日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「解放」

主日礼拝 2021年11月28日

律法の下にいたいと思う人たち、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。
アブラハムには二人の息子がいて、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由の女の子は約束によって生まれました。
ここには比喩的な意味があります。この女たちは二つの契約を表しています。一方はシナイ山から出ていて、奴隷となる子を産みます。それはハガルのことです。このハガルは、アラビアにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、彼女の子らとともに奴隷となっているからです。
しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です。

こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。
キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

「ガラテヤ4章21節-5章-1節」(抜粋)

牧師の言葉

◆聖書の道筋
ガラテヤ書の詰まっている「福音」は聖書全体の流れでもあります。そのことを教えるために、パウロは旧約聖書を引用してガラテヤの教会に説き明かしています。アブラハムは主を信じる信仰によって義と認められたので(3:6)、信仰によって生きる人々がアブラハムの祝福と約束をともに相続するというものです。それから四百三十年たって与えられたモーセの律法は、人間が行いによっては自分を救えないことを教えるための養育係でした(4:24)。この道筋を教えるために、今朝はアブラハムから生まれた二人の子を例に挙げています。一人は女奴隷ハガルの子イシュマエル(創世記16章)。もう一人は妻サラの子イサクです(21章)。年老いていたアブラハムとサライは自分たちから子どもが生まれると聞いた時、笑ってしまうほどに信じていませんでした(17章)。しかし、神さまは幾度となく同じ約束を告げられます(15:4,17:16,18:10等)。それでも彼らは何とかしようと考え、女奴隷ハガルを通して得たのがイシュマエルです。それは神の約束を信じきれず人間的な考えに基づいた行いによる子でした。それを今朝の箇所では「肉によって生まれた」「奴隷となる子」「相続すべきではない」と言われています。反対にイサクについては「約束によって生まれた」「御霊によって生まれた」「自由の女の子ども」とあります。律法によって生きる者は、奴隷であり、人間的であり、自分に拠り頼むので、決して神の約束を相続できません。ただ、神が備えられた道=約束の子イサク=信仰によって生きる者だけが神の子どもとされ、約束の相続人となるのです。
◆分かれ道
今、私たちの目の前には、聖書によって「律法か信仰か」「行いか約束か」という二つの道が示されています。どちらを選び取るのかは、すでにクリスチャンとして生きている方にも、これから信じる方にも共通した問いかけです。聖書は、まだ神さまを知らない者に対して書かれているのと同時に、すでに信じた者への教えの書でもあります。入信するのにも大きな決断が迫られることでしょう。これまでの価値観、受けてきた教育との整合性、周囲との摩擦、不安感などいっさいを主にお任せして生きていく一大決心です。しかし、クリスチャンライフはそれで終わりでも完成でもありません。その後エスカレーター式に自動に天国へ進むのではなく、自分の罪性や矛盾との戦い、周囲への証し、善悪の判別をみことばから考え、応答する歩みを積み重ねていきます。それも入信と同様に大きな決断、信仰による決心が求められる選びの連続です。私たちは教会の礼拝や交わりや学びを通して、神の道を選び取っていく信仰共同体です。あなたが行くべき道はここにある、とはっきり告げられることは何よりの励ましです。主につき、主の道を選びましょう。「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」ということばを、あなたの耳は聞く」(イザヤ30:21)
◆自由に生きる
神に従うことを自分の思い通りにできない、監視され、窮屈や圧迫を感じるならそれは「束縛」です。しかし、パウロはまったく逆のことを教えています。これこそ「自由」(5:1)の道なのだと。クリスチャンが神のことば・教えに聞き、主の道を歩み続けることを縛りではなく「自由を得させるための解放」と教えています。私たちは自分が決断するとき、自分に主導権があれば自由だと感じますし、ねばならないといった重圧ややらされているといった強制があると不自由さ・窮屈・束縛だと感じます。キリストは私たちを「自由の子」と呼び、「自由を得させるために解放」してくださったお方です。キリストは、私たちが自分で決断し、責任を果たしていく喜び、生きがいを感じることを願っておられます。ましてや、私たちを奴隷のように渋々働かせ、行いが足らないと罰するような主人ではありません。私たちには自由があります。信仰生活は強制ではありません。礼拝も奉仕も聖書を読むことも祈ることも伝道も、キリストのくださる喜びを感じて決断することです。させられている、やらされているから脱却し、自由の子として生み出してくださった救いの恵みを浴びて、光の道を行こうではありませんか。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

解放

主日礼拝 2021年11月28日

聖書の言葉

律法の下にいたいと思う人たち、私に答えてください。あなたがたは律法の言うことを聞かないのですか。
アブラハムには二人の息子がいて、一人は女奴隷から、一人は自由の女から生まれた、と書かれています。女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由の女の子は約束によって生まれました。
ここには比喩的な意味があります。この女たちは二つの契約を表しています。一方はシナイ山から出ていて、奴隷となる子を産みます。それはハガルのことです。このハガルは、アラビアにあるシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、彼女の子らとともに奴隷となっているからです。
しかし、上にあるエルサレムは自由の女であり、私たちの母です。

こういうわけで、兄弟たち、私たちは女奴隷の子どもではなく、自由の女の子どもです。
キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。

「ガラテヤ4章21節-5章-1節」(抜粋)

牧師の言葉

◆聖書の道筋
ガラテヤ書の詰まっている「福音」は聖書全体の流れでもあります。そのことを教えるために、パウロは旧約聖書を引用してガラテヤの教会に説き明かしています。アブラハムは主を信じる信仰によって義と認められたので(3:6)、信仰によって生きる人々がアブラハムの祝福と約束をともに相続するというものです。それから四百三十年たって与えられたモーセの律法は、人間が行いによっては自分を救えないことを教えるための養育係でした(4:24)。この道筋を教えるために、今朝はアブラハムから生まれた二人の子を例に挙げています。一人は女奴隷ハガルの子イシュマエル(創世記16章)。もう一人は妻サラの子イサクです(21章)。年老いていたアブラハムとサライは自分たちから子どもが生まれると聞いた時、笑ってしまうほどに信じていませんでした(17章)。しかし、神さまは幾度となく同じ約束を告げられます(15:4,17:16,18:10等)。それでも彼らは何とかしようと考え、女奴隷ハガルを通して得たのがイシュマエルです。それは神の約束を信じきれず人間的な考えに基づいた行いによる子でした。それを今朝の箇所では「肉によって生まれた」「奴隷となる子」「相続すべきではない」と言われています。反対にイサクについては「約束によって生まれた」「御霊によって生まれた」「自由の女の子ども」とあります。律法によって生きる者は、奴隷であり、人間的であり、自分に拠り頼むので、決して神の約束を相続できません。ただ、神が備えられた道=約束の子イサク=信仰によって生きる者だけが神の子どもとされ、約束の相続人となるのです。
◆分かれ道
今、私たちの目の前には、聖書によって「律法か信仰か」「行いか約束か」という二つの道が示されています。どちらを選び取るのかは、すでにクリスチャンとして生きている方にも、これから信じる方にも共通した問いかけです。聖書は、まだ神さまを知らない者に対して書かれているのと同時に、すでに信じた者への教えの書でもあります。入信するのにも大きな決断が迫られることでしょう。これまでの価値観、受けてきた教育との整合性、周囲との摩擦、不安感などいっさいを主にお任せして生きていく一大決心です。しかし、クリスチャンライフはそれで終わりでも完成でもありません。その後エスカレーター式に自動に天国へ進むのではなく、自分の罪性や矛盾との戦い、周囲への証し、善悪の判別をみことばから考え、応答する歩みを積み重ねていきます。それも入信と同様に大きな決断、信仰による決心が求められる選びの連続です。私たちは教会の礼拝や交わりや学びを通して、神の道を選び取っていく信仰共同体です。あなたが行くべき道はここにある、とはっきり告げられることは何よりの励ましです。主につき、主の道を選びましょう。「あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」ということばを、あなたの耳は聞く」(イザヤ30:21)
◆自由に生きる
神に従うことを自分の思い通りにできない、監視され、窮屈や圧迫を感じるならそれは「束縛」です。しかし、パウロはまったく逆のことを教えています。これこそ「自由」(5:1)の道なのだと。クリスチャンが神のことば・教えに聞き、主の道を歩み続けることを縛りではなく「自由を得させるための解放」と教えています。私たちは自分が決断するとき、自分に主導権があれば自由だと感じますし、ねばならないといった重圧ややらされているといった強制があると不自由さ・窮屈・束縛だと感じます。キリストは私たちを「自由の子」と呼び、「自由を得させるために解放」してくださったお方です。キリストは、私たちが自分で決断し、責任を果たしていく喜び、生きがいを感じることを願っておられます。ましてや、私たちを奴隷のように渋々働かせ、行いが足らないと罰するような主人ではありません。私たちには自由があります。信仰生活は強制ではありません。礼拝も奉仕も聖書を読むことも祈ることも伝道も、キリストのくださる喜びを感じて決断することです。させられている、やらされているから脱却し、自由の子として生み出してくださった救いの恵みを浴びて、光の道を行こうではありませんか。

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