日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
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心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「アクティブ」

主日礼拝 2021年4月11日

あなたがたは、自分たちの神、主が自分たちのために、これらすべての国々に行ったことをすべて見てきた。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主である。
あなたがたの神、主ご自身が、彼らをあなたがたの前から追い払い、あなたがたの目の前から追い出される。あなたがたの神、主があなたがたに告げたように彼らの地を占領しなさい。
また、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れず、これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。
ただ今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがりなさい。
あなたがたは一人で千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。
だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。

「ヨシュア記23章」(抜粋)

牧師の言葉

◆仕上げへ ~全体図を見ながら~
盛岡みなみ教会での礼拝では、ヨシュア記を9章まで章ごとに学んできましたが、その後は土地の割り当ての記事が続きます。土地の分割が詳しく記されている理由は、カナンの地が確かにイスラエルの各部族に間違いなく分け与えられたこと=主がその約束を果たしてくださったという真実を教え、読者を励ますためです。(ただ、礼拝では一人ひとりの養いになるように語りたいと思いますので、お配りする「ヨシュア記の全体図」を見ながら、ここまでをおさらいしてください。)
「強くあれ。雄々しくあれ」と主の励ましで始まったヨシュア記は、常に主が導いて勝利を得させてくださいました。現実にはヨルダンの激流や大きな敵、城壁が立ちはだかっていても、主は「この地をあなたに与えた」(6:2,8:1など)と約束を示してくださり、それを信じて踏み出すとき、主のことば通りの勝利を収めてきました。反対に、主の信頼を裏切り、その契約を破った際には、敗北を喫し、その都度罪が示され、徹底的に悔い改めることで立ち直ってきた記録でもあります。ヨシュア記が始まるまで、イスラエルの民は実に40年の間、荒野で放浪していました。その生活習慣、環境を脱するのは相当なことです。しかし、主の祝福をいただくためには、主が「行け」(1:2)と言われる地に向かって踏み出すのです。その時、信頼すべきは主ご自身とその約束です。「この方に信頼する者は失望させられることがない」(ローマ9:33等)
◆隠れないクリスチャンに
ヨシュア記23-24章は「年を重ねて老人になった」(13:1, 23:1,2)ヨシュアによる最期の言葉です。ヨシュアはその生涯をかけてイスラエルの民を約束の地へと率い、土地を手に入れることに尽力してきました。しかし、その「完成」を見るまでには至りません。「彼らの地を占領」(5節)するというミッションが残っているからです。約束の地へ入るだけでは終わりません。神の民は、その土地でなおも主を礼拝し、主に従い、敵に打ち勝つ生き方を続けなければならないのです。入ったはいいが、異教徒に染まり、そこを神の国にし損なえば、それこそ神の御名は辱められ、主の栄光を現すことはできません。これは、私たちがクリスチャンとなることで終わらないのと似ています。あなたがもしクリスチャンとなったならば、実はそこからが本当の始まりです。クリスチャンとしてどう生きるのか。神の民が「大きくて強い異邦の民」(9節)の中で異教の神々と「交わらず、口にせず、誓わず、仕えず、拝まないように」(8節)して神の聖さを保たなければなりません。その地を「占領する」とは、まことの神の影響力をもってその地を支配することです。隠れクリスチャンのようにして生きることでは、それは不可能です。異教の神々の影響力、誘惑、魅力は強く大きいのは確かです。これは日本文化の中で、クリスチャンとして生きていく私たちにも共通する境遇です。ぜひ、神の民イスラエルが聞いて従ってのと同じみことばを、私たちも受け取り、しぶといクリスチャンとして胸を張りましょう。
◆自分自身から
ヨシュアは、民たちに「~してはならない」(8節)だけではなく、「~しなさい」という命令も多く投げかけてくれています。「律法の書を断固として守り行え」(6節)、「主にすがりなさい」(8節)、「心を尽くし、いのちを尽くして、知りなさい」(14節)など。ここでのハイライトは「だからあなたがたは自分自身に十分気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい」(11節)です。ここの「自分自身」は「いのちを(尽くして)」(14節)と同じ語です。主があなたを愛されたように、あなたも主を愛する。周りに合わせず・流されず、試練に主を見失わず、頑なな敵に勝てないとあきらめず、まず「自分自身」が主に没頭すること。あなたが全身全霊で主にすがるなら、主は必ずよくしてくださいます。今一度、自分が罪の中から救い出され、世の中から掘り出され、主のものとされた意味を思い返してみましょう。くすぶっていてはもったいないのです。うなだれていては申し訳ないのです。うつむいていては始まらないのです。あなたの罪を赦すためひとり子を犠牲にするほどの愛を注ぎ、あなたによみがえりの新しいいのちを与え、新しい地を占領するように励ましてくださるお方です。「あなたがたのために戦ったのは神、主である」(3節)、「約束されたすべての良いことは一つもたがわなかった」(14節)のですから。

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聖書の言葉

「永遠のいのち」

主日礼拝 2021年4月4日

25 イエスは彼女に言われた。
  「わたしはよみがえりです。いのちです。
  わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、
  永遠に決して死ぬことがありません。
  あなたは、このことを信じますか。」

「ヨハネの福音書11章25-26節」

牧師の言葉

◆ 全体地図と現在地
「人生をより良く生きたい」「人生の目的が何なのか知りたい」「死んだらどうなるのか不安」これらは人生全体にかかる大きな問いです。そして、人生は日々の積み重ねですから、私たちが「今日を生きる」ためにも、こうした問いへの答えは持っていないとなりません。今朝は、お配りした「キリスト教の世界観チャート」を見ながら始めましょう。私たちが人生の航路を決定するためには、それに関する情報、また信仰(信念、信条、確信)が必要になります。たとえば、多くの日本人が「私の家は仏教です」と言ったときに、その中身を知らないことも多々あります。そのため、自分が仏教徒であることとは別になります。この(お配りした)チャートは、仏教、神道(神社)、科学、キリスト教の全体図を捉えることができようになっています。宗教は、礼拝の行為や対象、教典があることで定義されます。ですので、「神社は宗教じゃない」「神道は日本の伝統文化で、参拝しても宗教ではない」といった主張に惑わされないでください。これは学校行事や学校教育にも通ずることです。子どもの授業や遠足、修学旅行などで神社仏閣や祈りに関わることが行われていたら、知恵深く見抜き、学校長や担任にひと言進言することが大切です。このチャートで全体図を理解し、自分がどこに立っているのか、また何に従って行き、どこへ向かっているのかを把握しておきましょう。縦がそれぞれの教義・道筋になりますので、チャートを横に行き来しすることはできません。このように眺めると、キリスト教が示す全体図の素晴らしさに気づくのではないでしょうか。ぜひ、ご自分がどこから来て、今どこに立ち、ここからどこへ向かっていくのか知っておきましょう。
◆死と永遠のいのち
この聖書個所は、昨年築いた教会墓地の石にも刻まれているみことばです。主イエスの生涯でもっとも大切なことは「十字架と復活」です。聖書によると、死は罪によって世界に入り、すべての人は死ぬようになりました(ローマ5:12)。進化論は初めから死が前提となっていて、死の連続でこの世界が成り立ったと主張するものです。これは、神さまがこの世界のすべてを造られ「非常に良かった」(創世記1:31)とする聖書とは真っ向から反対する考えです。私たち人間の理性は自分にとって都合の悪いことは排除しますから、なかなかこの「罪」を認めることができません。しかし、重要なことは私たちがどう感じるか、どうありたいかよりも、真理は何かということです。それゆえ、聖書の教えていることに敏感でありたいと願います。その聖書が、私たちはみな、罪ゆえに死ぬと教えています。さらに、肉体の死だけでなく、第二の死(黙示録20:14)であるたましいの滅びを告げています。罪の問題が解決しなければ、私たち人類には何の希望もありません。ただ死に、滅ぶだけだからです。しかし、同じ聖書が救い主イエス・キリストを信じる者は「永遠に決して死ぬことがない」(ヨハネ11:26)と主張しているのです。主イエスの「十字架と復活」は身体的な死と復活だけではなく、この罪の問題の解決と勝利のしるしです。すなわち、罪なき主イエスの死はもはや私たちを罰するための死は解決済みであること、また、主イエスの復活は、たましいの死に対する勝利であり、永遠のいのちの保証です。聖書が書かれた目的は「信じて、イエスの名によって永遠のいのちを得るため」(ヨハネ20:31)です。地上での死も、永遠に関する不安もキリストが解決済みなのです。
◆信じる者に
もう一度ここの聖書個所の主張を整理しましょう。主イエスご自身が「わたしはよみがえりです。いのちです」と言っておられます。罪から来る死に勝利し、永遠のいのちを持っておられるという宣言です。そして、カギとなっているのは三度も使われている「信じる」という語です。「わたしを信じる者は死んでも生きる」=地上の死で終わりではない。「わたしを信じる者は永遠に決して死ぬことがない」=たましいの死の恐れがない。これはあなたの人生に革命を起こすものです。なぜなら、もしあなたがキリストを信じるならば、あなたの人生は地上での喜び、豊かさ、楽しみ、誉れで測るものではなくなるからです。永遠のいのちの視点によって生かされるようになると、自分の願いや他者よりもといった比較や嫉妬、焦りから解放され、神に忠実であること、主イエスを愛すること、隣人に仕えることに価値を見出すからです。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

アクティブ

主日礼拝 2021年4月11日

聖書の言葉

あなたがたは、自分たちの神、主が自分たちのために、これらすべての国々に行ったことをすべて見てきた。あなたがたのために戦ったのは、あなたがたの神、主である。
あなたがたの神、主ご自身が、彼らをあなたがたの前から追い払い、あなたがたの目の前から追い出される。あなたがたの神、主があなたがたに告げたように彼らの地を占領しなさい。
また、モーセの律法の書に記されていることを、ことごとく断固として守り行いなさい。そこから右にも左にも外れず、これらの国々、あなたがたの中に残っている、これらの異邦の民と交わらないようにするためである。彼らの神々の名を口にしてはならない。それらによって誓ってはならない。それらに仕えてはならない。それらを拝んではならない。
ただ今日までしてきたように、あなたがたの神、主にすがりなさい。
あなたがたは一人で千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。
だからあなたがたは自分自身に十分に気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい。

「ヨシュア記23章」(抜粋)

牧師の言葉

◆仕上げへ ~全体図を見ながら~
盛岡みなみ教会での礼拝では、ヨシュア記を9章まで章ごとに学んできましたが、その後は土地の割り当ての記事が続きます。土地の分割が詳しく記されている理由は、カナンの地が確かにイスラエルの各部族に間違いなく分け与えられたこと=主がその約束を果たしてくださったという真実を教え、読者を励ますためです。(ただ、礼拝では一人ひとりの養いになるように語りたいと思いますので、お配りする「ヨシュア記の全体図」を見ながら、ここまでをおさらいしてください。)
「強くあれ。雄々しくあれ」と主の励ましで始まったヨシュア記は、常に主が導いて勝利を得させてくださいました。現実にはヨルダンの激流や大きな敵、城壁が立ちはだかっていても、主は「この地をあなたに与えた」(6:2,8:1など)と約束を示してくださり、それを信じて踏み出すとき、主のことば通りの勝利を収めてきました。反対に、主の信頼を裏切り、その契約を破った際には、敗北を喫し、その都度罪が示され、徹底的に悔い改めることで立ち直ってきた記録でもあります。ヨシュア記が始まるまで、イスラエルの民は実に40年の間、荒野で放浪していました。その生活習慣、環境を脱するのは相当なことです。しかし、主の祝福をいただくためには、主が「行け」(1:2)と言われる地に向かって踏み出すのです。その時、信頼すべきは主ご自身とその約束です。「この方に信頼する者は失望させられることがない」(ローマ9:33等)
◆隠れないクリスチャンに
ヨシュア記23-24章は「年を重ねて老人になった」(13:1, 23:1,2)ヨシュアによる最期の言葉です。ヨシュアはその生涯をかけてイスラエルの民を約束の地へと率い、土地を手に入れることに尽力してきました。しかし、その「完成」を見るまでには至りません。「彼らの地を占領」(5節)するというミッションが残っているからです。約束の地へ入るだけでは終わりません。神の民は、その土地でなおも主を礼拝し、主に従い、敵に打ち勝つ生き方を続けなければならないのです。入ったはいいが、異教徒に染まり、そこを神の国にし損なえば、それこそ神の御名は辱められ、主の栄光を現すことはできません。これは、私たちがクリスチャンとなることで終わらないのと似ています。あなたがもしクリスチャンとなったならば、実はそこからが本当の始まりです。クリスチャンとしてどう生きるのか。神の民が「大きくて強い異邦の民」(9節)の中で異教の神々と「交わらず、口にせず、誓わず、仕えず、拝まないように」(8節)して神の聖さを保たなければなりません。その地を「占領する」とは、まことの神の影響力をもってその地を支配することです。隠れクリスチャンのようにして生きることでは、それは不可能です。異教の神々の影響力、誘惑、魅力は強く大きいのは確かです。これは日本文化の中で、クリスチャンとして生きていく私たちにも共通する境遇です。ぜひ、神の民イスラエルが聞いて従ってのと同じみことばを、私たちも受け取り、しぶといクリスチャンとして胸を張りましょう。
◆自分自身から
ヨシュアは、民たちに「~してはならない」(8節)だけではなく、「~しなさい」という命令も多く投げかけてくれています。「律法の書を断固として守り行え」(6節)、「主にすがりなさい」(8節)、「心を尽くし、いのちを尽くして、知りなさい」(14節)など。ここでのハイライトは「だからあなたがたは自分自身に十分気をつけて、あなたがたの神、主を愛しなさい」(11節)です。ここの「自分自身」は「いのちを(尽くして)」(14節)と同じ語です。主があなたを愛されたように、あなたも主を愛する。周りに合わせず・流されず、試練に主を見失わず、頑なな敵に勝てないとあきらめず、まず「自分自身」が主に没頭すること。あなたが全身全霊で主にすがるなら、主は必ずよくしてくださいます。今一度、自分が罪の中から救い出され、世の中から掘り出され、主のものとされた意味を思い返してみましょう。くすぶっていてはもったいないのです。うなだれていては申し訳ないのです。うつむいていては始まらないのです。あなたの罪を赦すためひとり子を犠牲にするほどの愛を注ぎ、あなたによみがえりの新しいいのちを与え、新しい地を占領するように励ましてくださるお方です。「あなたがたのために戦ったのは神、主である」(3節)、「約束されたすべての良いことは一つもたがわなかった」(14節)のですから。

永遠のいのち

主日礼拝 2021年4月4日

聖書の言葉

25 イエスは彼女に言われた。
  「わたしはよみがえりです。いのちです。
  わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
26 また、生きていてわたしを信じる者はみな、
  永遠に決して死ぬことがありません。
  あなたは、このことを信じますか。」

「ヨハネの福音書11章25-26節」

牧師の言葉

◆ 全体地図と現在地
「人生をより良く生きたい」「人生の目的が何なのか知りたい」「死んだらどうなるのか不安」これらは人生全体にかかる大きな問いです。そして、人生は日々の積み重ねですから、私たちが「今日を生きる」ためにも、こうした問いへの答えは持っていないとなりません。今朝は、お配りした「キリスト教の世界観チャート」を見ながら始めましょう。私たちが人生の航路を決定するためには、それに関する情報、また信仰(信念、信条、確信)が必要になります。たとえば、多くの日本人が「私の家は仏教です」と言ったときに、その中身を知らないことも多々あります。そのため、自分が仏教徒であることとは別になります。この(お配りした)チャートは、仏教、神道(神社)、科学、キリスト教の全体図を捉えることができようになっています。宗教は、礼拝の行為や対象、教典があることで定義されます。ですので、「神社は宗教じゃない」「神道は日本の伝統文化で、参拝しても宗教ではない」といった主張に惑わされないでください。これは学校行事や学校教育にも通ずることです。子どもの授業や遠足、修学旅行などで神社仏閣や祈りに関わることが行われていたら、知恵深く見抜き、学校長や担任にひと言進言することが大切です。このチャートで全体図を理解し、自分がどこに立っているのか、また何に従って行き、どこへ向かっているのかを把握しておきましょう。縦がそれぞれの教義・道筋になりますので、チャートを横に行き来しすることはできません。このように眺めると、キリスト教が示す全体図の素晴らしさに気づくのではないでしょうか。ぜひ、ご自分がどこから来て、今どこに立ち、ここからどこへ向かっていくのか知っておきましょう。
◆死と永遠のいのち
この聖書個所は、昨年築いた教会墓地の石にも刻まれているみことばです。主イエスの生涯でもっとも大切なことは「十字架と復活」です。聖書によると、死は罪によって世界に入り、すべての人は死ぬようになりました(ローマ5:12)。進化論は初めから死が前提となっていて、死の連続でこの世界が成り立ったと主張するものです。これは、神さまがこの世界のすべてを造られ「非常に良かった」(創世記1:31)とする聖書とは真っ向から反対する考えです。私たち人間の理性は自分にとって都合の悪いことは排除しますから、なかなかこの「罪」を認めることができません。しかし、重要なことは私たちがどう感じるか、どうありたいかよりも、真理は何かということです。それゆえ、聖書の教えていることに敏感でありたいと願います。その聖書が、私たちはみな、罪ゆえに死ぬと教えています。さらに、肉体の死だけでなく、第二の死(黙示録20:14)であるたましいの滅びを告げています。罪の問題が解決しなければ、私たち人類には何の希望もありません。ただ死に、滅ぶだけだからです。しかし、同じ聖書が救い主イエス・キリストを信じる者は「永遠に決して死ぬことがない」(ヨハネ11:26)と主張しているのです。主イエスの「十字架と復活」は身体的な死と復活だけではなく、この罪の問題の解決と勝利のしるしです。すなわち、罪なき主イエスの死はもはや私たちを罰するための死は解決済みであること、また、主イエスの復活は、たましいの死に対する勝利であり、永遠のいのちの保証です。聖書が書かれた目的は「信じて、イエスの名によって永遠のいのちを得るため」(ヨハネ20:31)です。地上での死も、永遠に関する不安もキリストが解決済みなのです。
◆信じる者に
もう一度ここの聖書個所の主張を整理しましょう。主イエスご自身が「わたしはよみがえりです。いのちです」と言っておられます。罪から来る死に勝利し、永遠のいのちを持っておられるという宣言です。そして、カギとなっているのは三度も使われている「信じる」という語です。「わたしを信じる者は死んでも生きる」=地上の死で終わりではない。「わたしを信じる者は永遠に決して死ぬことがない」=たましいの死の恐れがない。これはあなたの人生に革命を起こすものです。なぜなら、もしあなたがキリストを信じるならば、あなたの人生は地上での喜び、豊かさ、楽しみ、誉れで測るものではなくなるからです。永遠のいのちの視点によって生かされるようになると、自分の願いや他者よりもといった比較や嫉妬、焦りから解放され、神に忠実であること、主イエスを愛すること、隣人に仕えることに価値を見出すからです。

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