日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「神への敵対心」

主日礼拝 2019年9月8日

私には、咎と罪がどれほどあるのでしょうか。 私の背きと罪を私に知らせてください。
なぜ、あなたは御顔を隠し、 私をあなたの敵と見なされるのですか。
あなたは吹き散らされた木の葉を脅し、 乾いた藁を追いかけられるのですか。
実に、あなたは私に対し厳しい宣告を書きたて、 私の若いときの咎を負い続けさせます。
あなたは私の足にかせをはめ、 私が歩む道をことごとく見張り、 私の足の裏にしるしを刻まれます。
そのような者は、腐った物のように朽ちます。 シミが食った衣服のように。

「ヨブ記13章」(抜粋)

牧師の言葉

1.罪とは① 神と人との違い
神について正しい知識を持つためには、私たち人間と神とでは隔たり・違いがあることを認める必要があります。そうでなければ、どこまでいっても人間の想像の延長線上にしか神を描けず、人の思いや操作、時代によって変わってしまうこともあるからです。聖書によれば、神には時間や存在に関する限界もありません。言うことが変わらず、誰をも無条件で愛しておられます。人間はこれとは正反対です。生きる時間は限られ、存在に制約があり、気分や相手によって言うことも変わります。条件付きでなら人を愛することができます。そして、神と人とでもっとも違うのは「罪」です。神には罪がなく完全に聖であられるのに対して、人間には罪があります。新生児から年配者まで、どの時代に生きた者にも、どんな功績を残した者にも共通して「罪が横たわって」います。そして、聖書は犯罪や悪行、心の汚さによって罪を測るのではなく(それは比較対象が人間同士)、絶対的聖であり真実である神の前で測るため、誰もが例外なく罪ある者として数えられるのです。人間はみな、生まれつき神への敵対心をもって反逆している罪人なのです。

2.罪とは② 一滴でもあれば全体が罪
人間を善人と悪人に分けることはできませんし、すべきでもありません。誰にも良い点と悪い点があるからです。例を挙げれば、ヒトラーはフランスのある地域だけは攻撃しないよう命令したそうです。それをもって彼を善人とは呼べません。反対に、立派な教育者が家庭では別人である場合もあります。重要なのは、罪とは「程度」の問題ではないということです。最低・最悪に達した者だけが罪人で、ある程度までなら罪人と呼ばれない、とはならないのです。 なぜなら、神の基準に達していないものはすべて罪だからです。そして、完全に聖であられる神の前では、一点の汚れ、曇りも許されません。これこそ神と人との絶対的隔たりであり、違いです。今朝の箇所で「私には、咎と罪がどれほどあるのでしょうか。私の背きと罪を私に知らせてください」(13:23)と叫んでいるのは、地上でもっとも誠実なヨブでした。これが、罪から免れる人は歴史上誰もいないことを証ししています。

3.罪とは③ 救いの道
罪人である人間が自分や他人を救うことはできません。であれば、残された救いの道は罪のない完全な人に「すがる」ことです。神が用意された法則は「…一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら…一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになる」(ローマ5:17)ものでした。最初の人間アダムとエバは神の言葉に背き、自分を主として歩む決断をしました。それによりすべての人が罪をもって生まれ、罪人として生きます。たった一人のせいで全人類が罪人に?と不公平と感じるかもしれません。しかし、同じように神は救いに関しても「一人の人」を起こし、イエスを救い主として地上に送られました。二千年前の十字架で、私たちはまだ生まれてもいませんでしたが、救いが必要な者として、すでにそのときに覚えられ、選ばれていたのです。これはアダムから引き継ぐ原罪で罪人とされる以上に、イエスのおかげで救われるのは神による驚くべき恵みと言うほかありません。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

神への敵対心

主日礼拝 2019年9月8日

聖書の言葉

私には、咎と罪がどれほどあるのでしょうか。 私の背きと罪を私に知らせてください。
なぜ、あなたは御顔を隠し、 私をあなたの敵と見なされるのですか。
あなたは吹き散らされた木の葉を脅し、 乾いた藁を追いかけられるのですか。
実に、あなたは私に対し厳しい宣告を書きたて、 私の若いときの咎を負い続けさせます。
あなたは私の足にかせをはめ、 私が歩む道をことごとく見張り、 私の足の裏にしるしを刻まれます。
そのような者は、腐った物のように朽ちます。 シミが食った衣服のように。

「ヨブ記13章」(抜粋)

牧師の言葉

1.罪とは① 神と人との違い
神について正しい知識を持つためには、私たち人間と神とでは隔たり・違いがあることを認める必要があります。そうでなければ、どこまでいっても人間の想像の延長線上にしか神を描けず、人の思いや操作、時代によって変わってしまうこともあるからです。聖書によれば、神には時間や存在に関する限界もありません。言うことが変わらず、誰をも無条件で愛しておられます。人間はこれとは正反対です。生きる時間は限られ、存在に制約があり、気分や相手によって言うことも変わります。条件付きでなら人を愛することができます。そして、神と人とでもっとも違うのは「罪」です。神には罪がなく完全に聖であられるのに対して、人間には罪があります。新生児から年配者まで、どの時代に生きた者にも、どんな功績を残した者にも共通して「罪が横たわって」います。そして、聖書は犯罪や悪行、心の汚さによって罪を測るのではなく(それは比較対象が人間同士)、絶対的聖であり真実である神の前で測るため、誰もが例外なく罪ある者として数えられるのです。人間はみな、生まれつき神への敵対心をもって反逆している罪人なのです。

2.罪とは② 一滴でもあれば全体が罪
人間を善人と悪人に分けることはできませんし、すべきでもありません。誰にも良い点と悪い点があるからです。例を挙げれば、ヒトラーはフランスのある地域だけは攻撃しないよう命令したそうです。それをもって彼を善人とは呼べません。反対に、立派な教育者が家庭では別人である場合もあります。重要なのは、罪とは「程度」の問題ではないということです。最低・最悪に達した者だけが罪人で、ある程度までなら罪人と呼ばれない、とはならないのです。 なぜなら、神の基準に達していないものはすべて罪だからです。そして、完全に聖であられる神の前では、一点の汚れ、曇りも許されません。これこそ神と人との絶対的隔たりであり、違いです。今朝の箇所で「私には、咎と罪がどれほどあるのでしょうか。私の背きと罪を私に知らせてください」(13:23)と叫んでいるのは、地上でもっとも誠実なヨブでした。これが、罪から免れる人は歴史上誰もいないことを証ししています。

3.罪とは③ 救いの道
罪人である人間が自分や他人を救うことはできません。であれば、残された救いの道は罪のない完全な人に「すがる」ことです。神が用意された法則は「…一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら…一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになる」(ローマ5:17)ものでした。最初の人間アダムとエバは神の言葉に背き、自分を主として歩む決断をしました。それによりすべての人が罪をもって生まれ、罪人として生きます。たった一人のせいで全人類が罪人に?と不公平と感じるかもしれません。しかし、同じように神は救いに関しても「一人の人」を起こし、イエスを救い主として地上に送られました。二千年前の十字架で、私たちはまだ生まれてもいませんでしたが、救いが必要な者として、すでにそのときに覚えられ、選ばれていたのです。これはアダムから引き継ぐ原罪で罪人とされる以上に、イエスのおかげで救われるのは神による驚くべき恵みと言うほかありません。

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