日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「破滅と希望」

主日礼拝 2021年2月28日

翌朝ヨシュアは早く起き、イスラエルを部族ごとに進み出させた。ユダ部族がくじで取り分けられた。ユダの諸氏族を進み出させると、ゼラフ人の氏族がくじで取り分けられた。ゼラフ人の氏族を男一人ひとり進み出させると、ザブディがくじで取り分けられた。ザブディの家族を男一人ひとり進み出させると、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子カルミの子のアカンが、くじで取り分けられた。
ヨシュアはアカンに言った。「わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。おまえが何をしたのか、私に告げなさい。私に隠してはいけない。」
アカンはヨシュアに答えた。「確かに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをしました。私は分捕り物の中に、シンアルの美しい外套一着と、銀二百シェケルと、重さ五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地面の下に隠してあり、銀もそこにあります。」

「ヨシュア記7章16-21節」

牧師の言葉

◆主との関係 ~破滅~
ヨシュア記7章は「イスラエルの子らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切った」という衝撃の書き出しをしています。
エリコの町を征服した際、分捕り品を自分のものにせず、すべては主のものであり、主にささげるために「聖絶の物に手を出すな」(6:18)と命じられていました。
それでも、この章ではアカンが服や銀、金などを自分の天幕の地中に隠しています。
それを「アカン(=個人)は」とせずに、「イスラエルの子らは裏切った」と教えます。
また中盤の11節では「イスラエルは罪ある者となった」「わたしの契約を破った」と付け加えます。
ここから学ぶのは、神と私たち人間との関係は、人格的・契約的であるということです。
人格的とは、互いの信頼や言動によって強く結び合わされ、交わりを持つということです。
見えない、聞こえない、コミュニケーションが取れない相手と人格的な交流をするのは不可能です。
そういう関係は「私とそれ」の場合です。相手がモノであれば、相互の交流はなく一方的なものです。
しかし、「私と人」であれば、互いにコミュニケーションが取れ、知り合うことができます。
ただし、誰かを知るためには、誕生日や出身地、身長や経歴を知るだけでは不十分です。
それらは単なる「情報」だからです。
相手を知るには、その人に心を開いて考えや気持ちを話してもらう必要があります。
また自分もさばかずに良い聞き手とならなければなりまえん。
さらに、自分の心を開いて相手に語り、相手にも聞いてもらうことが不可欠です。
これが【人格的交流】です。

さらに「私と神」との関係について考えてみましょう。
神は人間ではありません。全知全能で至高のお方です。
この方には影や偽りもありません。
神を神として接することによってのみ、私と神という関係は正しく構築されていきます。
聖書は神がその心を開いて語ってくださる啓示の書です。
人間が作り出したものではありません。
であれば、私たちもこれを疑わずに聴き、また自分からも真実な語りかけ、交流をしていかなければなりません。
そうしていくところに、神との人格的な関係は築かれていきます。

ヨシュア7章ではこの主への真実な交わりが欠けていることを教えています。
決して神をモノ扱いせず、また人間のように隠せることや話さなくてもよいことがあると高をくくらずにいたしましょう。
神との関係が破綻しているのであれば、その先にあるのは破滅でしかないからです。

◆主の栄光 ~希望~
神がすべてを見ておられ、知っておられ、人と関わるお方であることは、アカンが取り分けられる場面でもよく分かります。
くじという方法を使っておられますが、決して偶然ではありません。
主の目がアカンを見つめておられることを表しています。
民の前に出たアカンはようやくすべてを告白しました。
その際、ヨシュアは「主に栄光を帰し、主に告白をしなさい」(19節)と言っています。
この「告白」という言葉は他の個所では「感謝する」「ほめたたえる」と訳されています。
主に栄光を帰すというのは、人間である自分が誇らないということや神をほめたたえ賛美するということだけではなく、ここにあるように「罪を告白する」ということを通してもなされるのです。
それは、ここでのアカンのように自分のしたこと、罪の思いや行為を隠したままでいることが、神の前には不誠実であるということを教えているからです。
神との人格的な交流、契約的な誠実さを果たそうとせず、悪いことはバレないように隠しつつ、良い面だけを認めてもらおうとする生き方だからです。

主の栄光は、私たちが自分の罪を認め、言い表し、悔い改め、赦しをいただくことによって大いに現わされるのです。
このことが分からないと、私たちは神の前での「いい子でいよう」とします。
それは疲れますし、長持ちしません。結局は自分を偽りながら、クリスチャンのふりをして過ごすことになります。
そんな生き方を神さまは望んでおられませんし、不幸せなことです。

このヨシュア記7章でアカンも子どもたちも財産もすべて、石と火で打ち焼かれました。
罪は徹底的に処理されなければならない、ということです。
アカンは多くの家畜を所有していたようなので、決して分捕り品が必要なわけではありませんでした。
主の命令・契約に従わず、自分の見たところ、欲しがるままに行動したのです。
それがいかなる結末をもたらすのか、主は「アコルの谷」と名付けさせ、忘れないようになさいます。
罪の悔い改めの先にのみ、真の救いがあります。
私たちが神の前に罪を告白し、隠しだてなくいることは、主を信頼しているからこそ可能です。
主を信頼しないところに主の栄光は現れません。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

破滅と希望

主日礼拝 2021年2月28日

聖書の言葉

翌朝ヨシュアは早く起き、イスラエルを部族ごとに進み出させた。ユダ部族がくじで取り分けられた。ユダの諸氏族を進み出させると、ゼラフ人の氏族がくじで取り分けられた。ゼラフ人の氏族を男一人ひとり進み出させると、ザブディがくじで取り分けられた。ザブディの家族を男一人ひとり進み出させると、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子カルミの子のアカンが、くじで取り分けられた。
ヨシュアはアカンに言った。「わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。おまえが何をしたのか、私に告げなさい。私に隠してはいけない。」
アカンはヨシュアに答えた。「確かに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをしました。私は分捕り物の中に、シンアルの美しい外套一着と、銀二百シェケルと、重さ五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地面の下に隠してあり、銀もそこにあります。」

「ヨシュア記7章16-21節」

牧師の言葉

◆主との関係 ~破滅~
ヨシュア記7章は「イスラエルの子らは聖絶の物のことで主の信頼を裏切った」という衝撃の書き出しをしています。
エリコの町を征服した際、分捕り品を自分のものにせず、すべては主のものであり、主にささげるために「聖絶の物に手を出すな」(6:18)と命じられていました。
それでも、この章ではアカンが服や銀、金などを自分の天幕の地中に隠しています。
それを「アカン(=個人)は」とせずに、「イスラエルの子らは裏切った」と教えます。
また中盤の11節では「イスラエルは罪ある者となった」「わたしの契約を破った」と付け加えます。
ここから学ぶのは、神と私たち人間との関係は、人格的・契約的であるということです。
人格的とは、互いの信頼や言動によって強く結び合わされ、交わりを持つということです。
見えない、聞こえない、コミュニケーションが取れない相手と人格的な交流をするのは不可能です。
そういう関係は「私とそれ」の場合です。相手がモノであれば、相互の交流はなく一方的なものです。
しかし、「私と人」であれば、互いにコミュニケーションが取れ、知り合うことができます。
ただし、誰かを知るためには、誕生日や出身地、身長や経歴を知るだけでは不十分です。
それらは単なる「情報」だからです。
相手を知るには、その人に心を開いて考えや気持ちを話してもらう必要があります。
また自分もさばかずに良い聞き手とならなければなりまえん。
さらに、自分の心を開いて相手に語り、相手にも聞いてもらうことが不可欠です。
これが【人格的交流】です。

さらに「私と神」との関係について考えてみましょう。
神は人間ではありません。全知全能で至高のお方です。
この方には影や偽りもありません。
神を神として接することによってのみ、私と神という関係は正しく構築されていきます。
聖書は神がその心を開いて語ってくださる啓示の書です。
人間が作り出したものではありません。
であれば、私たちもこれを疑わずに聴き、また自分からも真実な語りかけ、交流をしていかなければなりません。
そうしていくところに、神との人格的な関係は築かれていきます。

ヨシュア7章ではこの主への真実な交わりが欠けていることを教えています。
決して神をモノ扱いせず、また人間のように隠せることや話さなくてもよいことがあると高をくくらずにいたしましょう。
神との関係が破綻しているのであれば、その先にあるのは破滅でしかないからです。

◆主の栄光 ~希望~
神がすべてを見ておられ、知っておられ、人と関わるお方であることは、アカンが取り分けられる場面でもよく分かります。
くじという方法を使っておられますが、決して偶然ではありません。
主の目がアカンを見つめておられることを表しています。
民の前に出たアカンはようやくすべてを告白しました。
その際、ヨシュアは「主に栄光を帰し、主に告白をしなさい」(19節)と言っています。
この「告白」という言葉は他の個所では「感謝する」「ほめたたえる」と訳されています。
主に栄光を帰すというのは、人間である自分が誇らないということや神をほめたたえ賛美するということだけではなく、ここにあるように「罪を告白する」ということを通してもなされるのです。
それは、ここでのアカンのように自分のしたこと、罪の思いや行為を隠したままでいることが、神の前には不誠実であるということを教えているからです。
神との人格的な交流、契約的な誠実さを果たそうとせず、悪いことはバレないように隠しつつ、良い面だけを認めてもらおうとする生き方だからです。

主の栄光は、私たちが自分の罪を認め、言い表し、悔い改め、赦しをいただくことによって大いに現わされるのです。
このことが分からないと、私たちは神の前での「いい子でいよう」とします。
それは疲れますし、長持ちしません。結局は自分を偽りながら、クリスチャンのふりをして過ごすことになります。
そんな生き方を神さまは望んでおられませんし、不幸せなことです。

このヨシュア記7章でアカンも子どもたちも財産もすべて、石と火で打ち焼かれました。
罪は徹底的に処理されなければならない、ということです。
アカンは多くの家畜を所有していたようなので、決して分捕り品が必要なわけではありませんでした。
主の命令・契約に従わず、自分の見たところ、欲しがるままに行動したのです。
それがいかなる結末をもたらすのか、主は「アコルの谷」と名付けさせ、忘れないようになさいます。
罪の悔い改めの先にのみ、真の救いがあります。
私たちが神の前に罪を告白し、隠しだてなくいることは、主を信頼しているからこそ可能です。
主を信頼しないところに主の栄光は現れません。

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