日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「ストレスと信仰」

主日礼拝 2019年8月11日

人とは何ものなのでしょう。 あなたがこれを尊び、これに心を留められるとは。
朝ごとにこれを訪れ、 その都度これを試されるとは。
いつまで 私から目をそらしてくださらないのですか。
唾を飲み込む間も、 私を放っておいてくださらないのですか。
私が罪ある者だとしても、 人を見張るあなたに、私は何ができるでしょう。
どうしてあなたは、私を標的とされるのですか。
私は、自らを重荷としなければならないのですか。
どうして、あなたは私の背きを赦さず、 私の咎を取り去ってくださらないのですか。
私が今も、ちりに横たわらなければならないとは。
あなたが私を捜しても、私はもういません。

「ヨブ記7章」(抜粋)

牧師の言葉

◇ヨブと現代社会の共通点
 現代はストレスが渦巻いています。辞書的な意味においては「外部からの刺激が負担として働く際、心身に生ずる機能変化」とされるそうです。私たちは誰も真空状態ではなく、自分と外部とが接触する世界に生きています。良い出来事も悪い出来事も「刺激」となって何らかの影響を及ぼします。今は社会的にも医学や学問分野でもストレスについての理解や言及が増え広がっています。「うつ」という言葉も1990年代後半までは医学界でも聞かれていなかったそうです(昨今ではLGBTという言葉と認識も急増しています)。しかし、ヨブ記の時代はストレスと無縁であったと考えるのは不自然です。ふりかかった苦難は、ヨブにとって死にたいほど大きなストレスでした。ヨブ記が現代の私たちにとって大きな示唆を与えてくれるのは、ストレス社会の中にあって神への信仰がいかなる助けになるかという点です。今朝の箇所もストレスを抱えたヨブの信仰の過程、道のりからそれを学ぶことができます。
◇ストレスは段階を経ながら
 ストレスの原意は「一つのものが切り離される、バラバラにされる、引き裂かれる」です。外部からの刺激・衝撃により、それまで保てていた自分が引き裂かれ、心身にダメージを負う私たち人間の状態をよく表しています。家庭や職場や近所の関係でもそういった状態に追い込まれることはありますし、災害や事件、あるいは想像や不安によっても調子を崩してしまうことがあります。このように、ストレスはなくなりませんが、ヨブの道のりをたどるとその回復には段階があることがわかります。1〜2章の試練の直後は主を賛美したヨブが、2章後半では友人たちと泣き続け、3章では生まれなかった方がよかったという言葉を口にするようになります。そして、今朝の7章では神に強く訴えています。ショックを受けた直後はそれを跳ね返すような興奮状態にあったのが、次に涙を流し、落ち込み、今回は強い怒りや嘆きを訴えるようになっています。実は、これこそ正常な歩みで、誰も超人のようにストレスを跳ね返すことはできないのです。ヨブのようにショック、奮起、脱力、怒りを通過し、徐々に信仰のステップを踏んでいくことを教えてくれています。
◇神への信仰の意義
そんな大きなストレスの中、今回見つけることのできる信仰の意義は、私たちには「聞いてくださる神」がおられるということです。悩みを抱えたとき、どんな相手に打ち明けたいと思うでしょうか?頼りにするのは自分のことをよく知っている人や専門家ではないでしょうか。それは「正しい聞き方をしてくれる」からです。ペットに向かって話しても、聞いていないのを知っています。けれども「話しを聞いてくれた」という点で癒やしを経験します。しかしペットは本当の意味では理解していません。では、神はいかがでしょうか。実は、神こそもっとも忍耐をもってあなたに耳を傾け、もっとも胸を痛めてあなたに共感し、もっとも賢い知恵をもってあなたを導いてくださるお方なのです。この方を知っていることを強みにしましょう。ストレスがない状態で信仰を持つのではなく、ストレスがある中でも大胆に神への信頼を抱くのが私たちの信仰です。唯一で最大の理解者、怒り・嘆きの受け皿であってくださる神を持つのが信仰です。

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聖書の言葉

「恵みとしての信仰」

主日礼拝 2019年8月4日

すると、テマン人エリファズが話し始めた。
もし、人があなたにことばを投げかけたら、 あなたはそれに耐えられるか。 しかし、だれが語らないでいられるだろう。
見よ。あなたは多くの人を訓戒し、 弱った手を力づけてきた。
あなたのことばは、つまずいた者を起こし、 くずおれる膝をしっかりさせてきた。
しかし今、これがあなたに及ぶと、 あなたはそれに耐えられない。 これがあなたに至ると、あなたはおじ惑う。
あなたの敬虔さは、あなたの確信ではないか。 あなたの誠実さは、あなたの望みではないか。
さあ、思い出せ。
だれか、潔白なのに滅びた者があるか。 どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。

「ヨブ記4章」(抜粋)

牧師の言葉

◇いざ自分の番になると・・・
 ヨブは非の打ち所のない信仰者として神にも認められていた存在でした。しかしこの箇所では友人の一人であるエリファズは何とも単刀直入に鋭い言葉を差し向けます。「あなたはこれまで多くの人を訓戒してはきたが、いざ自分の番になるとからっきしではないか」(3-5節)。他人には厳しい教えや戒めをアドバイスしても、それと同じことを自分に対してはできない。いざ同様の災難が降りかかると、この世の終わりのようにうなだれて立つことすらできない。そういってエリファズはヨブに迫るのです。ヨブもその信仰を自分自身に問われています。問題なのは、他人の信仰や信じ方ではない。この世の不条理でも社会悪でもなく、果たして自分の姿はどうなのかと問うのです。その意味で、理解不能の苦難は自分が神へいかなる応答をするかの試金石となるのです。
◇友の限界
 エリファズはヨブにとって選りすぐりの友でした。しかし友は友。ありがたいがそれ以上の存在(救い主)ではありません。友は一時的な慰めを与えてはくれても(一週間共に泣き通した)、全能ではない。かえって友であることがやっかいにもなります。近い存在であるがゆえに、無遠慮に立ち入ってかき乱される。友人だけに一度もつれると衝撃が大きく厄介なことになる。善意だからこそ断りにくい・・・これらの経験や想像想像によって、私たちも友の限界を思い知ります。そうして、私にとって真の理解者とは誰なのか、という問を持つように導かれるのです。真の理解者は誰なのか。真理を語ってくれるのは誰なのか。本当の意味で自分の苦しみをわかってくれるのは誰なのか。「イエスは自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです」(ヘブル2:18)。
◇神を信じる根拠
こうしたヨブ記を通しても、神は私たちを信仰へと導こうとされます。正しい人が常に報われ、悪党は不幸となる世界・・・ではないように見え、自分にも不可解な出来事や悲しみ、苦しみが襲ってやまない。そうした時、私たちが神を信じる根拠をどこに置いたら整理できるのでしょうか。たとえば、出来事を物差しにしたら、最善の神は信じられません。あるいは自分が確信を持てるようになったら神を信じるというスタンスは「自分」に根拠や出発点を置いています。結局、自分の力で信じ続け、自分の頭や枠内でのみ神を信じるしかありません。これは神への信仰ではありません!聖書はこれとは反対の出発点を教えています。それは自分ではなく、現象でもなく、神を基礎とする信仰です。神は真実であり、信頼に足りるお方である。それは過去や今や将来の自分が信じられるからではなく、「聖書=みことば」がそう語っているところから出発するものです。私・自分の考えよりも、真理のみことばに根拠を起き、現象や出来事よりも神の性質に信頼することです。神を出発点として始めるとき、こんな頑なな自分が変えられたことに気づき、信仰さえも神が与え恵んでくださるのだと知り、神を賛美するのです。

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ストレスと信仰

主日礼拝 2019年8月11日

聖書の言葉

人とは何ものなのでしょう。 あなたがこれを尊び、これに心を留められるとは。
朝ごとにこれを訪れ、 その都度これを試されるとは。
いつまで 私から目をそらしてくださらないのですか。
唾を飲み込む間も、 私を放っておいてくださらないのですか。
私が罪ある者だとしても、 人を見張るあなたに、私は何ができるでしょう。
どうしてあなたは、私を標的とされるのですか。
私は、自らを重荷としなければならないのですか。
どうして、あなたは私の背きを赦さず、 私の咎を取り去ってくださらないのですか。
私が今も、ちりに横たわらなければならないとは。
あなたが私を捜しても、私はもういません。

「ヨブ記7章」(抜粋)

牧師の言葉

◇ヨブと現代社会の共通点
 現代はストレスが渦巻いています。辞書的な意味においては「外部からの刺激が負担として働く際、心身に生ずる機能変化」とされるそうです。私たちは誰も真空状態ではなく、自分と外部とが接触する世界に生きています。良い出来事も悪い出来事も「刺激」となって何らかの影響を及ぼします。今は社会的にも医学や学問分野でもストレスについての理解や言及が増え広がっています。「うつ」という言葉も1990年代後半までは医学界でも聞かれていなかったそうです(昨今ではLGBTという言葉と認識も急増しています)。しかし、ヨブ記の時代はストレスと無縁であったと考えるのは不自然です。ふりかかった苦難は、ヨブにとって死にたいほど大きなストレスでした。ヨブ記が現代の私たちにとって大きな示唆を与えてくれるのは、ストレス社会の中にあって神への信仰がいかなる助けになるかという点です。今朝の箇所もストレスを抱えたヨブの信仰の過程、道のりからそれを学ぶことができます。
◇ストレスは段階を経ながら
 ストレスの原意は「一つのものが切り離される、バラバラにされる、引き裂かれる」です。外部からの刺激・衝撃により、それまで保てていた自分が引き裂かれ、心身にダメージを負う私たち人間の状態をよく表しています。家庭や職場や近所の関係でもそういった状態に追い込まれることはありますし、災害や事件、あるいは想像や不安によっても調子を崩してしまうことがあります。このように、ストレスはなくなりませんが、ヨブの道のりをたどるとその回復には段階があることがわかります。1〜2章の試練の直後は主を賛美したヨブが、2章後半では友人たちと泣き続け、3章では生まれなかった方がよかったという言葉を口にするようになります。そして、今朝の7章では神に強く訴えています。ショックを受けた直後はそれを跳ね返すような興奮状態にあったのが、次に涙を流し、落ち込み、今回は強い怒りや嘆きを訴えるようになっています。実は、これこそ正常な歩みで、誰も超人のようにストレスを跳ね返すことはできないのです。ヨブのようにショック、奮起、脱力、怒りを通過し、徐々に信仰のステップを踏んでいくことを教えてくれています。
◇神への信仰の意義
そんな大きなストレスの中、今回見つけることのできる信仰の意義は、私たちには「聞いてくださる神」がおられるということです。悩みを抱えたとき、どんな相手に打ち明けたいと思うでしょうか?頼りにするのは自分のことをよく知っている人や専門家ではないでしょうか。それは「正しい聞き方をしてくれる」からです。ペットに向かって話しても、聞いていないのを知っています。けれども「話しを聞いてくれた」という点で癒やしを経験します。しかしペットは本当の意味では理解していません。では、神はいかがでしょうか。実は、神こそもっとも忍耐をもってあなたに耳を傾け、もっとも胸を痛めてあなたに共感し、もっとも賢い知恵をもってあなたを導いてくださるお方なのです。この方を知っていることを強みにしましょう。ストレスがない状態で信仰を持つのではなく、ストレスがある中でも大胆に神への信頼を抱くのが私たちの信仰です。唯一で最大の理解者、怒り・嘆きの受け皿であってくださる神を持つのが信仰です。

恵みとしての信仰

主日礼拝 2019年8月4日

聖書の言葉

すると、テマン人エリファズが話し始めた。
もし、人があなたにことばを投げかけたら、 あなたはそれに耐えられるか。 しかし、だれが語らないでいられるだろう。
見よ。あなたは多くの人を訓戒し、 弱った手を力づけてきた。
あなたのことばは、つまずいた者を起こし、 くずおれる膝をしっかりさせてきた。
しかし今、これがあなたに及ぶと、 あなたはそれに耐えられない。 これがあなたに至ると、あなたはおじ惑う。
あなたの敬虔さは、あなたの確信ではないか。 あなたの誠実さは、あなたの望みではないか。
さあ、思い出せ。
だれか、潔白なのに滅びた者があるか。 どこに、真っ直ぐなのに絶たれた者があるか。

「ヨブ記4章」(抜粋)

牧師の言葉

◇いざ自分の番になると・・・
 ヨブは非の打ち所のない信仰者として神にも認められていた存在でした。しかしこの箇所では友人の一人であるエリファズは何とも単刀直入に鋭い言葉を差し向けます。「あなたはこれまで多くの人を訓戒してはきたが、いざ自分の番になるとからっきしではないか」(3-5節)。他人には厳しい教えや戒めをアドバイスしても、それと同じことを自分に対してはできない。いざ同様の災難が降りかかると、この世の終わりのようにうなだれて立つことすらできない。そういってエリファズはヨブに迫るのです。ヨブもその信仰を自分自身に問われています。問題なのは、他人の信仰や信じ方ではない。この世の不条理でも社会悪でもなく、果たして自分の姿はどうなのかと問うのです。その意味で、理解不能の苦難は自分が神へいかなる応答をするかの試金石となるのです。
◇友の限界
 エリファズはヨブにとって選りすぐりの友でした。しかし友は友。ありがたいがそれ以上の存在(救い主)ではありません。友は一時的な慰めを与えてはくれても(一週間共に泣き通した)、全能ではない。かえって友であることがやっかいにもなります。近い存在であるがゆえに、無遠慮に立ち入ってかき乱される。友人だけに一度もつれると衝撃が大きく厄介なことになる。善意だからこそ断りにくい・・・これらの経験や想像想像によって、私たちも友の限界を思い知ります。そうして、私にとって真の理解者とは誰なのか、という問を持つように導かれるのです。真の理解者は誰なのか。真理を語ってくれるのは誰なのか。本当の意味で自分の苦しみをわかってくれるのは誰なのか。「イエスは自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです」(ヘブル2:18)。
◇神を信じる根拠
こうしたヨブ記を通しても、神は私たちを信仰へと導こうとされます。正しい人が常に報われ、悪党は不幸となる世界・・・ではないように見え、自分にも不可解な出来事や悲しみ、苦しみが襲ってやまない。そうした時、私たちが神を信じる根拠をどこに置いたら整理できるのでしょうか。たとえば、出来事を物差しにしたら、最善の神は信じられません。あるいは自分が確信を持てるようになったら神を信じるというスタンスは「自分」に根拠や出発点を置いています。結局、自分の力で信じ続け、自分の頭や枠内でのみ神を信じるしかありません。これは神への信仰ではありません!聖書はこれとは反対の出発点を教えています。それは自分ではなく、現象でもなく、神を基礎とする信仰です。神は真実であり、信頼に足りるお方である。それは過去や今や将来の自分が信じられるからではなく、「聖書=みことば」がそう語っているところから出発するものです。私・自分の考えよりも、真理のみことばに根拠を起き、現象や出来事よりも神の性質に信頼することです。神を出発点として始めるとき、こんな頑なな自分が変えられたことに気づき、信仰さえも神が与え恵んでくださるのだと知り、神を賛美するのです。

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