日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「救い出されよ!」

主日礼拝 2019年7月14日

2:11さて、ヨブの三人の友が、ヨブに降りかかったこれらすべての災いのことを聞き、それぞれ自分のところから訪ねて来た。すなわち、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルである。彼らはヨブに同情し、慰めようと、互いに打ち合わせて来た。
12彼らは遠くから目を上げて彼を見たが、それがヨブであることが見分けられなかった。彼らは声をあげて泣き、それぞれ自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。
13彼らは彼とともに七日七夜、地に座っていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みが非常に大きいのを見たからである。

「ヨブ記2商11-13節」

牧師の言葉

1. 痛む者の友
ヨブにふりかかった未曾有の惨事を聞きつけた時、3人の友が駆け寄ってくれました。彼らは同情と慰めを注ごうと「打ち合わせ」てヨブを訪ねます。3人の出所が記されているところを見ると、それぞれ遠くから心を寄せて来てくれたことが伺えます。この時3人の友は遠くからヨブを見ましたが、その痛みの大きさを見て、一言も話しかけることができませんでした。それは逆に彼らが同情の言葉、慰めの言葉をかけるつもりであったとも言えます。しかし、いざヨブの惨事を目の当たりにした時、それは聞きしに勝る痛みで、何も言えなくなってしまいました。3.11以後、私たち被災地に訪れてくれた世界各地からの助け手の存在と重なってきます。大震災後、現地で立ち尽くす人、うずくまる人、うなだれている人を前にした時、かける言葉が見つかりませんでした。そもそも自分が話すこともふさわしくない(資格がない)と呆然としたことも思い出されます。人は他者の痛みに対して、思った以上に無力なのです。それは親しい友であっても同じでした。彼らは遠くから見てヨブだとわからないほどとわかりました。人の痛みを現実にした時、友であっても言葉を失います。知ったからこそ言葉が出てこないのです。
2. 無言の慰め
これは私たちにも大事なレッスンです。悩みの友には何とか励ましをと願っても言葉が見つからないなら、それは沈黙する時です。相手の思いを先回りしても、結果、当事者の口をふさいでしまうことになります。無言は気まずいかもしれませんが、真の友・隣人はそれを恐れません。何か気の利いたことを言わなければと焦るよりも、じっとそこにいることの方が必要で欠かせない時間でもあります。用意され、考えられた100の言葉よりも、何も言わず傍らに過ごすわずかな時間が痛みを抱える者には忘れ得ぬ慰め、癒やしとなることがあるからです。一緒にいて無言であっても気まずくならず、ただいられる間柄。そんな友も少ないような気がしますから、そのような神があなたのそばにおいてくれた大変貴重な友ですね。
3. 救い出されよ
では最後に、苦しみや試練にある人と関わる時、神は私たちにどのような態度、姿勢を望んでおられるのでしょう?大きなこととして、まずその人の苦難や災難の原因や理由を突き止めることは奨励されていません。ある人の災難の大きさや度合いからその人の罪深さを測る・・・なんてことがあってはならないのです。そうした罰当たりや罪の報復、因果応報の思想は神から出たものではないからです。「私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め」(詩篇62:5)とあるようにそこから神を見上げることが第一です。苦しみにある人に、何とか説き伏せよう、悔い改めさせようとするのは人間や友の役割ではありません。むしろ、そうした罪から来る恐れは、キリストが十字架で断ち切ってくださったことを分かち合うことです。奴隷のような恐怖、拘束、縛りから解放されることなしに、神を喜ぶ信仰を持つことはできません。ヨブが自分の罪ゆえに息子娘を亡くしたことを真に受けていたら、その後の人生は自らを責め続けることしかできなくなります。救い主を知り、信じるということは、こうした罪の訴え、自分を責めることからの解放でもあるのです。「しかし今は、わたしたちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(ローマ7:6)

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

救い出されよ!

主日礼拝 2019年7月14日

聖書の言葉

2:11さて、ヨブの三人の友が、ヨブに降りかかったこれらすべての災いのことを聞き、それぞれ自分のところから訪ねて来た。すなわち、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルである。彼らはヨブに同情し、慰めようと、互いに打ち合わせて来た。
12彼らは遠くから目を上げて彼を見たが、それがヨブであることが見分けられなかった。彼らは声をあげて泣き、それぞれ自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした。
13彼らは彼とともに七日七夜、地に座っていたが、だれも一言も彼に話しかけなかった。彼の痛みが非常に大きいのを見たからである。

「ヨブ記2商11-13節」

牧師の言葉

1. 痛む者の友
ヨブにふりかかった未曾有の惨事を聞きつけた時、3人の友が駆け寄ってくれました。彼らは同情と慰めを注ごうと「打ち合わせ」てヨブを訪ねます。3人の出所が記されているところを見ると、それぞれ遠くから心を寄せて来てくれたことが伺えます。この時3人の友は遠くからヨブを見ましたが、その痛みの大きさを見て、一言も話しかけることができませんでした。それは逆に彼らが同情の言葉、慰めの言葉をかけるつもりであったとも言えます。しかし、いざヨブの惨事を目の当たりにした時、それは聞きしに勝る痛みで、何も言えなくなってしまいました。3.11以後、私たち被災地に訪れてくれた世界各地からの助け手の存在と重なってきます。大震災後、現地で立ち尽くす人、うずくまる人、うなだれている人を前にした時、かける言葉が見つかりませんでした。そもそも自分が話すこともふさわしくない(資格がない)と呆然としたことも思い出されます。人は他者の痛みに対して、思った以上に無力なのです。それは親しい友であっても同じでした。彼らは遠くから見てヨブだとわからないほどとわかりました。人の痛みを現実にした時、友であっても言葉を失います。知ったからこそ言葉が出てこないのです。
2. 無言の慰め
これは私たちにも大事なレッスンです。悩みの友には何とか励ましをと願っても言葉が見つからないなら、それは沈黙する時です。相手の思いを先回りしても、結果、当事者の口をふさいでしまうことになります。無言は気まずいかもしれませんが、真の友・隣人はそれを恐れません。何か気の利いたことを言わなければと焦るよりも、じっとそこにいることの方が必要で欠かせない時間でもあります。用意され、考えられた100の言葉よりも、何も言わず傍らに過ごすわずかな時間が痛みを抱える者には忘れ得ぬ慰め、癒やしとなることがあるからです。一緒にいて無言であっても気まずくならず、ただいられる間柄。そんな友も少ないような気がしますから、そのような神があなたのそばにおいてくれた大変貴重な友ですね。
3. 救い出されよ
では最後に、苦しみや試練にある人と関わる時、神は私たちにどのような態度、姿勢を望んでおられるのでしょう?大きなこととして、まずその人の苦難や災難の原因や理由を突き止めることは奨励されていません。ある人の災難の大きさや度合いからその人の罪深さを測る・・・なんてことがあってはならないのです。そうした罰当たりや罪の報復、因果応報の思想は神から出たものではないからです。「私のたましいよ 黙って ただ神を待ち望め」(詩篇62:5)とあるようにそこから神を見上げることが第一です。苦しみにある人に、何とか説き伏せよう、悔い改めさせようとするのは人間や友の役割ではありません。むしろ、そうした罪から来る恐れは、キリストが十字架で断ち切ってくださったことを分かち合うことです。奴隷のような恐怖、拘束、縛りから解放されることなしに、神を喜ぶ信仰を持つことはできません。ヨブが自分の罪ゆえに息子娘を亡くしたことを真に受けていたら、その後の人生は自らを責め続けることしかできなくなります。救い主を知り、信じるということは、こうした罪の訴え、自分を責めることからの解放でもあるのです。「しかし今は、わたしたちは自分を縛っていた律法に死んだので、律法から解かれました。その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」(ローマ7:6)

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