日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「新着」

主日礼拝 2020年7月5日

キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。
バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。

「コロサイ人への手紙2章11-12節」

牧師の言葉

◆しるし
この個所は「割礼」という文から始まります。割礼は神がアブラハムとの間に結ぶ契約のしるしとして命じられたのが始まりでした。以来、神の民のしるしとして、男子は生後八日目に割礼を受けるのが習わしでした。しかし、それは身体的な意味だけにとどまらず、すでに旧約聖書において「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない」(申命記10:16)と「心に割礼」を受けることが重要視されています。神に回帰した者は、目に見えるかたちでも、目に見えないところにも「神に従っているしるし」が現わされるのだ、というのが割礼の意味なのです。今朝の個所では「人の手によらない割礼」と言うことによって、パウロは儀式の割礼ではなく、キリストを主と受け入れた者の変化を教えています。「キリストの割礼を受けた」とは、あなたがその生活にも、身体からにじみでる行動にも、心にも、内から出る言葉や思いにおいても、キリストの香りが立ち上っているかを確認させる言葉です。教会に来て、礼拝をささげて、聖書を読んで、神に回心して、あなたにはどんな変化が起こっているでしょうか。また、それが人の目にも明らかなしるしとなっているでしょうか。「キリストの割礼」が心の内にあるかを確かめつつ、黙想してみましょう。
◆脱いで、着る
心にキリストの割礼を受ける(はっきりとしたしるしがある)ことは、二つのことがセットになって説明されています。一つは「肉のからだを脱ぎ捨てる」こと、もう一つは「キリストを着る」ことです。聖書において「肉」は人間の持つ罪、欲、プライドを指し、神に敵対するものを指す場合に使われます。また悪い行いだけでなく、前の8節からにもあるように「哲学・人間の言い伝え・この世のもろもろの霊」にも弱く、なびきやすいのも肉の特徴です。真の知恵と知識の宝であるキリストご自身に至らせないのは、外敵だけでなく、自分の内側にもへばりついているのだ、ということに気づくことは、肉を脱ぐ第一歩です。それは、キリストを「主として受け入れる」ことによって始まります。自分の考えや心の向き、思考が変革されていくのです!同時に、それは「キリストを着る」(「イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません」ローマ13:14)ことでもあります。肉=古い人を脱ぎ、キリスト=新しい人を着ることがセットになっているか、心を探ってみましょう。
◆神の力
そして、ここでは、割礼が「バプテスマ(洗礼)」へと展開し、その脱ぐことと着ることはそれぞれ「キリストとともに葬られ、よみがえらされた」と対応しています。すでに旧約時代から「沐浴」「水で洗い清める」ことが神を信じる者の習慣になっていたようです。そして、新約時代にバプテスマのヨハネによって「洗礼」が多くの人に施され、ついには、イエスさまご自身も洗礼を受けられました(マタイ4:15-17)。その後、割礼は救いのための条件からははっきりと外れます。生まれてすぐ割礼を受けているユダヤ人にとって、割礼は神を信じる者の当然のしるしであり、異邦人もそうすべきだと強く主張し、割礼を強いたりもしていましたが、使徒の働き15章で教会は偶像礼拝と淫らな行いを避けることだけを一致させることを決めました。そして、イエスさまご自身が「あらゆる国の人々にバプテスマを授け」ることを命令なさっています(マタイ28:19)。こうして、バプテスマ=洗礼を受けることが、神とキリストと聖霊を信じる者のしるしとなりました。それは単なる儀式ではなく、キリストの葬りとよみがえりに「ともにあずかる」決定的な出来事でもあります。コロサイ教会の人たちも多くは洗礼を受けていたと思われますが、ここで新たな意味を教えられます。ですから、私たちも「すべてが分かってから洗礼を受ける」のではなく、主を信じる心が与えられたなら、バプテスマを受け、そこで起こった素晴らしい救いを、日々新たに発見し、味わっていくことが健全な歩みです。「神の力を信じる」ことは、この世から永遠まで通用する唯一の生き方だからです。

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主日礼拝 2020年7月5日

聖書の言葉

キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。
バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。

「コロサイ人への手紙2章11-12節」

牧師の言葉

◆しるし
この個所は「割礼」という文から始まります。割礼は神がアブラハムとの間に結ぶ契約のしるしとして命じられたのが始まりでした。以来、神の民のしるしとして、男子は生後八日目に割礼を受けるのが習わしでした。しかし、それは身体的な意味だけにとどまらず、すでに旧約聖書において「あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい。もう、うなじを固くする者であってはならない」(申命記10:16)と「心に割礼」を受けることが重要視されています。神に回帰した者は、目に見えるかたちでも、目に見えないところにも「神に従っているしるし」が現わされるのだ、というのが割礼の意味なのです。今朝の個所では「人の手によらない割礼」と言うことによって、パウロは儀式の割礼ではなく、キリストを主と受け入れた者の変化を教えています。「キリストの割礼を受けた」とは、あなたがその生活にも、身体からにじみでる行動にも、心にも、内から出る言葉や思いにおいても、キリストの香りが立ち上っているかを確認させる言葉です。教会に来て、礼拝をささげて、聖書を読んで、神に回心して、あなたにはどんな変化が起こっているでしょうか。また、それが人の目にも明らかなしるしとなっているでしょうか。「キリストの割礼」が心の内にあるかを確かめつつ、黙想してみましょう。
◆脱いで、着る
心にキリストの割礼を受ける(はっきりとしたしるしがある)ことは、二つのことがセットになって説明されています。一つは「肉のからだを脱ぎ捨てる」こと、もう一つは「キリストを着る」ことです。聖書において「肉」は人間の持つ罪、欲、プライドを指し、神に敵対するものを指す場合に使われます。また悪い行いだけでなく、前の8節からにもあるように「哲学・人間の言い伝え・この世のもろもろの霊」にも弱く、なびきやすいのも肉の特徴です。真の知恵と知識の宝であるキリストご自身に至らせないのは、外敵だけでなく、自分の内側にもへばりついているのだ、ということに気づくことは、肉を脱ぐ第一歩です。それは、キリストを「主として受け入れる」ことによって始まります。自分の考えや心の向き、思考が変革されていくのです!同時に、それは「キリストを着る」(「イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません」ローマ13:14)ことでもあります。肉=古い人を脱ぎ、キリスト=新しい人を着ることがセットになっているか、心を探ってみましょう。
◆神の力
そして、ここでは、割礼が「バプテスマ(洗礼)」へと展開し、その脱ぐことと着ることはそれぞれ「キリストとともに葬られ、よみがえらされた」と対応しています。すでに旧約時代から「沐浴」「水で洗い清める」ことが神を信じる者の習慣になっていたようです。そして、新約時代にバプテスマのヨハネによって「洗礼」が多くの人に施され、ついには、イエスさまご自身も洗礼を受けられました(マタイ4:15-17)。その後、割礼は救いのための条件からははっきりと外れます。生まれてすぐ割礼を受けているユダヤ人にとって、割礼は神を信じる者の当然のしるしであり、異邦人もそうすべきだと強く主張し、割礼を強いたりもしていましたが、使徒の働き15章で教会は偶像礼拝と淫らな行いを避けることだけを一致させることを決めました。そして、イエスさまご自身が「あらゆる国の人々にバプテスマを授け」ることを命令なさっています(マタイ28:19)。こうして、バプテスマ=洗礼を受けることが、神とキリストと聖霊を信じる者のしるしとなりました。それは単なる儀式ではなく、キリストの葬りとよみがえりに「ともにあずかる」決定的な出来事でもあります。コロサイ教会の人たちも多くは洗礼を受けていたと思われますが、ここで新たな意味を教えられます。ですから、私たちも「すべてが分かってから洗礼を受ける」のではなく、主を信じる心が与えられたなら、バプテスマを受け、そこで起こった素晴らしい救いを、日々新たに発見し、味わっていくことが健全な歩みです。「神の力を信じる」ことは、この世から永遠まで通用する唯一の生き方だからです。

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