日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「和解の拠点」

主日礼拝 2020年5月24日

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。
なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、
その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。

「コロサイ人への手紙1章18-20節」

牧師の言葉

先の15節からこの20節までが一つのまとまりとして、おそらく洗礼の学びや信仰の告白として教会では用いられてきた個所と言われています。15~17節ではキリストのすごさ(神であり、万物の王であり、保持者である)ことを見ました。ここではその後半です。御子イエスと教会の関係、万物を含めた和解の完成について学びましょう。
■御子のからだである教会
御子イエスは万物の王でありながら、ここでは「教会のかしら」として記されています。イエスさまにとって教会がどれほど大切で、特別な存在であるかが分かります。他では「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)ともあります。御子が自分を犠牲にし、自分のいのちと引き換えにして買い取ったものこそ教会なのです。それで、教会は御子のからだと言われるのです。万物(天にあるものも地にあるものも見えるものも見えないものも!)から教会へと落差が急だとの印象を受けるかもしれませんが、教会の存在価値はとてつもなく大きなものであることを覚えましょう。教会は、人間の寄せ集めではなく、御子イエスがここに生きているように神の性質を表し、福音を知らせ、人々に仕え、救いへと導くキリストのからだなのです。この使命を授かっているのは、会社や学校や偉人ではなく、教会=私たちみなみ教会に他なりません。
■御子をかしらとする教会
18節では、御子がかしらであることを実に四つの言葉を続けて念押ししています(かしら、初め、最初に生まれた方、第一の者)。万物も、どの領域も、死であっても御子イエスはそれらに支配されることなく、かしら・第一の者として君臨しておられます。こうして御子が絶対的支配者・圧倒的勝利者であることを聖書が教えているようにそのまま信じましょう。それこそ、かしらが御子イエスであるとはっきり定めた教会の姿です。からだは勝手に動きません。かしら(頭)の命令によって動きます。制止されるのもかしらによります。私たちの教会=あなたは、どんなときも、いかなる状況でも、かしらである御子からの命令、願い、期待、導きを受け取ってから動かされているでしょうか?
■十字架を誇りとする教会
 本日の結び20節には、キリストのからだである教会が誕生し、私たちが集められた要因が明かされています。それは、ただ「十字架の血」によるのです。御子が十字架で流された血によって、罪を赦された者は、その後の生涯をキリストへの感謝を動機として生きるようになります。それ以外のむなしい目的に歩むことを選びません。さらに、御子がかしらとしてそのからだなる教会を動かす目的が続きます。それは「御子のために(御子によって)万物を和解させること」(20節に2度)です。「和解」とはいっさいの敵意が滅ぼされ、すべての者と万物が御子をたたえ、正しく治められるようになることです。人と人、人と被造物、そして人と神との間にある敵意が排除され、隔ての壁はなくなり、二つではなく一つとなり、すべての者がまことの神の栄光を賛美する、それはそれは壮大な完成のビジョンです。御子は初めであり、終わりでもある方です。ならば、私たちは罪を赦していただいた者、キリストのからだに入れられた者として新しい使命に生き、また新しい終わり・完成・神の計画にそって歩みださねばなりません。それは、ただ十字架を誇りとして、愛され、赦され、救われた者として今から完成へと向かっている神のご計画に役立てていただく生き方です。私たちは、イエスさまがおられなければ集められることがありませんでした。イエスさまが十字架で血を流されなければ、罪の赦しをいただけませんでした。それどころか、自分が罪深い者であることにも気づけずにいたことでしょう。そして、自分をそれほどまでに愛してくれたイエスさまに出会わず、それとなく暮らしていたことでしょう。イエスさまが愛してくださったから、私たちは愛されています。イエスさまがいのちをささげられたから、私たちは教会のために犠牲をいといません。御子イエスの和解は教会から、あなたから始まり完成へ向かいます。

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聖書の言葉

「すごい!」

主日礼拝 2020年5月17日

御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
1御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています

「コロサイ人への手紙1章15-17節」

牧師の言葉

コロサイ1章15~20節は「キリスト讃美(the Hymn in praise of Christ)」と言われている箇所です。そこでは、イエス・キリストが至高者で、すべての人・万物の王であることを記し、たたえているからです。また、構造においても歌詞のように整ったものです。2週にわたり、イエス・キリストがなぜ素晴らしいのかを学びましょう。
◆は神だから
15節にはキリストが「見えない神のかたち」であることと「すべての造られたものより先に生まれた方」とあります。「かたち」はアイコン(icon)であり、一目でそれが何かを表すものです。様々なお店の看板やブランドのマークがそれです。キリストは、見えない神を表すお方であり、神そのものです。私たちはキリストを見て、神を見て、しることができます。それ以外からまことの神を正しく知ることはできません。そして、「先に生まれた方」は誤解されてきた個所でもありますが、キリストが私たちや他の生きもの、自然界と同じような被造物ではないと宣言しています。「すべての造られたもの」とキリストがはっきりと区別されているからです。この「先に生まれた方」は時間的な意味ではなく、特別な栄誉・立場にあることを意味する語です(本来八人兄弟の末子であるダビデを「長子」詩篇89:27としている等)。神そのものであるキリストをたたえ、すべての者とは一線を画す素晴らしい神の子を礼拝せよと聖書は告げています。私たちは最高のもの、本物を礼拝したいものです。それが人間にも、神にもふさわしいことです。
◆万物の王だから
16節では、「天と地にあるすべてのものは御子のために造られた」とあります。どんな力あるものも支配者も権力も、ただ御子=キリストのためにあります。これを信じるとき、私たちはこの世での絶望から救われます。この世は暗いものです。権力者の耳を疑うような言動、人と人の間にある目をそむけたくなるような争い、出来事に満ちています。この世が暗闇の力に支配されているとあきらめるならば、私たちはそこでされるがままにされるか、思考を停止するか、うなだれるしかありません。しかし、それらすべてを凌駕する方がいる。すべてはキリストのために、キリストの下にあり、キリストはすべての上におられることを知り、信じるとき、私たちには最後まで戦う力が与えられます。なぜなら、すべてがキリストのために用いられる願いを持つからです。キリストが万物の王であると信じることは、私たちの地上でのふるまいを確かなものにします。
◆保持者だから
17節ではふたたびキリストが万物に先立って存在しておられることとすべてがキリストのために存在していることとが記されています。この世界で、見えるものも見えないものも、万物は造られたものであり、それ自身で存在することも、その理由も持っていません。リンゴはリンゴの木が必要で、木には土も水も太陽も必要です。何をさかのぼっても、それ自身で存在する原因を持たず、それ自身で支える力も持ちません。すべては何かによって造られたので始まりがあり、何かによって保持されて(支えられ、保たれて)いるからです。その何かこそ、キリストです。「万物は御子にあって成り立って」いるからです。キリストは唯一、その存在を他者によりかからないお方であり、すべてを支え、保っておられるお方です。あなたも、あなたの周囲も、この世界もすべてです。このような能力、知恵は私たち人間には絶対に無理です。また、人が作ったどんなにすぐれた機械やコンピューターも無理です。こういうものには修理やアップデートが必須であり、失敗もあるからです。しかし、キリストは完全であり、神であられるので、すべてを保持し続けることが可能です。しかも、世の初めから終わりまでその働きをやめることなく、疲れることも劣化することもなく、治めておられます。このことのゆえに、私たちはキリストを信頼し、礼拝し、賛美することを決してやめません。今の暗い世にあって、キリストに栄光をもたらす生き方をするのは・・・あなたです!

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聖書の言葉

「相続人」

主日礼拝 2020年5月10日

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。
御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

「コロサイ人への手紙1章12-14節」

牧師の言葉

コロサイ教会への祈りを終えたパウロは、ここから具体的な教えを書いています。今朝の中心は「クリスチャンは相続の資格を与えられた」ということです。相続はその人の身分や生き方を変えるものです。ごいっしょに学びましょう。
◆資格
相続は資格がなければ絶対に受け継ぐことができません。他人であれば立候補しても、どれほど熱心に善行を積んでもならぬものはならぬのです。唯一、資格があるのは「子ども」であることです。父なる神の子はただおひとり、イエスだけです。しかし、神を信じて新しく生まれた者は「子とする御霊を受けた」(ローマ8:15)神の子どもです。つまり「養子縁組」をされて神は、私たちを子として迎え入れてくださいました。それで教会では互いのことを「兄弟姉妹」と呼び合います。それは「父が同じ」だからですね。そうして、すべてのクリスチャンがあずかる相続のことを「聖徒の相続分をあずかる資格を与えてくださった御父」と書き表されているのです。神の子とされた者は、相続を確約されています。そして、生きてる間はそのすべてをいただくわけではなく、その子どもとしての立場を喜び、つつましく生きていきます。もともと、神から背を向け、御怒りを受けて滅ぶべき存在であったあなたを捜し出し、見つけてくださったのは神ご自身です。こんな私を受け入れ、子として迎えて身分を認め、相続の資格を与えてくださったことのゆえに、いつも感謝をささげるのです。
◆変化
その相続分は「光の中に」(12節)あり、また次節では「暗闇の力から救い出し・・・御子のご支配の中に移して」くださったとあります。神の子とされる以前と以後とでは過ごす場所が違うのです。それも闇と光と対比されるほど決定的に違います。暗闇では本当の道が分かりません。したことが明るみに出ないので、悪賢くふるまっても正しいさばきがなされません。また、不確かな事態や暴力的とも思える敵意になすがままにされ意気消沈しているのが暗闇の中にいる者の姿です。しかし、神はそこから「御子のご支配へ」と移してくださいました。これは、神の子どもである私たちが、いつも父なる神の配慮の中にあることを確信できる根拠です。神の子とされたというのは、ただ相続分を与えられたという法的な身分・資格という面だけでなく、日々を生きるただ中で父の守りを現実に味わって過ごすようになるためのものでもあるからです。神の子どもとされたのに、日々の生活には追われっぱなしではもったいない。相続人とされた資格と同時に、日常生活でもその変化を味わい、体験しているでしょうか?
◆自由
よく人から「神を信じるとできなくなることが増えるんじゃない?」「クリスチャンは戒律を守らないといけないの?」「聖書の教えに従うって窮屈じゃないの?」と素朴な疑問を受けたことはないでしょうか。もし、クリスチャンの生き方がそのように誤解されているのであれば、悲しいことです。あるいは、もし、あなたがしぶしぶクリスチャンでいたなら、周囲の人にはそう思うかもしれません!それで、ここでの結びである14節を見てみましょう。そこには、クリスチャンがさらに持っているものが記されています。それは「贖いと罪の赦し」です。「贖い」は戦地で敵軍の捕虜となった者を、連れ戻すことです。「罪の赦し」は、神に対して背負っていた罪の負い目を清算されることです。たとえるなら、縛っていた鎖が外された元奴隷であり、背負っていた負債が帳消しにされた元債務者です。クリスチャンは、そうした自由を得ている存在なのだということです。神の子どもこそ、光の中を歩み、世の支配者から解放された自由を味わうのです。神に従う自由は何よりもすがすがしいもので、歩む道を示してくれるものです。ぜひ、喜んで、自ら、大胆に神の子どもとしての生活を送りましょう。

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聖書の言葉

「願い」

主日礼拝 2020年5月3日

こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。
また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。
神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように

「コロサイ人への手紙1章9-11節」

牧師の言葉

パウロにはコロサイの教会の人たちのために祈っていることがありました。それは健康問題や経済や生活のためではありませんでした。そして彼らにも「たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい」(4:2)と励ましています。祈り、祈られることは大事なことです。また何を祈り、何をなしていくのかを学びましょう。
◆神のみこころを知る
祈りの最初の目的は「神のみこころを知る」ことです。私たちの必要を神に知らせるのではなく、私たちが神を知るために祈るのです。これは祈りを根底から探ることになります。言い換えれば、「神にしてほしいことを願う」のではなく「神がしてほしいことに気づき知る」ことです。それは、人間的な考えではキャッチできないので、そのときに「霊的な知恵と理解力」が求められます。つまり、私たちが新生しているか、神にチャンネルを合わせる生き方をしているかが問われます。そうでなければ、神のみこころを知ることはできませんし、ましてや知ったところで従うことは無理だからです。あなたの祈りにあるのはどんな願い、思い、言葉でしょうか?
◆神のみこころを行う
祈りの第二の目的は「行動が変わる」ことです。いくら神のみこころを知っても、それが行動に移されなければ意味がありません。祈りはこの世から逃亡することでも現実逃避することでもなく、神との交わりを深め、かつ、神の子としてこの世に遣わされていくためのものだからです。イエスさまは朝早く、一人で祈られました(参照:マルコ1:35)。また十字架にかかる前にはゲツセマネの園でもだえるように何時間も祈られました(参照:マタイ26:36-44)。そこでは、十字架にかかるという神のみこころを祈りによって知り、また逃げるのではなく十字架を背負うように決心されました。神のみこころを知ることと、それに従って行動するのとは別です。だから、私たちは「祈ったように生きているか・行動しているか」を常に問いかけ、答えていなければなりません。
◆聖霊の助け
祈りはそれを生きてこそ息吹を持ち、躍動していきます。祈りと行動はつながっているのです。そして、祈りで神のみこころを知り、それを行動に移していくためには力が必要です。「さあ、やるぞ」という動機、「これならできる」という力がいります。知識を行動に移すのは力です。聖霊は、あなたが神のみこころに従って生きることを励ましてくださいます。聖霊の働きとは、あなたが歩くときに無理やり足を踏み出させはしませんが、あなたが一歩前に出られるように助けてくださいます。それは「神の栄光の支配」がもたらしてくれる力です。神の栄光と聞くともっと大きな事柄、奇跡にだけ適用される気がしますが、ここを注意深く読むとち違うとわかります。ここでは神の栄光の支配があなたに「忍耐と寛容」を与えてくださるように祈られていつからです。神の栄光はあなたに忍耐と寛容とを与え、それによって不愉快や意地悪に打つ勝つことができます。言い換えれば、私たちは日々の小さな出来事、人とのかかわりにおいても神の栄光を体験し、現せるということです。今、忍耐できた、あの人に寛容でいられたというのは神の栄光、神を賛美するに直結するすばらしいみわざ、良い行いなのです。そして、それは我慢ばかりして窮屈だという思いからあなたを解放し、「喜び」を伴います。それこそ、祈りの力であり、クリスチャンの特権です。あなたから喜びが奪われることは決してありません。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

和解の拠点

主日礼拝 2020年5月24日

聖書の言葉

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられました。
なぜなら神は、ご自分の満ち満ちたものをすべて御子のうちに宿らせ、
その十字架の血によって平和をもたらし、御子によって、御子のために万物を和解させること、すなわち、地にあるものも天にあるものも、御子によって和解させることを良しとしてくださったからです。

「コロサイ人への手紙1章18-20節」

牧師の言葉

先の15節からこの20節までが一つのまとまりとして、おそらく洗礼の学びや信仰の告白として教会では用いられてきた個所と言われています。15~17節ではキリストのすごさ(神であり、万物の王であり、保持者である)ことを見ました。ここではその後半です。御子イエスと教会の関係、万物を含めた和解の完成について学びましょう。
■御子のからだである教会
御子イエスは万物の王でありながら、ここでは「教会のかしら」として記されています。イエスさまにとって教会がどれほど大切で、特別な存在であるかが分かります。他では「神がご自身の血をもって買い取られた神の教会」(使徒20:28)ともあります。御子が自分を犠牲にし、自分のいのちと引き換えにして買い取ったものこそ教会なのです。それで、教会は御子のからだと言われるのです。万物(天にあるものも地にあるものも見えるものも見えないものも!)から教会へと落差が急だとの印象を受けるかもしれませんが、教会の存在価値はとてつもなく大きなものであることを覚えましょう。教会は、人間の寄せ集めではなく、御子イエスがここに生きているように神の性質を表し、福音を知らせ、人々に仕え、救いへと導くキリストのからだなのです。この使命を授かっているのは、会社や学校や偉人ではなく、教会=私たちみなみ教会に他なりません。
■御子をかしらとする教会
18節では、御子がかしらであることを実に四つの言葉を続けて念押ししています(かしら、初め、最初に生まれた方、第一の者)。万物も、どの領域も、死であっても御子イエスはそれらに支配されることなく、かしら・第一の者として君臨しておられます。こうして御子が絶対的支配者・圧倒的勝利者であることを聖書が教えているようにそのまま信じましょう。それこそ、かしらが御子イエスであるとはっきり定めた教会の姿です。からだは勝手に動きません。かしら(頭)の命令によって動きます。制止されるのもかしらによります。私たちの教会=あなたは、どんなときも、いかなる状況でも、かしらである御子からの命令、願い、期待、導きを受け取ってから動かされているでしょうか?
■十字架を誇りとする教会
 本日の結び20節には、キリストのからだである教会が誕生し、私たちが集められた要因が明かされています。それは、ただ「十字架の血」によるのです。御子が十字架で流された血によって、罪を赦された者は、その後の生涯をキリストへの感謝を動機として生きるようになります。それ以外のむなしい目的に歩むことを選びません。さらに、御子がかしらとしてそのからだなる教会を動かす目的が続きます。それは「御子のために(御子によって)万物を和解させること」(20節に2度)です。「和解」とはいっさいの敵意が滅ぼされ、すべての者と万物が御子をたたえ、正しく治められるようになることです。人と人、人と被造物、そして人と神との間にある敵意が排除され、隔ての壁はなくなり、二つではなく一つとなり、すべての者がまことの神の栄光を賛美する、それはそれは壮大な完成のビジョンです。御子は初めであり、終わりでもある方です。ならば、私たちは罪を赦していただいた者、キリストのからだに入れられた者として新しい使命に生き、また新しい終わり・完成・神の計画にそって歩みださねばなりません。それは、ただ十字架を誇りとして、愛され、赦され、救われた者として今から完成へと向かっている神のご計画に役立てていただく生き方です。私たちは、イエスさまがおられなければ集められることがありませんでした。イエスさまが十字架で血を流されなければ、罪の赦しをいただけませんでした。それどころか、自分が罪深い者であることにも気づけずにいたことでしょう。そして、自分をそれほどまでに愛してくれたイエスさまに出会わず、それとなく暮らしていたことでしょう。イエスさまが愛してくださったから、私たちは愛されています。イエスさまがいのちをささげられたから、私たちは教会のために犠牲をいといません。御子イエスの和解は教会から、あなたから始まり完成へ向かいます。

すごい!

主日礼拝 2020年5月17日

聖書の言葉

御子は、見えない神のかたちであり、すべての造られたものより先に生まれた方です。
なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。
1御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています

「コロサイ人への手紙1章15-17節」

牧師の言葉

コロサイ1章15~20節は「キリスト讃美(the Hymn in praise of Christ)」と言われている箇所です。そこでは、イエス・キリストが至高者で、すべての人・万物の王であることを記し、たたえているからです。また、構造においても歌詞のように整ったものです。2週にわたり、イエス・キリストがなぜ素晴らしいのかを学びましょう。
◆は神だから
15節にはキリストが「見えない神のかたち」であることと「すべての造られたものより先に生まれた方」とあります。「かたち」はアイコン(icon)であり、一目でそれが何かを表すものです。様々なお店の看板やブランドのマークがそれです。キリストは、見えない神を表すお方であり、神そのものです。私たちはキリストを見て、神を見て、しることができます。それ以外からまことの神を正しく知ることはできません。そして、「先に生まれた方」は誤解されてきた個所でもありますが、キリストが私たちや他の生きもの、自然界と同じような被造物ではないと宣言しています。「すべての造られたもの」とキリストがはっきりと区別されているからです。この「先に生まれた方」は時間的な意味ではなく、特別な栄誉・立場にあることを意味する語です(本来八人兄弟の末子であるダビデを「長子」詩篇89:27としている等)。神そのものであるキリストをたたえ、すべての者とは一線を画す素晴らしい神の子を礼拝せよと聖書は告げています。私たちは最高のもの、本物を礼拝したいものです。それが人間にも、神にもふさわしいことです。
◆万物の王だから
16節では、「天と地にあるすべてのものは御子のために造られた」とあります。どんな力あるものも支配者も権力も、ただ御子=キリストのためにあります。これを信じるとき、私たちはこの世での絶望から救われます。この世は暗いものです。権力者の耳を疑うような言動、人と人の間にある目をそむけたくなるような争い、出来事に満ちています。この世が暗闇の力に支配されているとあきらめるならば、私たちはそこでされるがままにされるか、思考を停止するか、うなだれるしかありません。しかし、それらすべてを凌駕する方がいる。すべてはキリストのために、キリストの下にあり、キリストはすべての上におられることを知り、信じるとき、私たちには最後まで戦う力が与えられます。なぜなら、すべてがキリストのために用いられる願いを持つからです。キリストが万物の王であると信じることは、私たちの地上でのふるまいを確かなものにします。
◆保持者だから
17節ではふたたびキリストが万物に先立って存在しておられることとすべてがキリストのために存在していることとが記されています。この世界で、見えるものも見えないものも、万物は造られたものであり、それ自身で存在することも、その理由も持っていません。リンゴはリンゴの木が必要で、木には土も水も太陽も必要です。何をさかのぼっても、それ自身で存在する原因を持たず、それ自身で支える力も持ちません。すべては何かによって造られたので始まりがあり、何かによって保持されて(支えられ、保たれて)いるからです。その何かこそ、キリストです。「万物は御子にあって成り立って」いるからです。キリストは唯一、その存在を他者によりかからないお方であり、すべてを支え、保っておられるお方です。あなたも、あなたの周囲も、この世界もすべてです。このような能力、知恵は私たち人間には絶対に無理です。また、人が作ったどんなにすぐれた機械やコンピューターも無理です。こういうものには修理やアップデートが必須であり、失敗もあるからです。しかし、キリストは完全であり、神であられるので、すべてを保持し続けることが可能です。しかも、世の初めから終わりまでその働きをやめることなく、疲れることも劣化することもなく、治めておられます。このことのゆえに、私たちはキリストを信頼し、礼拝し、賛美することを決してやめません。今の暗い世にあって、キリストに栄光をもたらす生き方をするのは・・・あなたです!

相続人

主日礼拝 2020年5月10日

聖書の言葉

また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格をあなたがたに与えてくださった御父に、喜びをもって感謝をささげることができますように。
御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。
この御子にあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

「コロサイ人への手紙1章12-14節」

牧師の言葉

コロサイ教会への祈りを終えたパウロは、ここから具体的な教えを書いています。今朝の中心は「クリスチャンは相続の資格を与えられた」ということです。相続はその人の身分や生き方を変えるものです。ごいっしょに学びましょう。
◆資格
相続は資格がなければ絶対に受け継ぐことができません。他人であれば立候補しても、どれほど熱心に善行を積んでもならぬものはならぬのです。唯一、資格があるのは「子ども」であることです。父なる神の子はただおひとり、イエスだけです。しかし、神を信じて新しく生まれた者は「子とする御霊を受けた」(ローマ8:15)神の子どもです。つまり「養子縁組」をされて神は、私たちを子として迎え入れてくださいました。それで教会では互いのことを「兄弟姉妹」と呼び合います。それは「父が同じ」だからですね。そうして、すべてのクリスチャンがあずかる相続のことを「聖徒の相続分をあずかる資格を与えてくださった御父」と書き表されているのです。神の子とされた者は、相続を確約されています。そして、生きてる間はそのすべてをいただくわけではなく、その子どもとしての立場を喜び、つつましく生きていきます。もともと、神から背を向け、御怒りを受けて滅ぶべき存在であったあなたを捜し出し、見つけてくださったのは神ご自身です。こんな私を受け入れ、子として迎えて身分を認め、相続の資格を与えてくださったことのゆえに、いつも感謝をささげるのです。
◆変化
その相続分は「光の中に」(12節)あり、また次節では「暗闇の力から救い出し・・・御子のご支配の中に移して」くださったとあります。神の子とされる以前と以後とでは過ごす場所が違うのです。それも闇と光と対比されるほど決定的に違います。暗闇では本当の道が分かりません。したことが明るみに出ないので、悪賢くふるまっても正しいさばきがなされません。また、不確かな事態や暴力的とも思える敵意になすがままにされ意気消沈しているのが暗闇の中にいる者の姿です。しかし、神はそこから「御子のご支配へ」と移してくださいました。これは、神の子どもである私たちが、いつも父なる神の配慮の中にあることを確信できる根拠です。神の子とされたというのは、ただ相続分を与えられたという法的な身分・資格という面だけでなく、日々を生きるただ中で父の守りを現実に味わって過ごすようになるためのものでもあるからです。神の子どもとされたのに、日々の生活には追われっぱなしではもったいない。相続人とされた資格と同時に、日常生活でもその変化を味わい、体験しているでしょうか?
◆自由
よく人から「神を信じるとできなくなることが増えるんじゃない?」「クリスチャンは戒律を守らないといけないの?」「聖書の教えに従うって窮屈じゃないの?」と素朴な疑問を受けたことはないでしょうか。もし、クリスチャンの生き方がそのように誤解されているのであれば、悲しいことです。あるいは、もし、あなたがしぶしぶクリスチャンでいたなら、周囲の人にはそう思うかもしれません!それで、ここでの結びである14節を見てみましょう。そこには、クリスチャンがさらに持っているものが記されています。それは「贖いと罪の赦し」です。「贖い」は戦地で敵軍の捕虜となった者を、連れ戻すことです。「罪の赦し」は、神に対して背負っていた罪の負い目を清算されることです。たとえるなら、縛っていた鎖が外された元奴隷であり、背負っていた負債が帳消しにされた元債務者です。クリスチャンは、そうした自由を得ている存在なのだということです。神の子どもこそ、光の中を歩み、世の支配者から解放された自由を味わうのです。神に従う自由は何よりもすがすがしいもので、歩む道を示してくれるものです。ぜひ、喜んで、自ら、大胆に神の子どもとしての生活を送りましょう。

願い

主日礼拝 2020年5月3日

聖書の言葉

こういうわけで、私たちもそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたが、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころについての知識に満たされますように。
また、主にふさわしく歩み、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる良いわざのうちに実を結び、神を知ることにおいて成長しますように。
神の栄光の支配により、あらゆる力をもって強くされ、どんなことにも忍耐し、寛容でいられますように

「コロサイ人への手紙1章9-11節」

牧師の言葉

パウロにはコロサイの教会の人たちのために祈っていることがありました。それは健康問題や経済や生活のためではありませんでした。そして彼らにも「たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい」(4:2)と励ましています。祈り、祈られることは大事なことです。また何を祈り、何をなしていくのかを学びましょう。
◆神のみこころを知る
祈りの最初の目的は「神のみこころを知る」ことです。私たちの必要を神に知らせるのではなく、私たちが神を知るために祈るのです。これは祈りを根底から探ることになります。言い換えれば、「神にしてほしいことを願う」のではなく「神がしてほしいことに気づき知る」ことです。それは、人間的な考えではキャッチできないので、そのときに「霊的な知恵と理解力」が求められます。つまり、私たちが新生しているか、神にチャンネルを合わせる生き方をしているかが問われます。そうでなければ、神のみこころを知ることはできませんし、ましてや知ったところで従うことは無理だからです。あなたの祈りにあるのはどんな願い、思い、言葉でしょうか?
◆神のみこころを行う
祈りの第二の目的は「行動が変わる」ことです。いくら神のみこころを知っても、それが行動に移されなければ意味がありません。祈りはこの世から逃亡することでも現実逃避することでもなく、神との交わりを深め、かつ、神の子としてこの世に遣わされていくためのものだからです。イエスさまは朝早く、一人で祈られました(参照:マルコ1:35)。また十字架にかかる前にはゲツセマネの園でもだえるように何時間も祈られました(参照:マタイ26:36-44)。そこでは、十字架にかかるという神のみこころを祈りによって知り、また逃げるのではなく十字架を背負うように決心されました。神のみこころを知ることと、それに従って行動するのとは別です。だから、私たちは「祈ったように生きているか・行動しているか」を常に問いかけ、答えていなければなりません。
◆聖霊の助け
祈りはそれを生きてこそ息吹を持ち、躍動していきます。祈りと行動はつながっているのです。そして、祈りで神のみこころを知り、それを行動に移していくためには力が必要です。「さあ、やるぞ」という動機、「これならできる」という力がいります。知識を行動に移すのは力です。聖霊は、あなたが神のみこころに従って生きることを励ましてくださいます。聖霊の働きとは、あなたが歩くときに無理やり足を踏み出させはしませんが、あなたが一歩前に出られるように助けてくださいます。それは「神の栄光の支配」がもたらしてくれる力です。神の栄光と聞くともっと大きな事柄、奇跡にだけ適用される気がしますが、ここを注意深く読むとち違うとわかります。ここでは神の栄光の支配があなたに「忍耐と寛容」を与えてくださるように祈られていつからです。神の栄光はあなたに忍耐と寛容とを与え、それによって不愉快や意地悪に打つ勝つことができます。言い換えれば、私たちは日々の小さな出来事、人とのかかわりにおいても神の栄光を体験し、現せるということです。今、忍耐できた、あの人に寛容でいられたというのは神の栄光、神を賛美するに直結するすばらしいみわざ、良い行いなのです。そして、それは我慢ばかりして窮屈だという思いからあなたを解放し、「喜び」を伴います。それこそ、祈りの力であり、クリスチャンの特権です。あなたから喜びが奪われることは決してありません。

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