日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「主を知る」

主日礼拝 2021年1月24日

ヨシュアは翌朝早く起き、すべてのイスラエルの子らとともにシティムを旅立ち、ヨルダン川のところまで来て、それを渡る前にそこに泊まった。
三日後、つかさたちは宿営の中を巡り、民に命じた。「あなたがたの神、主の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。ただし、あなたがたと箱の間に二千キュビトほどの距離をおけ。箱に近づいてはならない。」
ヨシュアは民に言った。「あなたがたは自らを聖別しなさい。明日、主があなたがたのただ中で不思議を行われるから。」
ヨシュアは祭司たちに「契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って渡りなさい」と命じた。そこで彼らは契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って進んだ。

「ヨシュア記3章1-6節」

牧師の言葉

◆主からの課題を知る
エリコへの偵察隊が帰ったその翌朝早く、ヨシュアはイスラエルの民を引き連れ旅立ち、約束の地に入る関門、ヨルダン川まで来ました。報告を受けたらすぐに出発しているその行動力に驚きます。しかし、到着してから丸三日、そこにとどまり続けました。この時、「ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた」(15節)ようです。おそらく30メートルは優に越していたと言われるその川幅は、大海のように思えたことでしょう。しかも、自分や泳げる者、体力のある者だけでなく、その民全体、女も子どもも全員が無事に渡れなければなりません。それを考えたとき、まさに「なすすべがない」ことを痛感する三日間だったのではないでしょうか。目の前の課題の大きさに気づき、途方にくれるとき、あなたは何を思い浮かべるでしょうか。「こんなところに来るんじゃなかった」「誰か助けてくれる人はいないかな」「無理だろ、これ・・・」「まずは自分だけでも優先して」さまざまな思いが行き巡るかもしれません。ただ、ヨシュア記はまだ始まったばかり!この三日間は大いなる神のわざの導入・入り口にすぎません。これから、主が素晴らしいことを成し遂げてくださるからです。確かなのは、主がヨシュアとその民にこの光景を見せられた、ということです。課題のあることが悪いのではありません。あなたの選択が間違っていたことの証拠でもありません。むしろ、自分の無力さや人やモノを頼りにする思いを断ち切り、主と向き合う絶好の機会でもあるのです。「今まで、この道を通ったことがないから」(4節)こそ、全能の主に信頼すべきなのです。
◆主の導きを知る
ヨルダン川の克服は確かに無理難題ですが、それは人間によれば、です。主によれば、民たちを必ず約束の地に入れるというご計画のうちの一つにすぎません。課題を見せられたのは、そこから主のみわざを体験するためです。私たち人間の知恵や力を合わせてできることであれば、神に用はありませんし、神に祈り叫ぶ必要も感じないでしょう。しかし、信仰はもうダメだと心が折れそうになってからが始まりです。ここで、民たちに示されたのは「主の契約の箱」(3節)でした。これはこの章だけでも計7回も出てきます。アカシヤの木で作られたその箱の中には十戒の石が納められていました。箱をありがたがるのではなく、その中身である神の言葉です。民たちはその箱が自分たちを先導するから、後に続きなさいと指示を受けます。神ご自身が、真実な言葉によってあなたを導かれるから、あなたはそれに従いなさいというメッセージです。難題に立ち向かうときはもちろんのこと、聖書を読んで一日を始めることにおいて私たちもヨシュア記3章を生きることができます。あなたの前にしっかりと神の言葉を置き、その後に続くところに、神さまは驚くほどの恵みをもって働いてくださいます。
◆主の聖さを知る
課題と先導の約束を受けた後、ヨシュアは民に「自らを聖別しなさい。明日、主があなたがたのただ中で不思議を行われるから」(5節)とおそらく大声を張り上げて伝えました。「聖別」は、おそらく衣服を洗い、主の前に身も心も新たにする行為でした(出エジプト記19:10等)。それは単に服を洗って外見をきよくするだけではなく、内なる人を神に使っていただけるように整える信仰の表明です。ここに、内と外の一致を見ます。たとえば「私は信じていますから、教会には行きません」というのは内側と外側がつりあっていません。反対に、「祈ってはいますが、心ではイヤイヤながらです」というのもマズイですね。外側の表情や行いは神も人も見ることができます。そして、神はその心も見ることができます。「聖別する」とき、民たちはきっとそのことを意識していました。私たちも、神の前に身を整え、自らをきよめることに熱心でありたいと願います。もちろん、そのときには外見も内面も神を愛する態度でい続けましょう。主の契約の箱=神の言葉が前に進むとき、「箱との間に二千キュビト(約900メートル)の距離をおけ」(4節)とも言われています。それは、人間が神を正しく恐れ、不用意になれなれしく、不遜な態度を取ってはならないことを教えるためだと思われます。どれほど身を整え、心をきよめても、なお神と自分との間には距離を保たねばなりません。神が望む姿、神が求める心で私たちは神を礼拝し、神を賛美し、神に従っていくのです。神を汚す罪から守られますように。

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聖書の言葉

「ピンポイント」

主日礼拝 2021年1月17日

二人がまだ寝ないうちに、彼女は屋上の彼らのところへ上がり、彼らに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。
あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。
私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において神であられるからです。 今、主にかけて私に誓ってください。私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたもまた、私の父の家に誠意を尽くし、私に確かなしるしを与え、私の父、母、兄弟、姉妹、また、これに属するものをすべて生かして、私たちのいのちを死から救い出す、と誓ってください。」
二人は彼女に言った。「私たちはあなたがたに自分のいのちをかけて誓う。あなたがたが私たちのことをだれにも告げないなら、主が私たちにこの地を与えてくださるとき、あなたに誠意と真実を尽くそう。」

「ヨシュア記2章」(抜粋)

牧師の言葉

◆一人へのミッション
ヨシュア記2章は「ラハブ」が主人公です。彼女に与えられたのは、ヨシュアが送った二人の偵察隊を家に迎え入れ、かくまい、無事に逃がすというミッションでした。彼女はエリコに住む遊女(娼婦、あるいは女主人)です。そこに突然、イスラエルからのスパイが家(宿)に泊まりに来ました。エリコとイスラエルは敵対関係にあります。エリコにとっては領土を脅かす侵略者です。しかも、この知らせは「エリコの王」(2節)の耳にも入っていました。そうであれば、偵察隊を追い返すのが通常でしょう。しかし、ラハブは「二人をかくまって・・・知りません・・・知りません・・・隠しておいた」(4~6節)という言動を取ったのです。さて、ここでのポイントは何でしょうか?「ラハブは嘘をついている。聖書はそれを許している」ことでしょうか。それとも「ラハブは国の圧力に屈せず、神からのミッションを成し遂げた」ことでしょうか。答えは・・・後者ですね!聖書全体を見るとより明らかです。新約聖書には「信仰によってラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました」(へブル11:31)とか「遊女ラハブも、使者たちを招き入れ・・・その行いによって義と認められたではありませんか」(ヤコブ2:25~26)とその信仰と行いを賞賛されています。なぜなら、ここでラハブが国の使者にうそをつくことは、彼女の身をより危険にさらすことになるからです。彼女は自分が不利になることを分かったうえで、彼らをかくまいました。自分を有利にしたり、不利益にならないためのうそを聖書は決して許していません。しかし、この時のように国の権力に抗い、王に忖度をせず、神のわざがなされるための言動が求められることがあるのです。ラハブにとってそれは計画的ではなく「今夜」というまさかの時でした。私たちも、神の時を見極め、たじろがず決断し、うろたえず言動する機会がまさに訪れます。いつも備えておきたく願います。
◆一人でも立つ
ラハブの言動は出まかせのものではありませんでした。しっかりした信仰に基づいているのです。この2章で9~13節にかけて、ラハブの告白が記されています。彼女は「主がこの地をあなたがたに与えておられること」を知っていました。自分の国、土地は主のものであり、私はそれを主に明け渡します、と言っています。しかも、彼女の国の住民はみな「恐怖に襲われ・・・震えおののいて・・・心が萎えて・・・だれもが気力を失ってしまいました」(9、11節)という惨状です。彼女の周りに信仰の理解者はまだいません。かえって恐怖に震え、おびえ、勇気のない者ばかりです。そんな中、彼女は一人、神の側に立っています。ここに、信仰の戦いがあります。周囲の理解を得られなくても、恐れず、なびかずに立ち続けることが大切です。人のうわさ、世の流れ、ひそかな楽しみによって、信仰は攻撃を受けるのです。しかし、その都度ぐらついていては、神のお役に立つことなど夢のまた夢です。このラハブの信仰が2章全体をさいて記されているのは、あなたがこの一人になって立ち続けることへのチャレンジです。
◆一人から始まる
ラハブは「誠意を尽くしたのですから・・・確かなしるしを与え・・・誓ってください」(12~13節)と偵察隊に求めました。この「誠意」と訳されているのは「ヘセド」というヘブル語で
「恵み」とも訳され、おもに契約を守られる神の愛を表す重要な語です。ラハブは、自分の熱心さや力量ではなく、神からのしるしを求めています。偵察隊も同じように「誠意と真実を尽くそう」(14節)と答え、互いの間で誓約を結びます。注目したいのは、13節でラハブは自身だけでなく家族の救いも「父、母、兄弟、姉妹」と一人ひとりを声に出して祈るように伝えています。先ほどの国の中でたった一人であっても主の前に立つ、という信仰は、ひとまず自分さえ救われれば、信じるか信じないかは他人の意思を尊重・・・といった逃げ腰では決してありません。むしろ、すべての者が「いのちを死から救い出す」(13節)ことを切に願ってやまないしぶとさを持つのです。驚くべきことに、ラハブは、新約聖書・マタイの福音書1章にある系図にダビデ~イエスにつながる系図にその名が記されています。すべてを益とされる神の計画がこんなにもはっきりと示されているのですから、あなたの道ももう決まりですね!

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聖書の言葉

「強くあれ」

主日礼拝 2021年1月10日

あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。
ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。
このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」

「ヨシュア記1章5-9節」

牧師の言葉

◆受ける
新たな年となり、本日から「ヨシュア記」に入ります。旧約聖書は神の民の歴史が綴られています。創世記から始まり、そのつながりの中にあります。ここで読む1章は、モーセが死んで次のリーダー、ヨシュアが神の民を率いて歩み出す場面です。信仰の父アブラハムに約束された地カナン(創世記12章)に再び入る場面です。聖書の舞台となったカナンの地(現在のイスラエル)は「約束の地」と呼ばれ、とても小さな土地ですがエジプト、アジア、ヨーロッパを結びつける重要な土地であることが分かります。飢饉や奴隷時代を経て出エジプトし、再びこの地に入って信仰の旗を掲げるのです。それは領土争いを奨励しているのではなく、この土地に入らずして、神に従っているとは言えないからです。罪をそのままにしてイエスさまを迎えることができないように、神の祝福をいただくために入るべき場所、領域があるということです。この1章は、その土地に入るための備えを呼びかけています。実は、神の民はそれまで40年もの間、荒野で生活をしていました。以前、エジプトを出てからこの地を偵察したとき、あまりにも先住民の多さ、強さに恐れをなして進んでいくのを拒んだからです。それで、神さまは、民が生まれ変わるまで、訓練されました。しかも、荒野の期間もマナという食べ物と水を与えて決して飢えさせることをなさいませんでした。神さまは試練や訓練のときにも、必ず必要な支えをもって養ってくださいます。それが「あなたは見放さず、見捨てない」(1:5) になされている宣言です。この神さまの御心があって、民は新しい地へ入るという行動を起こすための力をいただくのです。新たな年、古い自分を置き去りにし、生まれ変わった心で、神からのチャレンジを受け止めてみましょう。
◆ともに歩む
神を信じる=信仰とは、ただ無謀な冒険をするのではありません。目の前の現実から目をそらさず、しかし押しつぶされないことです。与えられたチャレンジから逃げず、立ち向かうことです。その際、人間的にあれこれと計算をするのが私たちの生き方です。自分の力は間に合っているのか、軍資金は足りるのか、賛成派と反対派の比率は、状況を知るためデータを集めなければ……確かに、それらが整っていればチャレンジは克服できるでしょう。しかし、それならば信仰は必要ありません。自分で出来るなら、神に信頼するという信仰の出番はありません。私たちは、全部わからないからこそ、神を信じ、仰ぐのです。それでこそ、自分の能力を超えたチャレンジに向かって踏み出すことができるのです。「強くあれ。雄々しくあれ」とこの個所でも3度も繰り返されている励ましは、そこに理由があります。「主がともにいてくださる」(9節)ことを疑わず、ここから力をいただいて歩み出すのです。神がともにおられるのは、どのようにしてわかるのでしょう?それは「みおしえの書=聖書を口から離さず、昼も夜も口ずさむ」(8節)ことからです!何も言わない偶像から力を得ることは決してありません。そんな迷信や暗示ほど頼りないものはないでしょう。神のことばこそ、神がともにおられることのしるしです。「あなた」が聖書に親しむことは、神と親しい交わりを持つことです。
◆守り行う
その聖書は「律法のすべてを守り行え」(7節)と命じられているように、あなたがそれに従うことがセットになっています。「そのうちに記されていることをすべて守り行う」(8節)とも続き、聖書のある部分に賛同するだけでなく、実にすべてに従うのです。「守り行う」とは注意深く行動する、という意味です。信仰には行いが伴います。信じているけれども、からだや生活、思考はまったく影響されないのはいけません!状況に応じて「右にも左にも」身をよじっていては、「約束の地」に入ることなど到底かないません。あなたが聖書に基づいて世界を見、チャレンジを受け止めて、歩んでこそ、神による「繁栄」(8節)、祝福をいただくことができます。途中に失敗があってもその歩みは途絶えません。40年くすぶっていた神の民を養い守り、再び信仰のいのちを吹き込んでくださるお方を、今朝私たちも礼拝しているからです。神がこの民を見捨てなかったのと同じように、あなたのことも見放さずいてくださるので、みおしえを守り行うことにも失格はありえません。聖書を守り行い、神の祝福をいただきましょう。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

主を知る

主日礼拝 2021年1月24日

聖書の言葉

ヨシュアは翌朝早く起き、すべてのイスラエルの子らとともにシティムを旅立ち、ヨルダン川のところまで来て、それを渡る前にそこに泊まった。
三日後、つかさたちは宿営の中を巡り、民に命じた。「あなたがたの神、主の契約の箱を見、さらにレビ人の祭司たちがそれを担いでいるのを見たら、自分のいる場所を出発して、その後を進みなさい。あなたがたが行くべき道を知るためである。あなたがたは今まで、この道を通ったことがないからだ。ただし、あなたがたと箱の間に二千キュビトほどの距離をおけ。箱に近づいてはならない。」
ヨシュアは民に言った。「あなたがたは自らを聖別しなさい。明日、主があなたがたのただ中で不思議を行われるから。」
ヨシュアは祭司たちに「契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って渡りなさい」と命じた。そこで彼らは契約の箱を担ぎ、民の先頭に立って進んだ。

「ヨシュア記3章1-6節」

牧師の言葉

◆主からの課題を知る
エリコへの偵察隊が帰ったその翌朝早く、ヨシュアはイスラエルの民を引き連れ旅立ち、約束の地に入る関門、ヨルダン川まで来ました。報告を受けたらすぐに出発しているその行動力に驚きます。しかし、到着してから丸三日、そこにとどまり続けました。この時、「ヨルダン川は刈り入れの期間中で、どこの川岸にも水があふれていた」(15節)ようです。おそらく30メートルは優に越していたと言われるその川幅は、大海のように思えたことでしょう。しかも、自分や泳げる者、体力のある者だけでなく、その民全体、女も子どもも全員が無事に渡れなければなりません。それを考えたとき、まさに「なすすべがない」ことを痛感する三日間だったのではないでしょうか。目の前の課題の大きさに気づき、途方にくれるとき、あなたは何を思い浮かべるでしょうか。「こんなところに来るんじゃなかった」「誰か助けてくれる人はいないかな」「無理だろ、これ・・・」「まずは自分だけでも優先して」さまざまな思いが行き巡るかもしれません。ただ、ヨシュア記はまだ始まったばかり!この三日間は大いなる神のわざの導入・入り口にすぎません。これから、主が素晴らしいことを成し遂げてくださるからです。確かなのは、主がヨシュアとその民にこの光景を見せられた、ということです。課題のあることが悪いのではありません。あなたの選択が間違っていたことの証拠でもありません。むしろ、自分の無力さや人やモノを頼りにする思いを断ち切り、主と向き合う絶好の機会でもあるのです。「今まで、この道を通ったことがないから」(4節)こそ、全能の主に信頼すべきなのです。
◆主の導きを知る
ヨルダン川の克服は確かに無理難題ですが、それは人間によれば、です。主によれば、民たちを必ず約束の地に入れるというご計画のうちの一つにすぎません。課題を見せられたのは、そこから主のみわざを体験するためです。私たち人間の知恵や力を合わせてできることであれば、神に用はありませんし、神に祈り叫ぶ必要も感じないでしょう。しかし、信仰はもうダメだと心が折れそうになってからが始まりです。ここで、民たちに示されたのは「主の契約の箱」(3節)でした。これはこの章だけでも計7回も出てきます。アカシヤの木で作られたその箱の中には十戒の石が納められていました。箱をありがたがるのではなく、その中身である神の言葉です。民たちはその箱が自分たちを先導するから、後に続きなさいと指示を受けます。神ご自身が、真実な言葉によってあなたを導かれるから、あなたはそれに従いなさいというメッセージです。難題に立ち向かうときはもちろんのこと、聖書を読んで一日を始めることにおいて私たちもヨシュア記3章を生きることができます。あなたの前にしっかりと神の言葉を置き、その後に続くところに、神さまは驚くほどの恵みをもって働いてくださいます。
◆主の聖さを知る
課題と先導の約束を受けた後、ヨシュアは民に「自らを聖別しなさい。明日、主があなたがたのただ中で不思議を行われるから」(5節)とおそらく大声を張り上げて伝えました。「聖別」は、おそらく衣服を洗い、主の前に身も心も新たにする行為でした(出エジプト記19:10等)。それは単に服を洗って外見をきよくするだけではなく、内なる人を神に使っていただけるように整える信仰の表明です。ここに、内と外の一致を見ます。たとえば「私は信じていますから、教会には行きません」というのは内側と外側がつりあっていません。反対に、「祈ってはいますが、心ではイヤイヤながらです」というのもマズイですね。外側の表情や行いは神も人も見ることができます。そして、神はその心も見ることができます。「聖別する」とき、民たちはきっとそのことを意識していました。私たちも、神の前に身を整え、自らをきよめることに熱心でありたいと願います。もちろん、そのときには外見も内面も神を愛する態度でい続けましょう。主の契約の箱=神の言葉が前に進むとき、「箱との間に二千キュビト(約900メートル)の距離をおけ」(4節)とも言われています。それは、人間が神を正しく恐れ、不用意になれなれしく、不遜な態度を取ってはならないことを教えるためだと思われます。どれほど身を整え、心をきよめても、なお神と自分との間には距離を保たねばなりません。神が望む姿、神が求める心で私たちは神を礼拝し、神を賛美し、神に従っていくのです。神を汚す罪から守られますように。

ピンポイント

主日礼拝 2021年1月17日

聖書の言葉

二人がまだ寝ないうちに、彼女は屋上の彼らのところへ上がり、彼らに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちがあなたがたに対する恐怖に襲われていること、そして、この地の住民がみな、あなたがたのために震えおののいていることを、私はよく知っています。
あなたがたがエジプトから出て来たとき、主があなたがたのために葦の海の水を涸らされたこと、そして、あなたがたが、ヨルダンの川向こうにいたアモリ人の二人の王シホンとオグにしたこと、二人を聖絶したことを私たちは聞いたからです。
私たちは、それを聞いたとき心が萎えて、あなたがたのために、だれもが気力を失ってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天において、下は地において神であられるからです。 今、主にかけて私に誓ってください。私はあなたがたに誠意を尽くしたのですから、あなたがたもまた、私の父の家に誠意を尽くし、私に確かなしるしを与え、私の父、母、兄弟、姉妹、また、これに属するものをすべて生かして、私たちのいのちを死から救い出す、と誓ってください。」
二人は彼女に言った。「私たちはあなたがたに自分のいのちをかけて誓う。あなたがたが私たちのことをだれにも告げないなら、主が私たちにこの地を与えてくださるとき、あなたに誠意と真実を尽くそう。」

「ヨシュア記2章」(抜粋)

牧師の言葉

◆一人へのミッション
ヨシュア記2章は「ラハブ」が主人公です。彼女に与えられたのは、ヨシュアが送った二人の偵察隊を家に迎え入れ、かくまい、無事に逃がすというミッションでした。彼女はエリコに住む遊女(娼婦、あるいは女主人)です。そこに突然、イスラエルからのスパイが家(宿)に泊まりに来ました。エリコとイスラエルは敵対関係にあります。エリコにとっては領土を脅かす侵略者です。しかも、この知らせは「エリコの王」(2節)の耳にも入っていました。そうであれば、偵察隊を追い返すのが通常でしょう。しかし、ラハブは「二人をかくまって・・・知りません・・・知りません・・・隠しておいた」(4~6節)という言動を取ったのです。さて、ここでのポイントは何でしょうか?「ラハブは嘘をついている。聖書はそれを許している」ことでしょうか。それとも「ラハブは国の圧力に屈せず、神からのミッションを成し遂げた」ことでしょうか。答えは・・・後者ですね!聖書全体を見るとより明らかです。新約聖書には「信仰によってラハブは、偵察に来た人たちを穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました」(へブル11:31)とか「遊女ラハブも、使者たちを招き入れ・・・その行いによって義と認められたではありませんか」(ヤコブ2:25~26)とその信仰と行いを賞賛されています。なぜなら、ここでラハブが国の使者にうそをつくことは、彼女の身をより危険にさらすことになるからです。彼女は自分が不利になることを分かったうえで、彼らをかくまいました。自分を有利にしたり、不利益にならないためのうそを聖書は決して許していません。しかし、この時のように国の権力に抗い、王に忖度をせず、神のわざがなされるための言動が求められることがあるのです。ラハブにとってそれは計画的ではなく「今夜」というまさかの時でした。私たちも、神の時を見極め、たじろがず決断し、うろたえず言動する機会がまさに訪れます。いつも備えておきたく願います。
◆一人でも立つ
ラハブの言動は出まかせのものではありませんでした。しっかりした信仰に基づいているのです。この2章で9~13節にかけて、ラハブの告白が記されています。彼女は「主がこの地をあなたがたに与えておられること」を知っていました。自分の国、土地は主のものであり、私はそれを主に明け渡します、と言っています。しかも、彼女の国の住民はみな「恐怖に襲われ・・・震えおののいて・・・心が萎えて・・・だれもが気力を失ってしまいました」(9、11節)という惨状です。彼女の周りに信仰の理解者はまだいません。かえって恐怖に震え、おびえ、勇気のない者ばかりです。そんな中、彼女は一人、神の側に立っています。ここに、信仰の戦いがあります。周囲の理解を得られなくても、恐れず、なびかずに立ち続けることが大切です。人のうわさ、世の流れ、ひそかな楽しみによって、信仰は攻撃を受けるのです。しかし、その都度ぐらついていては、神のお役に立つことなど夢のまた夢です。このラハブの信仰が2章全体をさいて記されているのは、あなたがこの一人になって立ち続けることへのチャレンジです。
◆一人から始まる
ラハブは「誠意を尽くしたのですから・・・確かなしるしを与え・・・誓ってください」(12~13節)と偵察隊に求めました。この「誠意」と訳されているのは「ヘセド」というヘブル語で
「恵み」とも訳され、おもに契約を守られる神の愛を表す重要な語です。ラハブは、自分の熱心さや力量ではなく、神からのしるしを求めています。偵察隊も同じように「誠意と真実を尽くそう」(14節)と答え、互いの間で誓約を結びます。注目したいのは、13節でラハブは自身だけでなく家族の救いも「父、母、兄弟、姉妹」と一人ひとりを声に出して祈るように伝えています。先ほどの国の中でたった一人であっても主の前に立つ、という信仰は、ひとまず自分さえ救われれば、信じるか信じないかは他人の意思を尊重・・・といった逃げ腰では決してありません。むしろ、すべての者が「いのちを死から救い出す」(13節)ことを切に願ってやまないしぶとさを持つのです。驚くべきことに、ラハブは、新約聖書・マタイの福音書1章にある系図にダビデ~イエスにつながる系図にその名が記されています。すべてを益とされる神の計画がこんなにもはっきりと示されているのですから、あなたの道ももう決まりですね!

強くあれ

主日礼拝 2021年1月10日

聖書の言葉

あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。
強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。
ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。
このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。」

「ヨシュア記1章5-9節」

牧師の言葉

◆受ける
新たな年となり、本日から「ヨシュア記」に入ります。旧約聖書は神の民の歴史が綴られています。創世記から始まり、そのつながりの中にあります。ここで読む1章は、モーセが死んで次のリーダー、ヨシュアが神の民を率いて歩み出す場面です。信仰の父アブラハムに約束された地カナン(創世記12章)に再び入る場面です。聖書の舞台となったカナンの地(現在のイスラエル)は「約束の地」と呼ばれ、とても小さな土地ですがエジプト、アジア、ヨーロッパを結びつける重要な土地であることが分かります。飢饉や奴隷時代を経て出エジプトし、再びこの地に入って信仰の旗を掲げるのです。それは領土争いを奨励しているのではなく、この土地に入らずして、神に従っているとは言えないからです。罪をそのままにしてイエスさまを迎えることができないように、神の祝福をいただくために入るべき場所、領域があるということです。この1章は、その土地に入るための備えを呼びかけています。実は、神の民はそれまで40年もの間、荒野で生活をしていました。以前、エジプトを出てからこの地を偵察したとき、あまりにも先住民の多さ、強さに恐れをなして進んでいくのを拒んだからです。それで、神さまは、民が生まれ変わるまで、訓練されました。しかも、荒野の期間もマナという食べ物と水を与えて決して飢えさせることをなさいませんでした。神さまは試練や訓練のときにも、必ず必要な支えをもって養ってくださいます。それが「あなたは見放さず、見捨てない」(1:5) になされている宣言です。この神さまの御心があって、民は新しい地へ入るという行動を起こすための力をいただくのです。新たな年、古い自分を置き去りにし、生まれ変わった心で、神からのチャレンジを受け止めてみましょう。
◆ともに歩む
神を信じる=信仰とは、ただ無謀な冒険をするのではありません。目の前の現実から目をそらさず、しかし押しつぶされないことです。与えられたチャレンジから逃げず、立ち向かうことです。その際、人間的にあれこれと計算をするのが私たちの生き方です。自分の力は間に合っているのか、軍資金は足りるのか、賛成派と反対派の比率は、状況を知るためデータを集めなければ……確かに、それらが整っていればチャレンジは克服できるでしょう。しかし、それならば信仰は必要ありません。自分で出来るなら、神に信頼するという信仰の出番はありません。私たちは、全部わからないからこそ、神を信じ、仰ぐのです。それでこそ、自分の能力を超えたチャレンジに向かって踏み出すことができるのです。「強くあれ。雄々しくあれ」とこの個所でも3度も繰り返されている励ましは、そこに理由があります。「主がともにいてくださる」(9節)ことを疑わず、ここから力をいただいて歩み出すのです。神がともにおられるのは、どのようにしてわかるのでしょう?それは「みおしえの書=聖書を口から離さず、昼も夜も口ずさむ」(8節)ことからです!何も言わない偶像から力を得ることは決してありません。そんな迷信や暗示ほど頼りないものはないでしょう。神のことばこそ、神がともにおられることのしるしです。「あなた」が聖書に親しむことは、神と親しい交わりを持つことです。
◆守り行う
その聖書は「律法のすべてを守り行え」(7節)と命じられているように、あなたがそれに従うことがセットになっています。「そのうちに記されていることをすべて守り行う」(8節)とも続き、聖書のある部分に賛同するだけでなく、実にすべてに従うのです。「守り行う」とは注意深く行動する、という意味です。信仰には行いが伴います。信じているけれども、からだや生活、思考はまったく影響されないのはいけません!状況に応じて「右にも左にも」身をよじっていては、「約束の地」に入ることなど到底かないません。あなたが聖書に基づいて世界を見、チャレンジを受け止めて、歩んでこそ、神による「繁栄」(8節)、祝福をいただくことができます。途中に失敗があってもその歩みは途絶えません。40年くすぶっていた神の民を養い守り、再び信仰のいのちを吹き込んでくださるお方を、今朝私たちも礼拝しているからです。神がこの民を見捨てなかったのと同じように、あなたのことも見放さずいてくださるので、みおしえを守り行うことにも失格はありえません。聖書を守り行い、神の祝福をいただきましょう。

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