日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「0でも100でも」

主日礼拝 2019年6月9日

ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食べたりぶどう酒を飲んだりしていたとき、一人の使者がヨブのところにやって来て言った。「牛が耕し、そのそばでろばが草を食べていると、シェバ人が襲いかかってこれを奪い取り、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました。」
この者がまだ話している間に、もう一人が来て言った。「神の火が天から下って、羊と若い者たちを焼き滅ぼしました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました。」
この者がまだ話している間に、もう一人が来て言った。「カルデア人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い取り、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました。」
この者がまだ話している間に、もう一人が来て言った。「あなたのご子息やお嬢さんたちは、一番上のお兄さんの家で食べたりぶどう酒を飲んだりしておられました。そこへ荒野の方から大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、皆様亡くなられました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました。」
このとき、ヨブは立ち上がって上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝し、
そして言った。
「私は裸で母の胎から出て来た。 また裸でかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな。」
ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。

「ヨブ記1章13-22節」

牧師の言葉

■天から地から災難が
天上での会議が終わり、いよいよサタンがヨブへと襲いかかります。ナルニア国物語等で著名なC.S.ルイスという作家は、サタン(悪魔)についての二つの誤りを記しています。一つはサタンなどいないと思いこむこと、もう一つは必要以上にサタンを恐れることです。私たちには聖書の教えている範囲と内容をしっかりと把握し、正しい知識を持つことが賢明です。サタンのヨブに対する攻撃はすさまじいもので、次々と災難が起こり、家畜からしもべ、最後には息子娘たちまで殺され死んでしまいました。しかも、この箇所からは「ある日」といつもと変わらぬ祝いの日に突然襲った災難の数々。しかもたった1日の出来事であったことが分かります。サタンはヨブに立ち直る隙きを一分も与えない徹底ぶり。さらに、順序をたどるとシェバ人(地)→神の火(天)→カルデア人(地)→大風(天)と目まぐるしく天災と人災とが襲いかかり、まさに天も地もヨブにはいっさい味方しないような波状攻撃。この世のすべてが自分にとって敵であるような状況に追い込まれたとき、あなたならどうするでしょうか?
■絶対的信仰と相対的信仰
ヨブは、上着を引き裂き、髪を剃り上げ、地にひれ伏して主を礼拝しました。ヨブの信仰をひとことで表現するなら「絶対的信仰」です。ヨブは被災しても、無一文になっても、我が子らを失っても、神を礼拝する姿勢はなくなりませんでした。感謝することがあるから、恵まれているから、良くしてもらっているから礼拝しているのではありません。あるいは、願いを聞き入れてほしいから、苦境から救ってほしいから礼拝しているわけでもありません。ヨブの絶対的な信仰の反対は・・・相対的、一時的、感情的、気分的、曜日限定、場所限定、自己満足度の信仰です。試練や気分の変化によって、聖書を読まなくなり、声に出して祈らなくなり、霊的熱心さをもって賛美できなくなるのが自分の姿であるような気がします。生活の安定や祝福や気分をバロメーターにするならば、ヨブはそれが100であっても、0であっても神への礼拝を止めることはしませんでした。自分はヨブのような信仰は持てない・・・そう思い込ませるのがヨブ記のねらいなのでしょうか?
■礼拝=偉大な方からの使命
このとき、ヨブは「私は裸で出て来た・・・裸で帰ろう」と自分自身のことから始めました。少し意外かもしれませんが、礼拝を始めるとき、まずは自分の正しい位置認識を持つことが大事だということです。それから、主に向かうのです。ここでヨブは「自分なんかどうでもいい」「吹けば飛ぶような軽い存在だ」とは言っていません。この地上の生涯の始まりと終わりは「裸」であり、その間に持っているものは預かり物、恵みに他ならないと認めているのです。それは傲慢さや感情の暴走から守ってくれる一つの真理です。それから神について「主は与え・・・取られる」と告白し、神が主権者なるお方であることを認めています。礼拝の原点は、自分は神の恵みによって生かされ、財産や環境は預かっているもので、いっさいは主の御手のうちにあることを覚えるのです。神は礼拝を受けるにふさわしいお方であることを賛美するのです。自分に礼拝したい気持ちがあるから、人に見せるため、神の機嫌を取るためでは決してありません。人は神礼拝に生きてこそ、自分の位置や価値を認識し、正しい道に生きていることに慰めと平安を得ます。ここでヨブは人生を呪うことも、絶望に明け暮れることもできましたが、いち早く礼拝へ向かいました。人は息をすることさえ主に頼って生きています。ヨブは自分の源、いのちは主から来ていることを知り、使命を託された主を正確に知っていました。何かを失い、気分を損ねて神に背を向けるのは、神をちっぽけにしている行為です。この世で唯一はじめから存在している偉大な神が、ヨブに、あなたに託されている使命こそ「礼拝」なのです。生きている間中、主を全力で賛美し、礼拝することです。

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聖書の言葉

「与え始めよう」

主日礼拝 2019年6月2日

ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。
また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

「マタイの福音書13章18-23節」

牧師の言葉

■人間の限界・・・
「生きる」存在である私たちは「考える」存在でもあります。「人はパンだけで生きるのではない」という聖書の言葉には納得できる方が多いのではないでしょうか。ただ身体的な機能、時間的な長さで生きるだけでは満足できないのです。自分の存在を喜び、自信を持ち、価値があると信じて生きることを願うもの。それで人間の知恵は美容、グルメ、通信、娯楽についてあらゆる知識を駆使し日々新たなものを発明しますが、どれも一時的なもの。霊的で真の満足をもたらすものではありません。それは人間には「霊的」な領域があるからです。心底満たされる平安やかき消されない希望こそ人間が真に必要としているものなのです。人間は精密機械の設計図は書けるのに、神について正確な知識は持っていません。保険や年金など将来については堅実な計画を立てますが、神や永遠については無知で、反知性、反理性的で倒錯しています。人間は神については無知で、霊的な満足に対して無力です。この限界を超える発明はないのでしょうか?
■種は変わらないもののたとえ
聖書は、人間の「霊的」な部分に対する知識を与えるものです。技術や知識、文明の進歩はすさまじいものがありますが、昨日まで役立ったものが他に取って代わられることがありますが、ここで蒔かれている「種」は変わらない神の真理をたとえています。「草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」(Ⅰペテロ1:24-25)のです。なぜ、そのように言えるのでしょうか?それは聖書のことばを語っている方が永遠の神であるからです。変わることも消えることもなく、偽ることも嘘も言えないお方である神が発信されたことばであるがゆえ、そのまま信じてしまえるのです。もし、人間には神についての知識や永遠への見通しに限界があると認めるならば、唯一の救いは、神ご自身から注がれる知識、明かされる道筋(永遠)にすがり、うなずいて受け入れる(聞いて悟る)ことです。聖書はただ優れた有益な書物にとどまらず、霊の糧としていただき、このことばによって生きる時、この世のものからは得られなかった平安と希望を味わうものとなるものです。
■与え、実を結ぶ人生を
死を間近にした人は楽しかったとか幸せだったかよりも「自分が生きてきた意味があったのか」「世界にとって自分の人生は何かしらの意味があったのか」を問うそうです。それは「自分の人生でどれだけ与えることができたか」に換言できます。普段は〜してほしい、〜であったらよかったのにと自分に向いている矢印が、ようやく自分以外の人へと向き直るのです。それはどれだけ与えたかが、自分の生きる意味だと悟るからでしょう。今、あなたに蒔かれている種をどのように聞き、受け取り、生かしていくでしょうか?「良い地」は耕される土地です。神さまに耕され手入れされることによって変えられ、与えて実を結ぶ人生をともに歩みましょう。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

0でも100でも

主日礼拝 2019年6月9日

聖書の言葉

ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食べたりぶどう酒を飲んだりしていたとき、一人の使者がヨブのところにやって来て言った。「牛が耕し、そのそばでろばが草を食べていると、シェバ人が襲いかかってこれを奪い取り、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました。」
この者がまだ話している間に、もう一人が来て言った。「神の火が天から下って、羊と若い者たちを焼き滅ぼしました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました。」
この者がまだ話している間に、もう一人が来て言った。「カルデア人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い取り、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました。」
この者がまだ話している間に、もう一人が来て言った。「あなたのご子息やお嬢さんたちは、一番上のお兄さんの家で食べたりぶどう酒を飲んだりしておられました。そこへ荒野の方から大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、皆様亡くなられました。私一人だけが逃れて、あなたに知らせに参りました。」
このとき、ヨブは立ち上がって上着を引き裂き、頭を剃り、地にひれ伏して礼拝し、
そして言った。
「私は裸で母の胎から出て来た。 また裸でかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな。」
ヨブはこれらすべてのことにおいても、罪に陥ることなく、神に対して愚痴をこぼすようなことはしなかった。

「ヨブ記1章13-22節」

牧師の言葉

■天から地から災難が
天上での会議が終わり、いよいよサタンがヨブへと襲いかかります。ナルニア国物語等で著名なC.S.ルイスという作家は、サタン(悪魔)についての二つの誤りを記しています。一つはサタンなどいないと思いこむこと、もう一つは必要以上にサタンを恐れることです。私たちには聖書の教えている範囲と内容をしっかりと把握し、正しい知識を持つことが賢明です。サタンのヨブに対する攻撃はすさまじいもので、次々と災難が起こり、家畜からしもべ、最後には息子娘たちまで殺され死んでしまいました。しかも、この箇所からは「ある日」といつもと変わらぬ祝いの日に突然襲った災難の数々。しかもたった1日の出来事であったことが分かります。サタンはヨブに立ち直る隙きを一分も与えない徹底ぶり。さらに、順序をたどるとシェバ人(地)→神の火(天)→カルデア人(地)→大風(天)と目まぐるしく天災と人災とが襲いかかり、まさに天も地もヨブにはいっさい味方しないような波状攻撃。この世のすべてが自分にとって敵であるような状況に追い込まれたとき、あなたならどうするでしょうか?
■絶対的信仰と相対的信仰
ヨブは、上着を引き裂き、髪を剃り上げ、地にひれ伏して主を礼拝しました。ヨブの信仰をひとことで表現するなら「絶対的信仰」です。ヨブは被災しても、無一文になっても、我が子らを失っても、神を礼拝する姿勢はなくなりませんでした。感謝することがあるから、恵まれているから、良くしてもらっているから礼拝しているのではありません。あるいは、願いを聞き入れてほしいから、苦境から救ってほしいから礼拝しているわけでもありません。ヨブの絶対的な信仰の反対は・・・相対的、一時的、感情的、気分的、曜日限定、場所限定、自己満足度の信仰です。試練や気分の変化によって、聖書を読まなくなり、声に出して祈らなくなり、霊的熱心さをもって賛美できなくなるのが自分の姿であるような気がします。生活の安定や祝福や気分をバロメーターにするならば、ヨブはそれが100であっても、0であっても神への礼拝を止めることはしませんでした。自分はヨブのような信仰は持てない・・・そう思い込ませるのがヨブ記のねらいなのでしょうか?
■礼拝=偉大な方からの使命
このとき、ヨブは「私は裸で出て来た・・・裸で帰ろう」と自分自身のことから始めました。少し意外かもしれませんが、礼拝を始めるとき、まずは自分の正しい位置認識を持つことが大事だということです。それから、主に向かうのです。ここでヨブは「自分なんかどうでもいい」「吹けば飛ぶような軽い存在だ」とは言っていません。この地上の生涯の始まりと終わりは「裸」であり、その間に持っているものは預かり物、恵みに他ならないと認めているのです。それは傲慢さや感情の暴走から守ってくれる一つの真理です。それから神について「主は与え・・・取られる」と告白し、神が主権者なるお方であることを認めています。礼拝の原点は、自分は神の恵みによって生かされ、財産や環境は預かっているもので、いっさいは主の御手のうちにあることを覚えるのです。神は礼拝を受けるにふさわしいお方であることを賛美するのです。自分に礼拝したい気持ちがあるから、人に見せるため、神の機嫌を取るためでは決してありません。人は神礼拝に生きてこそ、自分の位置や価値を認識し、正しい道に生きていることに慰めと平安を得ます。ここでヨブは人生を呪うことも、絶望に明け暮れることもできましたが、いち早く礼拝へ向かいました。人は息をすることさえ主に頼って生きています。ヨブは自分の源、いのちは主から来ていることを知り、使命を託された主を正確に知っていました。何かを失い、気分を損ねて神に背を向けるのは、神をちっぽけにしている行為です。この世で唯一はじめから存在している偉大な神が、ヨブに、あなたに託されている使命こそ「礼拝」なのです。生きている間中、主を全力で賛美し、礼拝することです。

与え始めよう

主日礼拝 2019年6月2日

聖書の言葉

ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。
また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

「マタイの福音書13章18-23節」

牧師の言葉

■人間の限界・・・
「生きる」存在である私たちは「考える」存在でもあります。「人はパンだけで生きるのではない」という聖書の言葉には納得できる方が多いのではないでしょうか。ただ身体的な機能、時間的な長さで生きるだけでは満足できないのです。自分の存在を喜び、自信を持ち、価値があると信じて生きることを願うもの。それで人間の知恵は美容、グルメ、通信、娯楽についてあらゆる知識を駆使し日々新たなものを発明しますが、どれも一時的なもの。霊的で真の満足をもたらすものではありません。それは人間には「霊的」な領域があるからです。心底満たされる平安やかき消されない希望こそ人間が真に必要としているものなのです。人間は精密機械の設計図は書けるのに、神について正確な知識は持っていません。保険や年金など将来については堅実な計画を立てますが、神や永遠については無知で、反知性、反理性的で倒錯しています。人間は神については無知で、霊的な満足に対して無力です。この限界を超える発明はないのでしょうか?
■種は変わらないもののたとえ
聖書は、人間の「霊的」な部分に対する知識を与えるものです。技術や知識、文明の進歩はすさまじいものがありますが、昨日まで役立ったものが他に取って代わられることがありますが、ここで蒔かれている「種」は変わらない神の真理をたとえています。「草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ」(Ⅰペテロ1:24-25)のです。なぜ、そのように言えるのでしょうか?それは聖書のことばを語っている方が永遠の神であるからです。変わることも消えることもなく、偽ることも嘘も言えないお方である神が発信されたことばであるがゆえ、そのまま信じてしまえるのです。もし、人間には神についての知識や永遠への見通しに限界があると認めるならば、唯一の救いは、神ご自身から注がれる知識、明かされる道筋(永遠)にすがり、うなずいて受け入れる(聞いて悟る)ことです。聖書はただ優れた有益な書物にとどまらず、霊の糧としていただき、このことばによって生きる時、この世のものからは得られなかった平安と希望を味わうものとなるものです。
■与え、実を結ぶ人生を
死を間近にした人は楽しかったとか幸せだったかよりも「自分が生きてきた意味があったのか」「世界にとって自分の人生は何かしらの意味があったのか」を問うそうです。それは「自分の人生でどれだけ与えることができたか」に換言できます。普段は〜してほしい、〜であったらよかったのにと自分に向いている矢印が、ようやく自分以外の人へと向き直るのです。それはどれだけ与えたかが、自分の生きる意味だと悟るからでしょう。今、あなたに蒔かれている種をどのように聞き、受け取り、生かしていくでしょうか?「良い地」は耕される土地です。神さまに耕され手入れされることによって変えられ、与えて実を結ぶ人生をともに歩みましょう。

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