日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「励まし」

主日礼拝 2020年9月20日

私の様子はすべて、愛する兄弟、忠実な奉仕者、主にある同労のしもべであるティキコが、あなたがたに知らせます。ティキコをあなたがたのもとに遣わすのは、 ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです。
また彼は、あなたがたの仲間の一人で、忠実な、愛する兄弟オネシモと一緒に行きます。この二人がこちらの様子をすべて知らせます。

「コロサイ4章7-9節」

牧師の言葉

◆知らせによる励まし
現代は「情報過多(氾濫、飽和)」の時代です。ありとあらゆるお知らせが朝から夜まで情報にあふれています。自ら手を伸ばして得る情報もあれば、否応なしに目や耳に入ってくるものもあります。有益な情報は、知識や知恵となり役立ちますが、無益な情報は心や時間をむしばむことになりかねません。コロサイ教会の人たちはある情報を心待ちにしていました。それは「パウロの宣教情報」です。どんな情報番組よりも、首を長くして待っていました。正確には「パウロたちの宣教」です。各地で教会がどのように誕生し、人が救われ、恵みを受けているのか。あるいは困難や困窮している教会が必要としていることは何か。パウロたちの様子を知りたくて仕方がなかったのです。牢につながれてもなお、自分の境遇改善や正義のためではなく、みことばの門が開かれるように祈ってほしいとリクエストしてくるパウロたちに、神がどのような答えを与えて導いておられるのかを知りたかったのです。パウロが言う「私の様子はすべて」「私たちの様子」とは、コロサイ教会の人たちにとってどんなスポーツの結果より、株価より事件よりも大事な知らせでした。彼らにとって、神の働きである宣教の様子を知ることこそが心に励ましを受けることだからです。あなたを励ますのはどんな知らせでしょうか。何を知りたいと願い、何にやる気が起こされ、何が自分を鼓舞し、動かしているでしょうか?良い知らせは良い歩みへ、良い歩みは良い実を結ぶ生涯へと成長させてくれます。何の知らせを受け取るか、それは大事な選択です。
◆友による励まし
現代は「友だち」の時代です。それもオンラインやSNS、ネットゲームなどで簡単に友だちになり、友だちを増やすこと(相手に分からずに減らすことも!)ができます。しかし、ネットでの誹謗中傷や表面化しないいじめも人々を苦しめています。趣味や関心、意見の共有はできたとしても、心に励ましを受ける友だちであるかと言われれば、決してそうではないでしょう。パウロには「愛する兄弟」と呼べる存在がいました。ティキコはローマの獄中にいるパウロからこの手紙をもって派遣される人物です。おそらく、使徒の働き19章10節で「アジアに住む人々はみな・・・主のことばを聞いた」とされる2年間のうちにパウロから手ほどきを受け、回心したものと言われています。そしてすぐ次の20章4節ではパウロたちのチームに入り、同行しています。それからずっとパウロとともに宣教の道を歩んできました。そのティキコを、パウロは「忠実な奉仕者」「主にある同労のしもべ」と評しています。ティキコからすると、一番身近でクリスチャンの自分をよく知っているパウロから「彼は信頼できる最高の働き人です」という評価を受けています。パウロは取って付けた言葉やリップサービスをしない人です。本心から、ティキコを愛し、信頼できるしもべとして自信をもってコロサイ教会へ送り出しているのです。あなたはどのような言葉で表されているでしょうか?人の評価を気にせよということではなく、隣人に励ましを与える存在、振る舞いをしているか自問してみましょう。信仰の友ほど心の支え、励ましになる存在は他にいないからです。世にあるものではなく、聖書のことばに従った生活から、人々に力を与える存在を目指したいと願います。
◆回復による励まし
現代は「回復」が必要な時代です。大なり小なり人々は課題や悩みを抱えていて、のしかかってきます。日々の生活や思考を圧迫し、疲れや弱さを覚える人がほとんどです。そんなとき、必要なのは重荷から解き放たれる空間や逃亡先ではありません。必要なのは「回復」です。ティキコと一緒にコロサイへ派遣されるのは「オネシモ」でした。新約聖書をめくると後に出てくる「ピレモンへの手紙」に詳しいのですが、彼はピレモン主人の奴隷でしたが、おそらくそのお金を盗んでローマへと逃亡した奴隷のようです。しかし、その逃亡先のローマでパウロと出会い、回心したのでした。そして、二年ほど(使徒の働き28章参照)の間にメキメキと成長し今や「忠実な、愛する兄弟オネシモ」とこれまたパウロからお墨付きをいただいています。泥棒から忠実なクリスチャンへの変化はすごいことです。失った信頼を回復することほど困難な仕事はありません。しかし、彼は回復しました。キリストの力が彼を変えていったのです。同じくコロサイ教会も彼を泥棒奴隷としてではなく「兄弟」として迎えるチャレンジを受けています。人を人の評価ではなく、主からの評価で見て、回復の励ましがある教会を建て上げましょう。互いに励まし合うことによって。

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聖書の言葉

「SALT」

主日礼拝 2020年9月13日

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。同時に、私たちのためにも祈ってください。神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。この奥義のために、私は牢につながれています。また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください。
外部の人たちに対しては、機会を十分に活かし、知恵をもって行動しなさい。
あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。

「コロサイ4章2-6節」

牧師の言葉

◆祈ってほしい
コロサイの教会に手紙を書いたパウロは、教会に祈りの要請をしました。「なんでも祈ってくれる」としたら、あなたは何をお願いするでしょうか。実は、この時のパウロは3節を見ると分かるように「牢につながれて」いました。その宣教活動の中で幾度も牢に入れられたようです(第二コリント11:23参照)。そんなパウロの願いは「みことばの門が開かれ、キリストの奥義を語れるように」ということでした。自分の釈放や不当な逮捕の解明、快適さや平穏でもありません。それはなぜでしょうか?なぜ、パウロは自分の境遇改善や正義よりも宣教の前進を願ったのでしょうか。それは、パウロがこの世に送り出された使命を果たすためです。彼を送り出したのは主なるキリストであり、その使命はまことの神を知らない人々(特に異邦人)に聖書を教え伝え、救いに導くことでした。それを果たすためであれば、最大の関心事は自分の境遇ではなくなります。パウロは、鎖をかけられ牢にいたとしても、看守に伝道しバプテスマを授けたことがありました(使徒の働き16:19以降参照)。逮捕や護送のおかげで、総督や大祭司といった普段接点のない立場の者に信仰を表明することもありました。とにかく、どんな状態や事態に陥っても、そのことが問題ではなく、そこで神の言葉が自分のうちに燃えさかり、出会う人に分かち合っていくことこそ、彼がいつも祈り願っていることでした。健康、経済、将来、家族や子育て・・・様々頭をよぎり、心を占める私たちですが、今一度、「自分は神のために用いられようとしているだろうか?」と問いかけ、祈りに向かいたいと願います。また、自分からキリストのことば、恵みが広がることを祈ってもらえるように思い切りましょう。自分が何のためにクリスチャンとして世に送り出されているのか、その目的を全うするために。
◆行動してほしい
パウロが次に願ったのは「行動すること」です。この言葉は「歩みなさい」(1:10,2:6,3:7)と同じ語です。「キリストにあって歩みなさい」(2:7)と言われたことをもう一度丁寧に命じています。それは、いくら願っていても、祈ってもらっても、行動することがなければ実を結んでいかないからです。どれだけ素晴らしく完璧な計画があってもそれを実行しないなら、意味がありません。反対に、まだ完全ではないかもしれないけど今のベストをもって実行することは完璧な計画をただ持っていることより100倍まさります。そして、クリスチャンの行動先は「外部の人たちに対し…機会を十分に活かす」ことです。この「外部の人」とはまだ教会に集っていない方々であり、私たちの教会では「VIP(最重要人物)」と称して救いを祈っている人のことです。教会内ではもちろんのこと、今は教会の外にいる人たちに愛と知恵をもって行動するのです。そのために必要な一歩は「機会を活かす」ことです。先ほどの計画と同じでどんな素晴らしい賜物を持っていても「機会」を逃していては何にもなりません。ここの直訳は「機会・時間を買いなさい」です。あの人にはまだ早いかな…自分が言っても説得力がないかな…ちょっと忙しそうだしまたの機会でいいかな…こうしている間に機会を逸しているのです。そして、ズルズルと機会を先延ばしにし、とうとうクリスチャンらしさを表明するのをあきらめてしまうのであれば、ここのみことばと逆の行動をしていることになります。みことばを聞き、行動してこそ、神の力と祝福をいただくことができます。逃さないようにしましょう。
◆輝かせてほしい
では、どのように外部の人に機会を活かしてキリストの素晴らしさ・奥義・ことばを伝えることができるんでしょうか?それは「あなたがたのことばがいつも親切で、塩味の効いたものである」ことです。「塩」は言わずと知れた欠かせない調味料です。塩によって味は整うからです。全体の量に対しては驚くほど少量ですが、塩の有無は味の全体に影響を与えます。また、食材の腐敗を防ぐためにも塩は有効です。主イエスも、ご自分の弟子や神の子どもとされたクリスチャンたちを「地の塩」と呼びました(マタイ5:13)。地の腐敗を防ぎ、いつも塩味のきいたキリストの味付けをする塩として生きるように励ましておられるのです。そして、もし塩が塩気をなくしたら「外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」と警告もしています。クリスチャンであること、聖書を知っていること、神への信仰を大事にしていることを隠さないでいましょう。自分が輝き、認められるのではありません。主キリストを誇らしげにかかげ、世にあって輝かせていくのです。それが、私が、あなたがこの世に送り出されている目的だからです。

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聖書の言葉

「「からの~!!!」」

主日礼拝 2020年9月6日

妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。
夫たちよ、妻を愛しなさい。 妻に対して辛く当たってはいけません。
子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。
父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。 その子たちが意欲を失わないようにするためです。
奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、 主に対してするように、心から行いなさい。3:24 あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。 あなたがたは主キリストに仕えているのです。
主人たちよ。あなたがたは、自分たちも天に主人を持つ者だと知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。

「コロサイ3章18節-4章1節」(抜粋)

牧師の言葉

◆主からの命令
この個所は「~しなさい」と命令が続きます。これにムッとするか、うなづくかは信仰の試金石となります。神を信じる者が第一にすることは、神を神とすることです。神を選択肢の一つ、多くの神々のひとりとはせず、唯一の神=主として歩むのです。もし、私たちが聖書からどの言葉を守るかを自分で決めるなら、それは神を神としてはおらず、自分を主人とし、神をその下に置いているのと同じです。しかし、万物を造られた主に従うことは、何一つ無から有を生み出すことのできない私たちにとって、道理にかなったことです。それは自由を奪われた不幸の人生ではなく、幸いと祝福をいただく人生となります。それで、今朝の個所も「主にある者にふさわしく」(18節)、「主に喜ばれること」(20節)、「主を恐れつつ」(22節)、「主に対してするように」(23節)、「天に主人を持つ」(4章1節)と「主」を意識して過ごすことが鍵となっているのが分かります。私たちは、主の前に生きる者です。反対に言うならば、人を喜ばせる生き方からの解放です。それは、途中あるように「人のご機嫌取りのような、うわべだけの」行動になりがちです。確かに人からの賞賛や褒め言葉は、自分を支えてくれるものかもしれませんが、それだけを求めて生きるならば、常に人の機嫌を取り、取り繕っていなければなりません。これは大変しんどい生き方です。また、人の目はごまかせても、自分だけが知っている自らの闇とのギャップに苦しみ、自分に嫌気がさすことだってあります。最も良いのは主の前でも、人の前でも、自分だけでも変わらないでいる生き方です。そして、それは聖書のことばに従う者にのみ与えられる祝福です。主の前に生きるなら、変節の必要はありません。
◆私からの行動
ここで、呼びかけられているのは、「妻、夫、子ども、父、奴隷、主人」とさまざまです。この手紙を受け取るコロサイ教会のメンバー全員が「当事者」として読んでほしいということです。そして、今日読んでいる私たちも「部外者」ではありません。私たちは家でも社会でも、神を信じ、従う者として、振る舞うのです。内容にふれていくと身につまされることや教えられることが多々あります。妻は自分本位ではなく、主にある者として、主のそばから動かずに夫に接し、従うことが。夫は妻を愛することはもちろんのこと、辛く当たらぬようにします。愛したいのに、うまくいかず、かえって苦々しさを互いに覚える結末になることもよく経験する者にとっては耳が痛いことです。子どもたちは「すべてのことを両親に従え」とあります。両親の欠点や弱点、だらしなさを見て知っていても、尊敬を失ってはなりません。父は子どもを意気消沈させないよう養育します。過干渉、過剰反応が親子関係をこじらせる要因となるからです。子どものやる気を奪って致命傷を与えないように気を付けなければなりません。奴隷は、いい加減な仕え方、働き方は許されていません。どんなことも主に対してするように丁寧に、心からやり遂げるよう命ぜられています。主人たちは、自分が王ではなく、天に主を持つことを片時も忘れないよう釘を刺されています。これらは、自分が夫と妻、子どもと両親、奴隷と主人という肩書に当てはまらなければスルーしてよい命令ではありません。私たちはすべて「主にある者」として、同じようにこれらのみことばに聴き、従うのです。聖書を持つ者は、他人からの行動を求めるよりも、自分・私からの行動を起こしていきます。聖書を他人に差し向けるのではなく、自分に、そして一緒に読みたいと願います。
◆天からの報い
私たちが主からの命令を聴き従い、自分から行動することには、報いがともないます。それは、報いのためにするといういやしさや計算高さを助長するものではありません。ただ、クリスチャンがいただく報いの偉大な価値にふさわしく生きることの大切さを教えるためです。クリスチャンは、主から報いとして「御国」(24節)を受け継ぎます。それはしっかり働いた報酬としてではなく、神の子どもとされた者に対する約束の相続です。この相続権は取り消されることがありません。自らの罪を認め、悔い改め、主イエスの十字架の死によって罪が赦されたことを信じて神の子どもとされた者に、例外なく与えられるのが御国です。天にある朽ちない御国を相続することが決まっているので、地上でも天に父を持ち、主を恐れ、真心から神と人とに仕えることを決してやめないのです。相続の恵みに、感謝をもって応えましょう。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

励まし

主日礼拝 2020年9月20日

聖書の言葉

私の様子はすべて、愛する兄弟、忠実な奉仕者、主にある同労のしもべであるティキコが、あなたがたに知らせます。ティキコをあなたがたのもとに遣わすのは、 ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知って、心に励ましを受けるためです。
また彼は、あなたがたの仲間の一人で、忠実な、愛する兄弟オネシモと一緒に行きます。この二人がこちらの様子をすべて知らせます。

「コロサイ4章7-9節」

牧師の言葉

◆知らせによる励まし
現代は「情報過多(氾濫、飽和)」の時代です。ありとあらゆるお知らせが朝から夜まで情報にあふれています。自ら手を伸ばして得る情報もあれば、否応なしに目や耳に入ってくるものもあります。有益な情報は、知識や知恵となり役立ちますが、無益な情報は心や時間をむしばむことになりかねません。コロサイ教会の人たちはある情報を心待ちにしていました。それは「パウロの宣教情報」です。どんな情報番組よりも、首を長くして待っていました。正確には「パウロたちの宣教」です。各地で教会がどのように誕生し、人が救われ、恵みを受けているのか。あるいは困難や困窮している教会が必要としていることは何か。パウロたちの様子を知りたくて仕方がなかったのです。牢につながれてもなお、自分の境遇改善や正義のためではなく、みことばの門が開かれるように祈ってほしいとリクエストしてくるパウロたちに、神がどのような答えを与えて導いておられるのかを知りたかったのです。パウロが言う「私の様子はすべて」「私たちの様子」とは、コロサイ教会の人たちにとってどんなスポーツの結果より、株価より事件よりも大事な知らせでした。彼らにとって、神の働きである宣教の様子を知ることこそが心に励ましを受けることだからです。あなたを励ますのはどんな知らせでしょうか。何を知りたいと願い、何にやる気が起こされ、何が自分を鼓舞し、動かしているでしょうか?良い知らせは良い歩みへ、良い歩みは良い実を結ぶ生涯へと成長させてくれます。何の知らせを受け取るか、それは大事な選択です。
◆友による励まし
現代は「友だち」の時代です。それもオンラインやSNS、ネットゲームなどで簡単に友だちになり、友だちを増やすこと(相手に分からずに減らすことも!)ができます。しかし、ネットでの誹謗中傷や表面化しないいじめも人々を苦しめています。趣味や関心、意見の共有はできたとしても、心に励ましを受ける友だちであるかと言われれば、決してそうではないでしょう。パウロには「愛する兄弟」と呼べる存在がいました。ティキコはローマの獄中にいるパウロからこの手紙をもって派遣される人物です。おそらく、使徒の働き19章10節で「アジアに住む人々はみな・・・主のことばを聞いた」とされる2年間のうちにパウロから手ほどきを受け、回心したものと言われています。そしてすぐ次の20章4節ではパウロたちのチームに入り、同行しています。それからずっとパウロとともに宣教の道を歩んできました。そのティキコを、パウロは「忠実な奉仕者」「主にある同労のしもべ」と評しています。ティキコからすると、一番身近でクリスチャンの自分をよく知っているパウロから「彼は信頼できる最高の働き人です」という評価を受けています。パウロは取って付けた言葉やリップサービスをしない人です。本心から、ティキコを愛し、信頼できるしもべとして自信をもってコロサイ教会へ送り出しているのです。あなたはどのような言葉で表されているでしょうか?人の評価を気にせよということではなく、隣人に励ましを与える存在、振る舞いをしているか自問してみましょう。信仰の友ほど心の支え、励ましになる存在は他にいないからです。世にあるものではなく、聖書のことばに従った生活から、人々に力を与える存在を目指したいと願います。
◆回復による励まし
現代は「回復」が必要な時代です。大なり小なり人々は課題や悩みを抱えていて、のしかかってきます。日々の生活や思考を圧迫し、疲れや弱さを覚える人がほとんどです。そんなとき、必要なのは重荷から解き放たれる空間や逃亡先ではありません。必要なのは「回復」です。ティキコと一緒にコロサイへ派遣されるのは「オネシモ」でした。新約聖書をめくると後に出てくる「ピレモンへの手紙」に詳しいのですが、彼はピレモン主人の奴隷でしたが、おそらくそのお金を盗んでローマへと逃亡した奴隷のようです。しかし、その逃亡先のローマでパウロと出会い、回心したのでした。そして、二年ほど(使徒の働き28章参照)の間にメキメキと成長し今や「忠実な、愛する兄弟オネシモ」とこれまたパウロからお墨付きをいただいています。泥棒から忠実なクリスチャンへの変化はすごいことです。失った信頼を回復することほど困難な仕事はありません。しかし、彼は回復しました。キリストの力が彼を変えていったのです。同じくコロサイ教会も彼を泥棒奴隷としてではなく「兄弟」として迎えるチャレンジを受けています。人を人の評価ではなく、主からの評価で見て、回復の励ましがある教会を建て上げましょう。互いに励まし合うことによって。

SALT

主日礼拝 2020年9月13日

聖書の言葉

たゆみなく祈りなさい。感謝をもって祈りつつ、目を覚ましていなさい。同時に、私たちのためにも祈ってください。神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように祈ってください。この奥義のために、私は牢につながれています。また、私がこの奥義を、語るべき語り方で明らかに示すことができるように、祈ってください。
外部の人たちに対しては、機会を十分に活かし、知恵をもって行動しなさい。
あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。

「コロサイ4章2-6節」

牧師の言葉

◆祈ってほしい
コロサイの教会に手紙を書いたパウロは、教会に祈りの要請をしました。「なんでも祈ってくれる」としたら、あなたは何をお願いするでしょうか。実は、この時のパウロは3節を見ると分かるように「牢につながれて」いました。その宣教活動の中で幾度も牢に入れられたようです(第二コリント11:23参照)。そんなパウロの願いは「みことばの門が開かれ、キリストの奥義を語れるように」ということでした。自分の釈放や不当な逮捕の解明、快適さや平穏でもありません。それはなぜでしょうか?なぜ、パウロは自分の境遇改善や正義よりも宣教の前進を願ったのでしょうか。それは、パウロがこの世に送り出された使命を果たすためです。彼を送り出したのは主なるキリストであり、その使命はまことの神を知らない人々(特に異邦人)に聖書を教え伝え、救いに導くことでした。それを果たすためであれば、最大の関心事は自分の境遇ではなくなります。パウロは、鎖をかけられ牢にいたとしても、看守に伝道しバプテスマを授けたことがありました(使徒の働き16:19以降参照)。逮捕や護送のおかげで、総督や大祭司といった普段接点のない立場の者に信仰を表明することもありました。とにかく、どんな状態や事態に陥っても、そのことが問題ではなく、そこで神の言葉が自分のうちに燃えさかり、出会う人に分かち合っていくことこそ、彼がいつも祈り願っていることでした。健康、経済、将来、家族や子育て・・・様々頭をよぎり、心を占める私たちですが、今一度、「自分は神のために用いられようとしているだろうか?」と問いかけ、祈りに向かいたいと願います。また、自分からキリストのことば、恵みが広がることを祈ってもらえるように思い切りましょう。自分が何のためにクリスチャンとして世に送り出されているのか、その目的を全うするために。
◆行動してほしい
パウロが次に願ったのは「行動すること」です。この言葉は「歩みなさい」(1:10,2:6,3:7)と同じ語です。「キリストにあって歩みなさい」(2:7)と言われたことをもう一度丁寧に命じています。それは、いくら願っていても、祈ってもらっても、行動することがなければ実を結んでいかないからです。どれだけ素晴らしく完璧な計画があってもそれを実行しないなら、意味がありません。反対に、まだ完全ではないかもしれないけど今のベストをもって実行することは完璧な計画をただ持っていることより100倍まさります。そして、クリスチャンの行動先は「外部の人たちに対し…機会を十分に活かす」ことです。この「外部の人」とはまだ教会に集っていない方々であり、私たちの教会では「VIP(最重要人物)」と称して救いを祈っている人のことです。教会内ではもちろんのこと、今は教会の外にいる人たちに愛と知恵をもって行動するのです。そのために必要な一歩は「機会を活かす」ことです。先ほどの計画と同じでどんな素晴らしい賜物を持っていても「機会」を逃していては何にもなりません。ここの直訳は「機会・時間を買いなさい」です。あの人にはまだ早いかな…自分が言っても説得力がないかな…ちょっと忙しそうだしまたの機会でいいかな…こうしている間に機会を逸しているのです。そして、ズルズルと機会を先延ばしにし、とうとうクリスチャンらしさを表明するのをあきらめてしまうのであれば、ここのみことばと逆の行動をしていることになります。みことばを聞き、行動してこそ、神の力と祝福をいただくことができます。逃さないようにしましょう。
◆輝かせてほしい
では、どのように外部の人に機会を活かしてキリストの素晴らしさ・奥義・ことばを伝えることができるんでしょうか?それは「あなたがたのことばがいつも親切で、塩味の効いたものである」ことです。「塩」は言わずと知れた欠かせない調味料です。塩によって味は整うからです。全体の量に対しては驚くほど少量ですが、塩の有無は味の全体に影響を与えます。また、食材の腐敗を防ぐためにも塩は有効です。主イエスも、ご自分の弟子や神の子どもとされたクリスチャンたちを「地の塩」と呼びました(マタイ5:13)。地の腐敗を防ぎ、いつも塩味のきいたキリストの味付けをする塩として生きるように励ましておられるのです。そして、もし塩が塩気をなくしたら「外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」と警告もしています。クリスチャンであること、聖書を知っていること、神への信仰を大事にしていることを隠さないでいましょう。自分が輝き、認められるのではありません。主キリストを誇らしげにかかげ、世にあって輝かせていくのです。それが、私が、あなたがこの世に送り出されている目的だからです。

「からの~!!!」

主日礼拝 2020年9月6日

聖書の言葉

妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。
夫たちよ、妻を愛しなさい。 妻に対して辛く当たってはいけません。
子どもたちよ、すべてのことについて両親に従いなさい。それは主に喜ばれることなのです。
父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。 その子たちが意欲を失わないようにするためです。
奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、 主に対してするように、心から行いなさい。3:24 あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。 あなたがたは主キリストに仕えているのです。
主人たちよ。あなたがたは、自分たちも天に主人を持つ者だと知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。

「コロサイ3章18節-4章1節」(抜粋)

牧師の言葉

◆主からの命令
この個所は「~しなさい」と命令が続きます。これにムッとするか、うなづくかは信仰の試金石となります。神を信じる者が第一にすることは、神を神とすることです。神を選択肢の一つ、多くの神々のひとりとはせず、唯一の神=主として歩むのです。もし、私たちが聖書からどの言葉を守るかを自分で決めるなら、それは神を神としてはおらず、自分を主人とし、神をその下に置いているのと同じです。しかし、万物を造られた主に従うことは、何一つ無から有を生み出すことのできない私たちにとって、道理にかなったことです。それは自由を奪われた不幸の人生ではなく、幸いと祝福をいただく人生となります。それで、今朝の個所も「主にある者にふさわしく」(18節)、「主に喜ばれること」(20節)、「主を恐れつつ」(22節)、「主に対してするように」(23節)、「天に主人を持つ」(4章1節)と「主」を意識して過ごすことが鍵となっているのが分かります。私たちは、主の前に生きる者です。反対に言うならば、人を喜ばせる生き方からの解放です。それは、途中あるように「人のご機嫌取りのような、うわべだけの」行動になりがちです。確かに人からの賞賛や褒め言葉は、自分を支えてくれるものかもしれませんが、それだけを求めて生きるならば、常に人の機嫌を取り、取り繕っていなければなりません。これは大変しんどい生き方です。また、人の目はごまかせても、自分だけが知っている自らの闇とのギャップに苦しみ、自分に嫌気がさすことだってあります。最も良いのは主の前でも、人の前でも、自分だけでも変わらないでいる生き方です。そして、それは聖書のことばに従う者にのみ与えられる祝福です。主の前に生きるなら、変節の必要はありません。
◆私からの行動
ここで、呼びかけられているのは、「妻、夫、子ども、父、奴隷、主人」とさまざまです。この手紙を受け取るコロサイ教会のメンバー全員が「当事者」として読んでほしいということです。そして、今日読んでいる私たちも「部外者」ではありません。私たちは家でも社会でも、神を信じ、従う者として、振る舞うのです。内容にふれていくと身につまされることや教えられることが多々あります。妻は自分本位ではなく、主にある者として、主のそばから動かずに夫に接し、従うことが。夫は妻を愛することはもちろんのこと、辛く当たらぬようにします。愛したいのに、うまくいかず、かえって苦々しさを互いに覚える結末になることもよく経験する者にとっては耳が痛いことです。子どもたちは「すべてのことを両親に従え」とあります。両親の欠点や弱点、だらしなさを見て知っていても、尊敬を失ってはなりません。父は子どもを意気消沈させないよう養育します。過干渉、過剰反応が親子関係をこじらせる要因となるからです。子どものやる気を奪って致命傷を与えないように気を付けなければなりません。奴隷は、いい加減な仕え方、働き方は許されていません。どんなことも主に対してするように丁寧に、心からやり遂げるよう命ぜられています。主人たちは、自分が王ではなく、天に主を持つことを片時も忘れないよう釘を刺されています。これらは、自分が夫と妻、子どもと両親、奴隷と主人という肩書に当てはまらなければスルーしてよい命令ではありません。私たちはすべて「主にある者」として、同じようにこれらのみことばに聴き、従うのです。聖書を持つ者は、他人からの行動を求めるよりも、自分・私からの行動を起こしていきます。聖書を他人に差し向けるのではなく、自分に、そして一緒に読みたいと願います。
◆天からの報い
私たちが主からの命令を聴き従い、自分から行動することには、報いがともないます。それは、報いのためにするといういやしさや計算高さを助長するものではありません。ただ、クリスチャンがいただく報いの偉大な価値にふさわしく生きることの大切さを教えるためです。クリスチャンは、主から報いとして「御国」(24節)を受け継ぎます。それはしっかり働いた報酬としてではなく、神の子どもとされた者に対する約束の相続です。この相続権は取り消されることがありません。自らの罪を認め、悔い改め、主イエスの十字架の死によって罪が赦されたことを信じて神の子どもとされた者に、例外なく与えられるのが御国です。天にある朽ちない御国を相続することが決まっているので、地上でも天に父を持ち、主を恐れ、真心から神と人とに仕えることを決してやめないのです。相続の恵みに、感謝をもって応えましょう。

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