日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「方位」

主日礼拝 2020年8月9日

ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。
あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。
しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。
キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

「コロサイ3章5-11節」(抜粋)

牧師の言葉

◆神の怒り
コロサイ書では、ここまでキリストがいかに素晴らしいお方であるのかを丁寧に綴られてきました。すわなち、キリストは万物を造り、治め、支配しておられ、かしらとして教会を導き、十字架の血によって暗闇と世のもろもろの霊から私たちを救い出し、まったく質の違う新しいいのちに生かしてくださいました。しかし、私たちは救われ、永遠のいのちが取り消されないにもかかわらず、相変わらず「罪・肉の性質・古い自分」との戦いが続きます。私たちが完全にされるのは、この地上の生涯を忠実に神のしもべとして歩み通したのちに完成されます。こうして、すべての聖徒は「天の故郷」(へブル11:16)を目指して地上の暮らしは一時的なものであるとして、ただの旅人、寄留者であることを告白して耐え忍んだのです。今朝の題は「方位」です。方位磁石が常に北を指すように、神を信じる者は、いつも上を・天を・神を指して歩み続けます。以下、三つの方位を意識していきましょう。第一の方位は「神の怒りを避ける」です。誰も雷を受けに行く人はいません。それから身を守ります。同じように、私たちは神からの怒りを避けなければなりません。神の怒りは、短気とか感情的とは無縁です。むしろ義と公平さにかかわるものです。何をしても許されるのは、愛ではなく無法です。自分にはともかく、他人にえこひいきして不義を見過ごす神であれば、強く訴えるはずです。神の正しさこそ、私たちにとって平安をもたらすことを覚えましょう。そして、淫らな行い、悪い欲、貪欲にふける者は神の怒りを一身に受けるのです。そこから避ける唯一の方法は、それらの行いを殺すことです。地にあってうごめいている誘惑を断つことは、主にあって正しい道です。

◆混ぜるな危険
第二の方位は「偽りを言わない」ことです。8節には「怒り~恥ずべき言葉」まで実に5つの悪、汚れた言葉が並んでいます。それらすべてを捨てることのまとめとして、9節では「互いに偽りを言ってはいけません」と受けています。「嘘をつかない」「人をだましてはいけない」というのは幼いころから教育されることです。それがキリスト者になっても深刻な命令として発せられていることの意味は何でしょうか?それは、偽りを言わないことがとっても難しいことだからです!私たちは内側の悪い人を隠しながら、良い人を見せることに長けています。本当は古い人と新しい人とは同居できないはずなのに、うまくやってしまう・やっていけてしまうずる賢さがあるのです。会社では「粉飾決算」という罪があります。実際の会計状況よりも良いように見せて報告し、業績を上げるためです。しかし、その工作が明るみに出れば信頼を得るどころか、二度と信頼を勝ち取ることができなくなります。同じように、私たちは自分を粉飾し、ごまかし、自他ともに欺く生き方をしてしまうのです。クリスチャンの会話の原則は、①真実・本当のことだけを言う、②必要なことだけを言う、③親切に語る、「偽りを言わない」ことはただ嘘を言わないだけでなく、真実であろうとし続ける不断の道です。洗剤も酸性とアルカリ性を混ぜては絶対にいけません。有毒ガスを発生させるからです。同じように、古い人と新しい人とが同居してしまうほど悪臭を放つものはありません。うまくごまかせるから、一時の猶予を・・・と自他を欺きながら、古い人と新しい人とを混ぜないようにしましょう。
◆キリストがすべて
 第三の方位は「キリストに向かう」ことです。キリストがすべて、という生き方はどんなにか私たちを励ますでしょうか。どれほど私たちを過ちから救い出すものでしょうか。それは、私たちが常にキリストを覚え、キリストに向き直ることによってのみ可能となります。「古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着た」と9-10節にはあります。この新しい人は、完全な人となって一つのミス・罪も犯さない・・・のではありません。この新しい人の特徴は「造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至る」ものです。新しい人=クリスチャンは、完璧であることよりも、真実であることを求めて生きるのです。もし、「完璧か、そうでないか」を目当てにするならば、必ず先ほどの粉飾がちらつきます。完璧なように見せよう、完全でなければならないと焦り、本来の喜びはとうに失われます。そうではなく、私たちは「真実か、そうでないか」を方位として歩みます。それは、行為や程度の問題ではなく、姿勢であり態度です。それが行いや言葉となって外に表されていくのです。丁寧に読むと「新しくされ続け」は受け身であり、進行形です。キリストが、あなたの心に触れ続け、新しくし続けてくださいます。完成まで導いてくださるのはキリストご自身であること。ここに希望があります。

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聖書の言葉

「いのち」

主日礼拝 2020年8月2日

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。
あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。
あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。

「コロサイ3章1-4節」

牧師の言葉

◆よみがえりのいのち
ここから3章に入り「あなたがたはキリストとともによみがえらされた」で始まります。この「よみがえり」は何を意味しているのでしょうか。私たちの「からだ」はやがて新天新地、救いの完成のときに「朽ちないからだ」に変えられます。今、私たちは実際にはよみがえりのからだではないけれども、ここで「よみがえらされた」と言っているのは矛盾ではなく、新しいいのちがすでに始まっていることを教えるためです。私たちのこの肉体は、最初の人アダムの子孫として一度死ななければなりません。しかし、キリストにある者は栄光の御霊のからだによみがえらされると約束されています(第一コリント15章)。では、ここでは何を指して「よみがえらされた」と言っているのでしょうか。それは2章で見てきたように「この世のもろもろの霊から解放され、支配されることのない新しいいのち」によみがえらされたという意味です。私たちは身近な人や生き物の死を通して、はじめて「いのち」を意識します。同じように、このよみがえりのいのちも、古い人に「死ぬ」ことがあってはじめて理解し、実感できるいのちとなります。前から何も変わらず、キリストに対する信仰が何もないままでは「古い自分の死」「新しいいのちへのよみがえり」はまったく分かりません。以前は罪の奴隷であり、縛られていることさえも分からずにもがいていた自分に死んで=決別していることです。また、キリストにあって自分はまったく愛されており、神の救いを受け入れ、神のしもべとして新しく生まれ変わったことを知っていることです。あなたには、新しいいのち・今までとは質の違ういのち・よみがえりのいのちが鼓動を打っているでしょうか?
◆隠されているいのち
続いて「あなたがたはすでに死んでいて…(新しい)いのちは隠されている」と続きます。この「死」は先ほど見たように、この世の原理、枠組みの中で生きているむなしいいのちの終わりです。そこから新しく生まれ変わり、よみがえったいのちは「隠されて」います。どこか分からない場所に隠されているのは不安ですが、その場所とは「神のうちに!」です。それはもっとも安全で確かな場所、いえ絶対に奪われないお方のふところに預けられているということです。それだからこそ、私たちは地上のことだけで必要以上に一喜一憂せず、心配しすぎません。本来のいのちは天の父のふところにあるのだからです。地上がすべて、ここでうまくいかないと神さまも疑うぞ・・・という錯覚に惑わされることがありませんように。「地にあるものではなく、天にあるものを求めなさい、思いなさい」という前節までの命令形に身を従わせましょう。それは、決して「信仰に逃げる」ということではなく、神への信仰をもって現実の問題に向き合っていくという生き方のはずです。常に上にあるもの(私たちの新しいいのちとキリストが王座に着き治めておられること)を思いつつ、それを地上の出来事への対処、人々との関係にも表現していくのです。
◆現れるいのち
しかし、いのちは「隠されたまま」ではないと続きます。それは「現わされる」のだ、と。世の宗教は限られた者だけに啓示され、真理は隠されているからこそありがたいという風潮があります。しかし「すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます」というのが聖書の教えです。さらに救いの完成のとき、そこには夜はなく、太陽も他の光も必要がなく、ただ神の栄光によってすべてのものが照らされます。いっさいの闇、影のない都がそのとき完成するのです(黙示録22章)。今朝の結びの4節では、「いのちであるキリスト」と断言されており、キリストの再臨にともなって「あなたがたも・・・現れます」とあります。ここから学べる第一のことは、私たちの新しいいのちは、キリストそのものだということです。あたしたちのいのちを預かり、生かすのはキリストです。それをキリスト以外のもので支えてもらおうとするのは間違いです。何を喜びとし、打ちひしがれた時にはだれが一緒になって貧しくなり、ともに泣いてくださるのかを思い出しましょう。第二は、私たちのいのちは、「栄光のうちに現れる」という確かな約束(未来形)です。この「栄光」は一点の曇りもない神の輝きです。むなしい生き方から栄光へ変えられたあなたのいのちが現れるのです。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

方位

主日礼拝 2020年8月9日

聖書の言葉

ですから、地にあるからだの部分、すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です。これらのために、神の怒りが不従順の子らの上に下ります。
あなたがたも以前は、そのようなものの中に生き、そのような歩みをしていました。
しかし今は、これらすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、ののしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを捨てなさい。
互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。
キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

「コロサイ3章5-11節」(抜粋)

牧師の言葉

◆神の怒り
コロサイ書では、ここまでキリストがいかに素晴らしいお方であるのかを丁寧に綴られてきました。すわなち、キリストは万物を造り、治め、支配しておられ、かしらとして教会を導き、十字架の血によって暗闇と世のもろもろの霊から私たちを救い出し、まったく質の違う新しいいのちに生かしてくださいました。しかし、私たちは救われ、永遠のいのちが取り消されないにもかかわらず、相変わらず「罪・肉の性質・古い自分」との戦いが続きます。私たちが完全にされるのは、この地上の生涯を忠実に神のしもべとして歩み通したのちに完成されます。こうして、すべての聖徒は「天の故郷」(へブル11:16)を目指して地上の暮らしは一時的なものであるとして、ただの旅人、寄留者であることを告白して耐え忍んだのです。今朝の題は「方位」です。方位磁石が常に北を指すように、神を信じる者は、いつも上を・天を・神を指して歩み続けます。以下、三つの方位を意識していきましょう。第一の方位は「神の怒りを避ける」です。誰も雷を受けに行く人はいません。それから身を守ります。同じように、私たちは神からの怒りを避けなければなりません。神の怒りは、短気とか感情的とは無縁です。むしろ義と公平さにかかわるものです。何をしても許されるのは、愛ではなく無法です。自分にはともかく、他人にえこひいきして不義を見過ごす神であれば、強く訴えるはずです。神の正しさこそ、私たちにとって平安をもたらすことを覚えましょう。そして、淫らな行い、悪い欲、貪欲にふける者は神の怒りを一身に受けるのです。そこから避ける唯一の方法は、それらの行いを殺すことです。地にあってうごめいている誘惑を断つことは、主にあって正しい道です。

◆混ぜるな危険
第二の方位は「偽りを言わない」ことです。8節には「怒り~恥ずべき言葉」まで実に5つの悪、汚れた言葉が並んでいます。それらすべてを捨てることのまとめとして、9節では「互いに偽りを言ってはいけません」と受けています。「嘘をつかない」「人をだましてはいけない」というのは幼いころから教育されることです。それがキリスト者になっても深刻な命令として発せられていることの意味は何でしょうか?それは、偽りを言わないことがとっても難しいことだからです!私たちは内側の悪い人を隠しながら、良い人を見せることに長けています。本当は古い人と新しい人とは同居できないはずなのに、うまくやってしまう・やっていけてしまうずる賢さがあるのです。会社では「粉飾決算」という罪があります。実際の会計状況よりも良いように見せて報告し、業績を上げるためです。しかし、その工作が明るみに出れば信頼を得るどころか、二度と信頼を勝ち取ることができなくなります。同じように、私たちは自分を粉飾し、ごまかし、自他ともに欺く生き方をしてしまうのです。クリスチャンの会話の原則は、①真実・本当のことだけを言う、②必要なことだけを言う、③親切に語る、「偽りを言わない」ことはただ嘘を言わないだけでなく、真実であろうとし続ける不断の道です。洗剤も酸性とアルカリ性を混ぜては絶対にいけません。有毒ガスを発生させるからです。同じように、古い人と新しい人とが同居してしまうほど悪臭を放つものはありません。うまくごまかせるから、一時の猶予を・・・と自他を欺きながら、古い人と新しい人とを混ぜないようにしましょう。
◆キリストがすべて
 第三の方位は「キリストに向かう」ことです。キリストがすべて、という生き方はどんなにか私たちを励ますでしょうか。どれほど私たちを過ちから救い出すものでしょうか。それは、私たちが常にキリストを覚え、キリストに向き直ることによってのみ可能となります。「古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着た」と9-10節にはあります。この新しい人は、完全な人となって一つのミス・罪も犯さない・・・のではありません。この新しい人の特徴は「造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至る」ものです。新しい人=クリスチャンは、完璧であることよりも、真実であることを求めて生きるのです。もし、「完璧か、そうでないか」を目当てにするならば、必ず先ほどの粉飾がちらつきます。完璧なように見せよう、完全でなければならないと焦り、本来の喜びはとうに失われます。そうではなく、私たちは「真実か、そうでないか」を方位として歩みます。それは、行為や程度の問題ではなく、姿勢であり態度です。それが行いや言葉となって外に表されていくのです。丁寧に読むと「新しくされ続け」は受け身であり、進行形です。キリストが、あなたの心に触れ続け、新しくし続けてくださいます。完成まで導いてくださるのはキリストご自身であること。ここに希望があります。

いのち

主日礼拝 2020年8月2日

聖書の言葉

こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地にあるものを思ってはなりません。
あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。
あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。

「コロサイ3章1-4節」

牧師の言葉

◆よみがえりのいのち
ここから3章に入り「あなたがたはキリストとともによみがえらされた」で始まります。この「よみがえり」は何を意味しているのでしょうか。私たちの「からだ」はやがて新天新地、救いの完成のときに「朽ちないからだ」に変えられます。今、私たちは実際にはよみがえりのからだではないけれども、ここで「よみがえらされた」と言っているのは矛盾ではなく、新しいいのちがすでに始まっていることを教えるためです。私たちのこの肉体は、最初の人アダムの子孫として一度死ななければなりません。しかし、キリストにある者は栄光の御霊のからだによみがえらされると約束されています(第一コリント15章)。では、ここでは何を指して「よみがえらされた」と言っているのでしょうか。それは2章で見てきたように「この世のもろもろの霊から解放され、支配されることのない新しいいのち」によみがえらされたという意味です。私たちは身近な人や生き物の死を通して、はじめて「いのち」を意識します。同じように、このよみがえりのいのちも、古い人に「死ぬ」ことがあってはじめて理解し、実感できるいのちとなります。前から何も変わらず、キリストに対する信仰が何もないままでは「古い自分の死」「新しいいのちへのよみがえり」はまったく分かりません。以前は罪の奴隷であり、縛られていることさえも分からずにもがいていた自分に死んで=決別していることです。また、キリストにあって自分はまったく愛されており、神の救いを受け入れ、神のしもべとして新しく生まれ変わったことを知っていることです。あなたには、新しいいのち・今までとは質の違ういのち・よみがえりのいのちが鼓動を打っているでしょうか?
◆隠されているいのち
続いて「あなたがたはすでに死んでいて…(新しい)いのちは隠されている」と続きます。この「死」は先ほど見たように、この世の原理、枠組みの中で生きているむなしいいのちの終わりです。そこから新しく生まれ変わり、よみがえったいのちは「隠されて」います。どこか分からない場所に隠されているのは不安ですが、その場所とは「神のうちに!」です。それはもっとも安全で確かな場所、いえ絶対に奪われないお方のふところに預けられているということです。それだからこそ、私たちは地上のことだけで必要以上に一喜一憂せず、心配しすぎません。本来のいのちは天の父のふところにあるのだからです。地上がすべて、ここでうまくいかないと神さまも疑うぞ・・・という錯覚に惑わされることがありませんように。「地にあるものではなく、天にあるものを求めなさい、思いなさい」という前節までの命令形に身を従わせましょう。それは、決して「信仰に逃げる」ということではなく、神への信仰をもって現実の問題に向き合っていくという生き方のはずです。常に上にあるもの(私たちの新しいいのちとキリストが王座に着き治めておられること)を思いつつ、それを地上の出来事への対処、人々との関係にも表現していくのです。
◆現れるいのち
しかし、いのちは「隠されたまま」ではないと続きます。それは「現わされる」のだ、と。世の宗教は限られた者だけに啓示され、真理は隠されているからこそありがたいという風潮があります。しかし「すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます」というのが聖書の教えです。さらに救いの完成のとき、そこには夜はなく、太陽も他の光も必要がなく、ただ神の栄光によってすべてのものが照らされます。いっさいの闇、影のない都がそのとき完成するのです(黙示録22章)。今朝の結びの4節では、「いのちであるキリスト」と断言されており、キリストの再臨にともなって「あなたがたも・・・現れます」とあります。ここから学べる第一のことは、私たちの新しいいのちは、キリストそのものだということです。あたしたちのいのちを預かり、生かすのはキリストです。それをキリスト以外のもので支えてもらおうとするのは間違いです。何を喜びとし、打ちひしがれた時にはだれが一緒になって貧しくなり、ともに泣いてくださるのかを思い出しましょう。第二は、私たちのいのちは、「栄光のうちに現れる」という確かな約束(未来形)です。この「栄光」は一点の曇りもない神の輝きです。むなしい生き方から栄光へ変えられたあなたのいのちが現れるのです。

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