回は1節のみ。これから始まる壮大な書物の設定が打ち出されています。主人公は「ヨブ」。人名は人となりや神が語ろうとする内容を表す場合とがあり、ヨブには「敵」「憎む」として災難を受けた者を表す説(ヘブル語根)や「帰る」「悔いる」として苦難を通して信仰に立ち返る(アラム語根)説があります。聖書の人名はその人となりを表す場合とその人物の生涯を通して語られる神のメッセージを表す場合とがあります。そして、舞台となる「ウツの地」は「ウツの地エドムよ」(哀歌4:21)とあるように、ヤコブに長子の祝福を売った兄エサウの子孫エドム人の地です。いわゆるイスラエル人にとっては「本流から外れた地(亜流)」となります。神の民としての選民意識が高かった彼らにとって、エドム人の地に住む者の信仰が描かれている点が癪(しゃく)に障ったかもしれません。日本昔話の「むかしむかし、あるところに〜」のようなありきたりの出だしではなく、なにか「引っかかり」を感じる始まりとなっています。そのヨブについての記述はこうです。「誠実で直ぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっていた」のですから、読者にとってますます引き込まれる表現になっています。
3. 誠実でまっすぐで・・・
「誠実」は完全で欠けのない様子を、「正しい」はまっすぐ、無垢であることを表しますが、それぞれが「神を恐れ」と「悪から遠ざかっていた」とで補完され、ヨブの完全さとは「完全に神を信頼する」信仰においてであること、また彼の「正しさ」は「悪から遠ざかる(目を向けない)」と生活においてであることが分かります。そんな非の打ち所のないように見えるヨブの上に、前代未聞(未曾有)の災難が降りかかります。ということは、ここですでに「因果応報=悪い行いに応じて災難があてがわれる」との考えは退けられています。自らの悪が苦難をもたらし、自らの正しさが平穏や祝福をもたらす定式から離れ、みことばの真理を見つめながらヨブ記を学んでまいりましょう。

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