日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「愛と赦しの始まり」

主日礼拝 2020年10月25日

そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。
私は、彼を私のもとにとどめておき、獄中にいる間、福音のためにあなたに代わって私に仕えてもらおうと思いました。
しかし、あなたの同意なしには何も行いたくありませんでした。それは、あなたの親切が強いられたものではなく、自発的なものとなるためです。

「ピレモンへの手紙12-14節」

牧師の言葉

◆身も心も切って
ピレモンへの手紙のテーマは「愛と赦し」です。パウロがピレモンに頼んでいるのは、オネシモを愛をもって迎え入れ、赦しを与えることです。それは、オネシモが過去の罪から解放されるだけでなく、ピレモンにとっても益となることです。なぜなら、愛と赦しは神から出ているものなので、赦す側も赦される側も、神のわざを味わう(体験する)からです。それが分からないと、こんなにへりくだっているのに何で赦してくれないの?相手を赦すなんてこっちだけ損じゃないか!と憤慨したり、相手を攻撃したり、いつまでたっても泥沼から抜け出せません。聖書は、神の救いの素晴らしさを伝えるために書かれています。今朝の個所でも、ただ個人間の問題についてではなく、神と私とのストーリとして聞いてまいりましょう。
 パウロは、オネシモのことを「私の心です」と記しています。それは何よりも大切だということです。自分自身のようであり、それがなくては身が引きちぎれる思いがする・・・その彼を今「送り返すことにした」という一大決心を綴ります。それは簡単なことではありません。続く13節で「彼を私のもとにとどめておきたい」と思っていたとあります。原語で見ると「そうしたいとずっと考え続けていた」というニュアンスになります。すぐ送り返せるなら「心」が痛む決断とはなりません。パウロにとったら、自分が回心へと導き、教え、有益な者として手放せない、手放したくない存在へと育てたのですから「自分のもの」「こちらに置かせてください」と何度も考え、悩んだことでしょう。それでも、ここで自分の願い、いや心を断ち切って今オネシモを主人ピレモンのもとへ送り返すことにしたのです。それは、やはりこの手紙の目的であり、テーマである「愛と赦し」をオネシモとピレモンが経験するためでした。そのためにオネシモはピレモンのもとへ帰り、ピレモンはオネシモを迎える必要があったのです。パウロは自分優位に事を進めることをしていません。むしろ、相手が神の愛に触れ、神の赦しを味わうために決断を下しています。それがたとえ自分の身や心を切ることになっても・・・
◆神を選ぶ
ピレモンはこの手紙、パウロの心を受け取ります。「あなたの同意なしには何も行いたくない」(14節)とは、オネシモをどう迎え、どう扱うかがピレモンに完全にゆだねられていることを意味します。8節にあった「遠慮せずに命じることもできる」けど、そうしない理由がここにも込められています。このオネシモの問題は、ピレモンにかかっている。ピレモンが自発的に、誰からの指図も圧力も受けず、自分の自由で決めるということです。たとえ、彼がオネシモを親切に受け入れたとしても、それが命令への服従とか、仕方なくいやいやながらであれば意味がありません。そうであれば、愛と赦しは強制されたものとして両者にずっとわだかまりとして残り続けるでしょう。しこりや遺恨を残すのは本当の愛と赦しではないのです。
けれども、ピレモンが自発的に、誰からも強制されないで自分で決めたのであれば、それは自由な愛です。自由な愛は、相手をも自由にします。自発的の反対は「他から促され、他から引き出されて動くこと」です。相手が従順だから愛する、相手が謝るから許すのは、他発的です。それは人間同士のやり取りにしかすぎません。「人間の本当のあり方は、傾向に対して抵抗することだ」とある学者は言いました(カント)。傾向=気持ち、本能に従うのは簡単なことです。しかし、そこに神の愛と赦しは生まれません。ピレモンの選択は、この傾向=罪性と向き合い、考え、戦い、そして神を選び取っていく信仰の歩みに他ならないものなのです。
◆キリストの愛と赦し
果たして、私たちにそんな愛と赦しを実践することなど可能でしょうか?生まれつきの人間は絶対に反対することでしょう。しかし、キリストの愛と赦しを受け取る人には、それが可能となるのです。キリストは、あなたが何かをしたから愛しておられるのでしょうか?キリストはあなたが神妙に謝罪したから赦されたのでしょうか?いいえ、決してそうではありません!キリストは私たちが弱いときから愛し、罪人だと自覚する前に十字架にかかられました。私たちが何者であるから愛したとか、何かをしたから赦したのではないのです。あなたの胸につかえている「愛されない、赦されていない」思い悩みから、解放するのは主イエスおひとりです。こんな愛は人と人との間にはありませんし、生まれてもきません。まさに、私たちが見たことも聞いたこともない愛が神から注がれました。何もしていなくてもあなたは愛されており、自覚する前からあなたは赦され、あなたのすべてが受け入れられています。これは神の自由な愛です。この個所から言えば、神は私たちに価値があり、私たちが従順だから愛し、赦すのではなく、神ご自身の自由に基づく愛によって愛し、神ご自身の愛によって赦してくださったのです。この神の愛と赦しを受け取りましょう。そして、その愛を仕向ける存在が、あなたにはいるはずです。胸のつかえ、心の負担、過去の傷となっている人かもしれません。しかし、その人こそ、こうした自由な愛と赦しを待っているのではないでしょうか。神の愛と赦しを受け取ることからすべてが新しく始まります。

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聖書の言葉

「新しい」

主日礼拝 2020年10月18日

8 ですから、あなたがなすべきことを、私はキリストにあって、全く遠慮せずに命じることもできるのですが、
9 むしろ愛のゆえに懇願します。このとおり年老いて、今またキリスト・イエスの囚人となっているパウロが、
10 獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。
11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。

「ピレモンへの手紙8-11節」

牧師の言葉

◆お願いから
ピレモンへの手紙はパウロから送られた個人的な手紙ですが、聖書に収められているゆえに、これは神さまからあなたへの個人的な手紙でもあります。この言葉も自分へのメッセージとして心して聴きたいと願います。8-9節でパウロはピレモンに命令かつお願いをしています。「全く遠慮せずに」は直訳すると「確信をもって」です。それは「なすべきこと」を知らせるため。それだけならただの事務的な通達です。しかし、パウロは次に「懇願します」「お願い」(9,10節)と「命令」から「お願い」へ展開させています。さらに「このとおり年老いて(しかも)囚人である」者からの懇願だとかぶせます。あなたが誰かに「なすべきこと」を伝えるのにするのは命令でしょうか?お願いでしょうか?「しなさい!」と言ってその通り従ってくれるなら簡単ですが、実際はお願いしても聞いてもらえないこともあります。頼み事に失敗するのは、その頼み方がまずい時です。偉そうな態度や上から目線の指図に受け取られて、相手は頼みとして聞こえなくしてしまうこともあります。お願いしたいけれどどう頼んだら良いのかわからない・・・どんなことも気持ちよく受けられたらよいのにそうできない・・・そうして自分を苦しめたり、人とのやり取りに負担を感じるものです。命令をお願いに包んで、自分の状況を明らかにして切り出すこのくだりから、そんな人間関係の複雑さ、気難しさを神さまはよく分かっておられることを知れてホッとします。
◆ハードルを越えよう
続いてパウロは「オネシモのことなのです」とサッと切り出します。オネシモとは、ピレモンの奴隷だった者です。後に見ますが、ピレモン家から金品を持ち出し、逃亡して行方をくらませていたやっかい者です。ピレモンがオネシモの名前を聞いた途端「拒絶反応」が出ても当然でした。人間的に扱うなら、怒って当然、罰して当然、突き返して当然なのがピレモンーオネシモの関係。パウロはそれをよく分かっていたので、命令を懇願にしているのです。そんな  オネシモを「獄中で生んだわが子」と記しています。オネシモは、ローマの獄中にいたパウロに出会い、神の子どもとして生まれ変わったのだと。この「生んだ」は、人がクリスチャンとなる場合にも使われる言葉で(参照ヨハネ3:3、へブル1:5、1ヨハネ5:1など)、パウロにとっては手塩にかけた「わが子」のように大事な存在です。「あのオネシモは神の子どもとして生まれ変わった!」これをパウロは最初に伝えています。しかも、それはオネシモだけに起こった変化ではなく、同じクリスチャンであるピレモン、あなたにも言えることですよ!と心を揺すっている音が文面から聞こえてきます。この手紙でパウロがピレモンに伝えているのは、新生した者にしか聞けない、できない命令・お願いだということです。聖書にある命令は、新生していない、神を知らない、生まれながらの人間に向けたものではありません。神によって新生してない者にとっては、無理難題、損な生き方、間違った命令にしか聞こえないからです。しかし、神によって新生した者にとって、それは自分に与えられた新しい道しるべです。進むべき新しい道です。さらに、超えるべきハードルです。神さまが、新生したあなたに命じておられることは何でしょう?嫌だ!できない!無理!とはねつけるのは、古い人です。あなたが新生したのであれば、またそれを願っているのであれば、神からの命令、願いを受けましょう。
◆新しい自分で
生まれ変わったオネシモの変化は「以前と今」とではっきりと表れています。それは「役に立たない者」から「役に立つ者」への変化です。以前のオネシモはピレモンを主人とした奴隷でしたが、その時には損害を与え、逃亡した役立たずの者でした。しかし、今のオネシモはキリストを主とするしもべです。以前は主人ピレモンをだましたり、嫌気がさしたり、感情のまま行動して逃げ出したりしていたのですが、キリストの前に罪を悔い改め、十字架の犠牲による赦しを受け取った今は違います。彼が本当に生まれ変わり、神にも人にも役に立つ者となったことを証言しているのがパウロです。罪を犯し、損害を被らせた主人のところへ帰るのは勇気がいることです。できることなら、他の場所でやり直したい・・・しかし、そんな過去とは今は違うのです。私たちが道具を使い分けることができるように、神さまもあなたを使って確かなわざをなさいます。あなたの目の前にハードルがあるならば、それは、神さまがそのハードルを越えさせるためにあなたをそこに置いておられる、ということです。神のわざに役立つ者として、どこででも使ってもらうあなたでありますように!

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聖書の言葉

「3セヨ」

主日礼拝 2020年10月11日

私は祈るとき、いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています。
あなたが主イエスに対して抱いていて、すべての聖徒たちにも向けている、愛と信頼について聞いているからです。
私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。
7私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって聖徒たちが安心を得たからです。

「ピレモンへの手紙4-7節」

牧師の言葉

◆愛を送受信セヨ
パウロはピレモンのために祈るときいつも(=祈るたびに)、神に感謝をしていました。このように感謝にあふれるパウロはすごいと思うと同時に、そうさせたピレモンの姿も見えてきます。ピレモンのことを祈ると、心にも言葉にも感謝が湧きあがってくる!私たちが祈ってもらうとき、相手に感謝をもたらすようになるにはどうしたらよいのでしょうか?その鍵が5節にあります。それは、ピレモンが「愛と信頼」に生きている人だったからです。この「愛と信頼」は「主イエスに対して」だけでなく「すべての聖徒たちにも向けている」とあります。ピレモンは神だけを愛すると公言する人ではありませんでした。自分がクリスチャンであるということを聖徒=他者・人間にも同じだけ示した人でした。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です・・・神を愛する者は兄弟も愛すべきです」(第一ヨハネ4:20-21)。両目で見て物や距離が正確に把握できるように、神と人とを愛し、神と人とに信頼を寄せることで、私たちの愛と信仰は確かなものとされるのです。それは「抱いて」とあるような、愛と信仰の持ち方です。「ねばならない!」では持っているのもしんどくなります。あなたに宿った信仰が、自身で抱くように大事にされ、感謝を送受信するものであることを期待されています。
◆交わりを発生サセヨ
その愛と信頼は言葉だけでなく「信仰の交わり」として目に見えるかたち、受け取られるかたちで表されます。この「交わり」は“コイノニア”(ギリシャ語)といい、クリスチャン特有のものとしてよい語です(参照:使徒2:42「交わり」,ローマ15:26「援助」,第2コリント8:4「支える奉仕」)。具体的には、何かを犠牲とし、ささげものとして人の必要のために差し出すことです。もし、私たちがそれぞれ自分のことだけを考えていたら、私たちの間に交わりは存在しません。自分がしてもらうことだけを考えていたら、交わりは始まりません。他者がしていることを批判していたら、交わりは生まれません。自分のしたことを褒められないと機嫌を悪くするなら、交わりは成立しません。他者のためにただささげることが、交わりを生むのです。なぜ、そんなことができるのでしょうか?それはその行為が「キリストのためになされている良い行い」だと知っているからです。「キリストのために」ささげられることほど尊いものはありません。どんな高額寄付よりも、どんなに多くの人への募金よりも、キリストのためにすることが一番価値のあることです。なぜなら、そこには自慢がなく(キリストがご存じですから)、卑屈な精神がなく(キリストがまず愛してくださったからです)、見返りを求めないからです(キリストが豊かに報いてくださいますから)。ここに交わりは生まれます。
◆リフレッシュサセヨウ
さらに続きがあります。ピレモンの信仰は愛と信頼、交わりにとどまりません!彼によってパウロ自身も「愛と慰めを得た」とあるように、しっかりと愛は愛として伝わっています。それが「聖徒たち(ほかのクリスチャンたち)」にも届いているのです。それは「安心を得た」という言葉で表現されています。ここの「安心」は英訳ではリフレッシュ(refresh)です。ピレモンの信仰とその行動は、他者をリフレッシュさせ、新しい力を与えるものでした。ちょと考えてみてください。今のコロナ禍で自由に外出したり、外食したり、マスクを着用したり窮屈に感じる生活を強いられています。しかし、悪いことばかりではなく、「人間関係のしがらみから解放されている」「余計な気を使わなくてすむ」「マスクをしているから無理に笑顔をしていなくてもよい」と心地の良いこともあります。なぜなら、もっとも私たちを疲れさせるのは「人間関係」「人間との交流」だからです。花や動物には好きな言葉をかけられますが、人間相手にはそうもいきません。相手に気を配り、自制することも求められます。そうです、私たちは人に疲れ、同時に人を疲れさせる性質を持っていることに気づくのです。これらを思うと、ピレモンによって人々は安心を得、新しい力をもらったというのは驚異的なことです。人を疲れさせず、リフレッシュさせるにはどうしたらよいでしょうか?それは自分を抑えての振る舞いや会話のHowtoの取って付けではなく、キリストの愛によって変えられる「品性」のなせるわざです。キリストによる新しい人、品性をいただきながら、リフレッシュ信仰を実践しよう!!

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聖書の言葉

「列車でGO!」

主日礼拝 2020年10月4日

キリスト・イエスの囚人パウロと 兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンと、姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、ならびに、 あなたの家にある教会へ。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、 恵みと平安があなたがたにありますように。

「ピレモン1-3節」

牧師の言葉

◆神の真理
コロサイ人への手紙を読み終え、今回からピレモンへの手紙に入ります。おそらくこれら二つの手紙は同じ時期に書かれ、いっしょに届けられたと思われます。この手紙は、ピレモンという個人に宛てたとても短い手紙です。聖書は66巻からなる書物で、今後書物が減ることも増えることも、個所が取り除かれることもつけ加えられることもありません。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(マタイ24:35)と主イエスが言っておられる言葉そのものが、ここで手にし、耳にしている聖書なのです。神は聖書記者たちを聖霊によって文言と内容を守り導かれました。教会は、神が聖書に与えた永遠の権威を認め、変わらない信仰の土台として、また人を救いに導き、成長させる糧(パン)として大切にしています。その聖書に、この短いピレモンへの手紙は入っています。それは、ただの個人間の手紙としてではなく、この手紙が教会、信仰、救いを養うのに有益で、実際に実を結び続けているからです。神はこの手紙を通して、私たち人間が生きていくうえで知るべき本当のこと=真理を与えておられます。私たちの生活の中に、神の真理を探し求めるように聖書を読んでまいりましょう。聖書には神から出て永遠に変わることのない真理が刻まれ、世から出る知恵や言葉はその都度変化しすたれます。ピレモンへの手紙に込められた神からの真理、ピレモンやオネシモを立て直したのと同じ力をもって、今日の私たち教会に語りかけてくださいます。誰にも縛られず、迷わされることもなく、ただこの真理に生きればよいからです。本当のこと=真理は、それを知る者に自由を与えてくれます。「主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう」(イザヤ2:3)「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)
◆だれの囚人?
著者のパウロは「囚人」として鎖につながれていました。その宣教があまりにも激しく人々の心を刺したので、危険人物(扇動者)として捕らえられ、ローマ皇帝による裁判を待つ身となっていました。けれども、彼は自分のことを「皇帝の囚人」とは書かずに「キリスト・イエスの囚人」としました。決して強がりではありません。パウロは、帝国の権力によって牢にいるけれども、「本当の意味でこの身をあずかっておられるのはキリスト・イエスである」ことを知っているのです。自分に起こるどんな出来事や状況も、神の御手の中にあり、世から受けるどんな扱いもキリスト・イエスから与えられている人生であるとパウロは心に決めていました。パウロ自身は「わたしの選びの器」(使徒9:15)として主イエスに選ばれた大事な存在です。神の選びと用い方は、決して私たち人間が望むような方法ではないかもしれません。パウロ自身も迫害を受け、死の恐怖を味わい、鎖につながれた状況が何年も続きました。それでも、自分に対する神の計画は中断されることがないと信じ、いら立たず、かえって信仰と確信は強められていきました。「自分は主の囚人」であることに、あなたは慰めを得ているでしょうか?
◆連結しよう
この手紙は、パウロの元に来た逃亡奴隷オネシモをその主人ピレモンへ送り返すので、彼を仲間として迎えてほしいとの趣旨で書かれました。元をたどれば、それはピレモンとオネシモの個人の問題です。それならば、こんな公にしたくても・・・と思いますが、その目的は二つあります。一つは、個人の問題を教会で受け止めることの大切さを学ぶためです。「こんなことを言うのは教会のみなさんに申し訳ない」「もっと社会的に大きなことや皆の益となることを願ってお祈りしてもらうべき」「個人のことと教会は分けないと」そういった遠慮は無用です! むしろ、「互いに愛し合いなさい」という主イエスの命令を実践できるのは、教会においてちゃんと個人の問題や悩みを共有できるところから始まるのだからです。もう一つはその問題の対処方法が、教会の体質となっていくことを経験するためです。ピレモンは家の教会のリーダーだと思われます。その彼が、罪を犯したオネシモをただ罰するだけであれば、世のやり口や世の機関のすることと何も変わりません。そうではなく、ピレモンが信仰者としてこの問題をどのように扱い、解決していくのかを、教会全体が見て学ぶレッスンとなっていることが重要なのです。もし、リーダーが聖書にのっとって事柄を進め、キリストの愛にならって対処していくなら、それは今後その教会全体に良い影響を与えるモデルとなります。反対に、聖書の教えよりも自分の考えを優先させたり、感情に任せて爆発するのは有害なモデルです。真理と人生、聖書と生活、教会と個人は連結させてこそ、神に喜ばれる教会へと成長させてくださるからです。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

愛と赦しの始まり

主日礼拝 2020年10月25日

聖書の言葉

そのオネシモをあなたのもとに送り返します。彼は私の心そのものです。
私は、彼を私のもとにとどめておき、獄中にいる間、福音のためにあなたに代わって私に仕えてもらおうと思いました。
しかし、あなたの同意なしには何も行いたくありませんでした。それは、あなたの親切が強いられたものではなく、自発的なものとなるためです。

「ピレモンへの手紙12-14節」

牧師の言葉

◆身も心も切って
ピレモンへの手紙のテーマは「愛と赦し」です。パウロがピレモンに頼んでいるのは、オネシモを愛をもって迎え入れ、赦しを与えることです。それは、オネシモが過去の罪から解放されるだけでなく、ピレモンにとっても益となることです。なぜなら、愛と赦しは神から出ているものなので、赦す側も赦される側も、神のわざを味わう(体験する)からです。それが分からないと、こんなにへりくだっているのに何で赦してくれないの?相手を赦すなんてこっちだけ損じゃないか!と憤慨したり、相手を攻撃したり、いつまでたっても泥沼から抜け出せません。聖書は、神の救いの素晴らしさを伝えるために書かれています。今朝の個所でも、ただ個人間の問題についてではなく、神と私とのストーリとして聞いてまいりましょう。
 パウロは、オネシモのことを「私の心です」と記しています。それは何よりも大切だということです。自分自身のようであり、それがなくては身が引きちぎれる思いがする・・・その彼を今「送り返すことにした」という一大決心を綴ります。それは簡単なことではありません。続く13節で「彼を私のもとにとどめておきたい」と思っていたとあります。原語で見ると「そうしたいとずっと考え続けていた」というニュアンスになります。すぐ送り返せるなら「心」が痛む決断とはなりません。パウロにとったら、自分が回心へと導き、教え、有益な者として手放せない、手放したくない存在へと育てたのですから「自分のもの」「こちらに置かせてください」と何度も考え、悩んだことでしょう。それでも、ここで自分の願い、いや心を断ち切って今オネシモを主人ピレモンのもとへ送り返すことにしたのです。それは、やはりこの手紙の目的であり、テーマである「愛と赦し」をオネシモとピレモンが経験するためでした。そのためにオネシモはピレモンのもとへ帰り、ピレモンはオネシモを迎える必要があったのです。パウロは自分優位に事を進めることをしていません。むしろ、相手が神の愛に触れ、神の赦しを味わうために決断を下しています。それがたとえ自分の身や心を切ることになっても・・・
◆神を選ぶ
ピレモンはこの手紙、パウロの心を受け取ります。「あなたの同意なしには何も行いたくない」(14節)とは、オネシモをどう迎え、どう扱うかがピレモンに完全にゆだねられていることを意味します。8節にあった「遠慮せずに命じることもできる」けど、そうしない理由がここにも込められています。このオネシモの問題は、ピレモンにかかっている。ピレモンが自発的に、誰からの指図も圧力も受けず、自分の自由で決めるということです。たとえ、彼がオネシモを親切に受け入れたとしても、それが命令への服従とか、仕方なくいやいやながらであれば意味がありません。そうであれば、愛と赦しは強制されたものとして両者にずっとわだかまりとして残り続けるでしょう。しこりや遺恨を残すのは本当の愛と赦しではないのです。
けれども、ピレモンが自発的に、誰からも強制されないで自分で決めたのであれば、それは自由な愛です。自由な愛は、相手をも自由にします。自発的の反対は「他から促され、他から引き出されて動くこと」です。相手が従順だから愛する、相手が謝るから許すのは、他発的です。それは人間同士のやり取りにしかすぎません。「人間の本当のあり方は、傾向に対して抵抗することだ」とある学者は言いました(カント)。傾向=気持ち、本能に従うのは簡単なことです。しかし、そこに神の愛と赦しは生まれません。ピレモンの選択は、この傾向=罪性と向き合い、考え、戦い、そして神を選び取っていく信仰の歩みに他ならないものなのです。
◆キリストの愛と赦し
果たして、私たちにそんな愛と赦しを実践することなど可能でしょうか?生まれつきの人間は絶対に反対することでしょう。しかし、キリストの愛と赦しを受け取る人には、それが可能となるのです。キリストは、あなたが何かをしたから愛しておられるのでしょうか?キリストはあなたが神妙に謝罪したから赦されたのでしょうか?いいえ、決してそうではありません!キリストは私たちが弱いときから愛し、罪人だと自覚する前に十字架にかかられました。私たちが何者であるから愛したとか、何かをしたから赦したのではないのです。あなたの胸につかえている「愛されない、赦されていない」思い悩みから、解放するのは主イエスおひとりです。こんな愛は人と人との間にはありませんし、生まれてもきません。まさに、私たちが見たことも聞いたこともない愛が神から注がれました。何もしていなくてもあなたは愛されており、自覚する前からあなたは赦され、あなたのすべてが受け入れられています。これは神の自由な愛です。この個所から言えば、神は私たちに価値があり、私たちが従順だから愛し、赦すのではなく、神ご自身の自由に基づく愛によって愛し、神ご自身の愛によって赦してくださったのです。この神の愛と赦しを受け取りましょう。そして、その愛を仕向ける存在が、あなたにはいるはずです。胸のつかえ、心の負担、過去の傷となっている人かもしれません。しかし、その人こそ、こうした自由な愛と赦しを待っているのではないでしょうか。神の愛と赦しを受け取ることからすべてが新しく始まります。

新しい

主日礼拝 2020年10月18日

聖書の言葉

8 ですから、あなたがなすべきことを、私はキリストにあって、全く遠慮せずに命じることもできるのですが、
9 むしろ愛のゆえに懇願します。このとおり年老いて、今またキリスト・イエスの囚人となっているパウロが、
10 獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。
11 彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても役に立つ者となっています。

「ピレモンへの手紙8-11節」

牧師の言葉

◆お願いから
ピレモンへの手紙はパウロから送られた個人的な手紙ですが、聖書に収められているゆえに、これは神さまからあなたへの個人的な手紙でもあります。この言葉も自分へのメッセージとして心して聴きたいと願います。8-9節でパウロはピレモンに命令かつお願いをしています。「全く遠慮せずに」は直訳すると「確信をもって」です。それは「なすべきこと」を知らせるため。それだけならただの事務的な通達です。しかし、パウロは次に「懇願します」「お願い」(9,10節)と「命令」から「お願い」へ展開させています。さらに「このとおり年老いて(しかも)囚人である」者からの懇願だとかぶせます。あなたが誰かに「なすべきこと」を伝えるのにするのは命令でしょうか?お願いでしょうか?「しなさい!」と言ってその通り従ってくれるなら簡単ですが、実際はお願いしても聞いてもらえないこともあります。頼み事に失敗するのは、その頼み方がまずい時です。偉そうな態度や上から目線の指図に受け取られて、相手は頼みとして聞こえなくしてしまうこともあります。お願いしたいけれどどう頼んだら良いのかわからない・・・どんなことも気持ちよく受けられたらよいのにそうできない・・・そうして自分を苦しめたり、人とのやり取りに負担を感じるものです。命令をお願いに包んで、自分の状況を明らかにして切り出すこのくだりから、そんな人間関係の複雑さ、気難しさを神さまはよく分かっておられることを知れてホッとします。
◆ハードルを越えよう
続いてパウロは「オネシモのことなのです」とサッと切り出します。オネシモとは、ピレモンの奴隷だった者です。後に見ますが、ピレモン家から金品を持ち出し、逃亡して行方をくらませていたやっかい者です。ピレモンがオネシモの名前を聞いた途端「拒絶反応」が出ても当然でした。人間的に扱うなら、怒って当然、罰して当然、突き返して当然なのがピレモンーオネシモの関係。パウロはそれをよく分かっていたので、命令を懇願にしているのです。そんな  オネシモを「獄中で生んだわが子」と記しています。オネシモは、ローマの獄中にいたパウロに出会い、神の子どもとして生まれ変わったのだと。この「生んだ」は、人がクリスチャンとなる場合にも使われる言葉で(参照ヨハネ3:3、へブル1:5、1ヨハネ5:1など)、パウロにとっては手塩にかけた「わが子」のように大事な存在です。「あのオネシモは神の子どもとして生まれ変わった!」これをパウロは最初に伝えています。しかも、それはオネシモだけに起こった変化ではなく、同じクリスチャンであるピレモン、あなたにも言えることですよ!と心を揺すっている音が文面から聞こえてきます。この手紙でパウロがピレモンに伝えているのは、新生した者にしか聞けない、できない命令・お願いだということです。聖書にある命令は、新生していない、神を知らない、生まれながらの人間に向けたものではありません。神によって新生してない者にとっては、無理難題、損な生き方、間違った命令にしか聞こえないからです。しかし、神によって新生した者にとって、それは自分に与えられた新しい道しるべです。進むべき新しい道です。さらに、超えるべきハードルです。神さまが、新生したあなたに命じておられることは何でしょう?嫌だ!できない!無理!とはねつけるのは、古い人です。あなたが新生したのであれば、またそれを願っているのであれば、神からの命令、願いを受けましょう。
◆新しい自分で
生まれ変わったオネシモの変化は「以前と今」とではっきりと表れています。それは「役に立たない者」から「役に立つ者」への変化です。以前のオネシモはピレモンを主人とした奴隷でしたが、その時には損害を与え、逃亡した役立たずの者でした。しかし、今のオネシモはキリストを主とするしもべです。以前は主人ピレモンをだましたり、嫌気がさしたり、感情のまま行動して逃げ出したりしていたのですが、キリストの前に罪を悔い改め、十字架の犠牲による赦しを受け取った今は違います。彼が本当に生まれ変わり、神にも人にも役に立つ者となったことを証言しているのがパウロです。罪を犯し、損害を被らせた主人のところへ帰るのは勇気がいることです。できることなら、他の場所でやり直したい・・・しかし、そんな過去とは今は違うのです。私たちが道具を使い分けることができるように、神さまもあなたを使って確かなわざをなさいます。あなたの目の前にハードルがあるならば、それは、神さまがそのハードルを越えさせるためにあなたをそこに置いておられる、ということです。神のわざに役立つ者として、どこででも使ってもらうあなたでありますように!

3セヨ

主日礼拝 2020年10月11日

聖書の言葉

私は祈るとき、いつもあなたのことを思い、私の神に感謝しています。
あなたが主イエスに対して抱いていて、すべての聖徒たちにも向けている、愛と信頼について聞いているからです。
私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。
7私はあなたの愛によって多くの喜びと慰めを得ました。それは、兄弟よ、あなたによって聖徒たちが安心を得たからです。

「ピレモンへの手紙4-7節」

牧師の言葉

◆愛を送受信セヨ
パウロはピレモンのために祈るときいつも(=祈るたびに)、神に感謝をしていました。このように感謝にあふれるパウロはすごいと思うと同時に、そうさせたピレモンの姿も見えてきます。ピレモンのことを祈ると、心にも言葉にも感謝が湧きあがってくる!私たちが祈ってもらうとき、相手に感謝をもたらすようになるにはどうしたらよいのでしょうか?その鍵が5節にあります。それは、ピレモンが「愛と信頼」に生きている人だったからです。この「愛と信頼」は「主イエスに対して」だけでなく「すべての聖徒たちにも向けている」とあります。ピレモンは神だけを愛すると公言する人ではありませんでした。自分がクリスチャンであるということを聖徒=他者・人間にも同じだけ示した人でした。「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です・・・神を愛する者は兄弟も愛すべきです」(第一ヨハネ4:20-21)。両目で見て物や距離が正確に把握できるように、神と人とを愛し、神と人とに信頼を寄せることで、私たちの愛と信仰は確かなものとされるのです。それは「抱いて」とあるような、愛と信仰の持ち方です。「ねばならない!」では持っているのもしんどくなります。あなたに宿った信仰が、自身で抱くように大事にされ、感謝を送受信するものであることを期待されています。
◆交わりを発生サセヨ
その愛と信頼は言葉だけでなく「信仰の交わり」として目に見えるかたち、受け取られるかたちで表されます。この「交わり」は“コイノニア”(ギリシャ語)といい、クリスチャン特有のものとしてよい語です(参照:使徒2:42「交わり」,ローマ15:26「援助」,第2コリント8:4「支える奉仕」)。具体的には、何かを犠牲とし、ささげものとして人の必要のために差し出すことです。もし、私たちがそれぞれ自分のことだけを考えていたら、私たちの間に交わりは存在しません。自分がしてもらうことだけを考えていたら、交わりは始まりません。他者がしていることを批判していたら、交わりは生まれません。自分のしたことを褒められないと機嫌を悪くするなら、交わりは成立しません。他者のためにただささげることが、交わりを生むのです。なぜ、そんなことができるのでしょうか?それはその行為が「キリストのためになされている良い行い」だと知っているからです。「キリストのために」ささげられることほど尊いものはありません。どんな高額寄付よりも、どんなに多くの人への募金よりも、キリストのためにすることが一番価値のあることです。なぜなら、そこには自慢がなく(キリストがご存じですから)、卑屈な精神がなく(キリストがまず愛してくださったからです)、見返りを求めないからです(キリストが豊かに報いてくださいますから)。ここに交わりは生まれます。
◆リフレッシュサセヨウ
さらに続きがあります。ピレモンの信仰は愛と信頼、交わりにとどまりません!彼によってパウロ自身も「愛と慰めを得た」とあるように、しっかりと愛は愛として伝わっています。それが「聖徒たち(ほかのクリスチャンたち)」にも届いているのです。それは「安心を得た」という言葉で表現されています。ここの「安心」は英訳ではリフレッシュ(refresh)です。ピレモンの信仰とその行動は、他者をリフレッシュさせ、新しい力を与えるものでした。ちょと考えてみてください。今のコロナ禍で自由に外出したり、外食したり、マスクを着用したり窮屈に感じる生活を強いられています。しかし、悪いことばかりではなく、「人間関係のしがらみから解放されている」「余計な気を使わなくてすむ」「マスクをしているから無理に笑顔をしていなくてもよい」と心地の良いこともあります。なぜなら、もっとも私たちを疲れさせるのは「人間関係」「人間との交流」だからです。花や動物には好きな言葉をかけられますが、人間相手にはそうもいきません。相手に気を配り、自制することも求められます。そうです、私たちは人に疲れ、同時に人を疲れさせる性質を持っていることに気づくのです。これらを思うと、ピレモンによって人々は安心を得、新しい力をもらったというのは驚異的なことです。人を疲れさせず、リフレッシュさせるにはどうしたらよいでしょうか?それは自分を抑えての振る舞いや会話のHowtoの取って付けではなく、キリストの愛によって変えられる「品性」のなせるわざです。キリストによる新しい人、品性をいただきながら、リフレッシュ信仰を実践しよう!!

列車でGO!

主日礼拝 2020年10月4日

聖書の言葉

キリスト・イエスの囚人パウロと 兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンと、姉妹アッピア、私たちの戦友アルキポ、ならびに、 あなたの家にある教会へ。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、 恵みと平安があなたがたにありますように。

「ピレモン1-3節」

牧師の言葉

◆神の真理
コロサイ人への手紙を読み終え、今回からピレモンへの手紙に入ります。おそらくこれら二つの手紙は同じ時期に書かれ、いっしょに届けられたと思われます。この手紙は、ピレモンという個人に宛てたとても短い手紙です。聖書は66巻からなる書物で、今後書物が減ることも増えることも、個所が取り除かれることもつけ加えられることもありません。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(マタイ24:35)と主イエスが言っておられる言葉そのものが、ここで手にし、耳にしている聖書なのです。神は聖書記者たちを聖霊によって文言と内容を守り導かれました。教会は、神が聖書に与えた永遠の権威を認め、変わらない信仰の土台として、また人を救いに導き、成長させる糧(パン)として大切にしています。その聖書に、この短いピレモンへの手紙は入っています。それは、ただの個人間の手紙としてではなく、この手紙が教会、信仰、救いを養うのに有益で、実際に実を結び続けているからです。神はこの手紙を通して、私たち人間が生きていくうえで知るべき本当のこと=真理を与えておられます。私たちの生活の中に、神の真理を探し求めるように聖書を読んでまいりましょう。聖書には神から出て永遠に変わることのない真理が刻まれ、世から出る知恵や言葉はその都度変化しすたれます。ピレモンへの手紙に込められた神からの真理、ピレモンやオネシモを立て直したのと同じ力をもって、今日の私たち教会に語りかけてくださいます。誰にも縛られず、迷わされることもなく、ただこの真理に生きればよいからです。本当のこと=真理は、それを知る者に自由を与えてくれます。「主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう」(イザヤ2:3)「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ8:32)
◆だれの囚人?
著者のパウロは「囚人」として鎖につながれていました。その宣教があまりにも激しく人々の心を刺したので、危険人物(扇動者)として捕らえられ、ローマ皇帝による裁判を待つ身となっていました。けれども、彼は自分のことを「皇帝の囚人」とは書かずに「キリスト・イエスの囚人」としました。決して強がりではありません。パウロは、帝国の権力によって牢にいるけれども、「本当の意味でこの身をあずかっておられるのはキリスト・イエスである」ことを知っているのです。自分に起こるどんな出来事や状況も、神の御手の中にあり、世から受けるどんな扱いもキリスト・イエスから与えられている人生であるとパウロは心に決めていました。パウロ自身は「わたしの選びの器」(使徒9:15)として主イエスに選ばれた大事な存在です。神の選びと用い方は、決して私たち人間が望むような方法ではないかもしれません。パウロ自身も迫害を受け、死の恐怖を味わい、鎖につながれた状況が何年も続きました。それでも、自分に対する神の計画は中断されることがないと信じ、いら立たず、かえって信仰と確信は強められていきました。「自分は主の囚人」であることに、あなたは慰めを得ているでしょうか?
◆連結しよう
この手紙は、パウロの元に来た逃亡奴隷オネシモをその主人ピレモンへ送り返すので、彼を仲間として迎えてほしいとの趣旨で書かれました。元をたどれば、それはピレモンとオネシモの個人の問題です。それならば、こんな公にしたくても・・・と思いますが、その目的は二つあります。一つは、個人の問題を教会で受け止めることの大切さを学ぶためです。「こんなことを言うのは教会のみなさんに申し訳ない」「もっと社会的に大きなことや皆の益となることを願ってお祈りしてもらうべき」「個人のことと教会は分けないと」そういった遠慮は無用です! むしろ、「互いに愛し合いなさい」という主イエスの命令を実践できるのは、教会においてちゃんと個人の問題や悩みを共有できるところから始まるのだからです。もう一つはその問題の対処方法が、教会の体質となっていくことを経験するためです。ピレモンは家の教会のリーダーだと思われます。その彼が、罪を犯したオネシモをただ罰するだけであれば、世のやり口や世の機関のすることと何も変わりません。そうではなく、ピレモンが信仰者としてこの問題をどのように扱い、解決していくのかを、教会全体が見て学ぶレッスンとなっていることが重要なのです。もし、リーダーが聖書にのっとって事柄を進め、キリストの愛にならって対処していくなら、それは今後その教会全体に良い影響を与えるモデルとなります。反対に、聖書の教えよりも自分の考えを優先させたり、感情に任せて爆発するのは有害なモデルです。真理と人生、聖書と生活、教会と個人は連結させてこそ、神に喜ばれる教会へと成長させてくださるからです。

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