日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「みことばの輝き」

主日礼拝 2021年5月9日

また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。
預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。

「ペテロの手紙第2 1章19-21節」

牧師の言葉

◆確かな土台
「聖書の聞き方」シリーズ3回目は聖書に対する姿勢を学びます。そのためには、聖書自身が持っている輝きを知ることが大切です。ここの箇所で弟子のペテロは「さらに確かな預言のみことばを持っています」と聖書についてのべています。何に対して「さらに確か」かと言うと、ペテロ自身が主イエスと一緒にいたときに天から聞いた御声よりも確かである、という意味です(参照マタイ17章1~8節)。これは、私たちにとって大きな励ましです。ペテロは直接自分の耳で聞いた御声よりも、書かれた聖書が「さらに確かだ」と言っているからです。これは直接イエスさまに会ったり、アブラハムやモーセのように神の御声やみわざを多く経験したことのない私たちにとって、大きなともしびです。書かれた聖書は神の生御声を直接聞くよりも優れて確かなもの。これこそ、聖書が持つ輝きです。「暗い所を照らすともしび」と例えたここから聖句詩篇119:105を連想します。聞くだけでは記憶が薄れたり、内容を忘れたりしますが、「聖書=直訳:書かれた預言」(20節)は内容はいつまでも正確です。そしていつでもそれにアクセスすることができます。この点において、神さまが聖書という書かれた書物によってご自身の愛、ご計画を保存してくださったのは私たちの信仰を正確に育む最良の手段です。
◆人間の解釈
ところで、正確な神のことばである「聖書」がありさえすれば、あとは自動的に誰でも「正確に」聖書を読んで、理解することができるでしょうか。答えは「いいえ/否」です。なぜなら、20節で「勝手に解釈するものではない」と警鐘が鳴らされているからです。私たち人間は神の言葉を間違って解釈する可能性があるのです。これは聖書をどの位置において読むかにも通じます。以前学んだように聖書を自分の下に置けば自分がその解釈者です。反対に聖書を自分の上に置けば聖書が本当に言っていることを聞こうとします。主人としもべの関係を保つことをもう一度思い出してください。それで「聖書を自分の解釈で読まないこと」を「まず心得ておきなさい」(20節)と釘を刺しているのです。これは信仰の防波堤の役割をしてくれるものです。もう少し掘り下げると、この「解釈する」の原意は「説明する」です。「説明する」のに最もふさわしいのは行動であれば本人ですし、物であれば製作・製造者です。誰か他の人のことを「説明」するとき、私たちは自分から見たその人という視点から説明します。例えば事件を犯した人を「そんなことをする人のようには見えなかった」とか「いつかやりそうだと思っていた」などと説明するのが通常です。しかし、本当のことは本人しか分かりません。では、神の言葉はどなたが一番分かるでしょうか?自分ではないことは確かです!それで、私たちは聖書を学んだ教師・牧師を立て、みことばを聞きます。さらに、教会で集ってみことばを聞きます。独りよがりや個人的趣味に陥らないためにも、この交わりの中に身を置きましょう。
◆聖霊の照明
しかし、どんな学者、研究者、牧師も、完璧に聖書を正しく理解できるわけではありません。21節には最初に神からの言葉を語った預言者自身でさえも、その人自身から出たものではので特別ではないよ、と教えています。彼らは理解力にすぐれていたのではなく「聖霊に動かされた人たちが神から受けて語った」からです。鍵は「聖霊」にあります。聖書と聖霊の関係はとても強く、深いものがあります。それはイエスさまご自身が「助け主…聖霊はあなたがたにすべてのことを教え…思い起こさせてくださる」(ヨハネ14:26)、また「この方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさる」(16:8)と言われているほどです。つまり、私たちは人間の理解力や努力によって聖書を正しく理解できるようになるのではなく、聖霊に頼ってこそ、聖書を本当に聞くことができるようになるのです。さらにこの「聖霊に動かされて」は、船が海風を受けて進むというニュアンスを持った言葉です。それは自分の意志や力によってではなく、船であれば風を受けて動かされるように、人間は聖霊によって動かされてはじめて、聖書をよく知ることができるようになるのです。このことを教会は「聖霊の照明」といって大切にしてきました。暗い世においてはまことの光だけが頼りです。罪や自己都合にあふれた私たちにとって聖霊の照明は何よりのともしびなのです。

▲ このページの先頭へ

聖書の言葉

「心の行方」

主日礼拝 2021年5月2日

さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。
イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。
話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」
イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」
彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。

「ルカの福音書5章1-11節」(抜粋)

牧師の言葉

◆ 無関心から
「聖書の聞き方」シリーズ第二弾は、主イエスとシモン(ペテロ)の出会いの場面です。使徒ペテロはイエスさまの一番弟子として知られ、発言も行動も多く記されています。けれども、その出会いは静かなものでした。この箇所でまずイエスさまに「押し迫って」いたのは群衆です。彼らは「神のことばを聞こうと」求めています。しかし、その中にシモンはいません。「漁師たちは舟から降りて網を洗っていた」(2節)のです。近くでは見たことのない数の人々がイエスさまに押し迫っているのに、シモンは漁の後片付けをしています。一言で言えば彼は「無関心」でした。群衆の熱狂とシモンの無関心。しかし、イエスさまはシモンの舟に乗り、少し漕ぎ出すように声をかけて頼まれました。こんなちょっとした出会いから、あのペテロが生まれているのです。聖書を開くきっかけ、キリストのことを聞いたきっかけ、教会に足を踏み入れたきっかけ・・・あなたの場合はどうでしょうか。ぜひ、この場面と重ねながら、それこそイエスさまがあなたをご覧になり、あなたに声をかけられた貴重な出会いであり、神の計画にあることを覚えましょう。主は私たちが無関心でい続けるのをよしとはされません。主イエスを見ないで仕事をしていたとしても、そのまま放っておくお方ではないのです。

◆一対一で
群衆への話が終わると、イエスさまはすぐシモンに言われます「深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚を捕りなさい」(4節)。群衆への教えはどんなものだったかわかりませんが、ここからは個人的なやり取りが始まります。シモンは「夜通し働きましたが・・・網を下ろしてみましょう」(5節)と答えています。一晩中働いて、網も洗って、徒労感に襲われていたのに、イエスさまが舟に乗り込んで、話が終わったと思いきやさらに今から漁をしなさいと言われた。考えただけでも反発したくなるところですが、彼は「でも、おことばですので」とただそれだけの理由で再び網を下ろすのです。「あなたのことばの上に」というニュアンスです。このとき、シモンは初めて「神のことばの上に立った」のです。自分のよって立つところ(拠り所)が変わった瞬間でした。何をベースに生きるかは、とても重要です。人間中心か、神中心か。世間中心か、聖書中心か。このとき、シモンが一気にたぐりよせられたのは、イエスさまが一対一で会話をし、関わりを持ったからです。目の前で自分に向かって語らえるお方のことばに、自分はどう応答するのか。無関心でいるのか、それとも従うのか。自分の足もとにむなしく広げた網を見つめるシモンはもういません。押し寄せた群衆とは違うのだと殻を閉じていたシモンはもういません。あるのは、神のことばの上に人生を築き始めている彼の姿です。

◆引き寄せる
主イエスのことばどおりにすると、網が破れそうになるほどの大漁。指先から全身に感じる網の重みは、主イエスのことばの重みです。シモンはそれをラッキー!と喜んだのでしょうか。いいえ、彼の応答は意外なものでした。「主よ。罪深い私から離れてください」(8節)と、喜ぶどころか「自分が罪深い人間である」ことに気づいて、恐ろしくなったのです。それまで「先生」(5節)と呼んでいたのが「主よ」(8節)に変わり、膝下にひれ伏しています。

ここに大事なポイントがあります。
神が分かることと、自分の罪に気づくこととはセットです。
神認識には罪認識が欠かせません。人間は自分と同じ状態、考え、立場の人と一緒にいることを好みます。立場が違えば居心地は悪いですし、考えが違えば言い争いが起こるかもしれません。しかし、一番緊張するのは、自分よりも「聖い」存在と一緒にいることです。自分の醜さ、汚さ、心の動き、罪を知っておられる方と何も感じないで一緒にいることは不可能です。頼むから自分から離れてください、と思わず口走ったシモンの気持ちがわかる気がします。そして、それこそあなたも自分の罪深さに気づき見つめるきっかであり、すなわちそれは救い主イエスとの出会いです。自分に自信をもち、積極的に生きるのは良いことですが、自らの罪を脇において神の聖さを知らないのは愚かなことです。自分や人間に土台を置いた生き方には一時的な喜びはあっても、神の前では永遠に歯が立ちません。主イエスはシモンを引き寄せ「人を捕るようになる」とその後の人生を指し示しました。「すべてを捨てて従った」彼の姿に続きましょう。

▲ このページの先頭へ

日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

みことばの輝き

主日礼拝 2021年5月9日

聖書の言葉

また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜が明けて、明けの明星があなたがたの心に昇るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。
ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。
預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。

「ペテロの手紙第2 1章19-21節」

牧師の言葉

◆確かな土台
「聖書の聞き方」シリーズ3回目は聖書に対する姿勢を学びます。そのためには、聖書自身が持っている輝きを知ることが大切です。ここの箇所で弟子のペテロは「さらに確かな預言のみことばを持っています」と聖書についてのべています。何に対して「さらに確か」かと言うと、ペテロ自身が主イエスと一緒にいたときに天から聞いた御声よりも確かである、という意味です(参照マタイ17章1~8節)。これは、私たちにとって大きな励ましです。ペテロは直接自分の耳で聞いた御声よりも、書かれた聖書が「さらに確かだ」と言っているからです。これは直接イエスさまに会ったり、アブラハムやモーセのように神の御声やみわざを多く経験したことのない私たちにとって、大きなともしびです。書かれた聖書は神の生御声を直接聞くよりも優れて確かなもの。これこそ、聖書が持つ輝きです。「暗い所を照らすともしび」と例えたここから聖句詩篇119:105を連想します。聞くだけでは記憶が薄れたり、内容を忘れたりしますが、「聖書=直訳:書かれた預言」(20節)は内容はいつまでも正確です。そしていつでもそれにアクセスすることができます。この点において、神さまが聖書という書かれた書物によってご自身の愛、ご計画を保存してくださったのは私たちの信仰を正確に育む最良の手段です。
◆人間の解釈
ところで、正確な神のことばである「聖書」がありさえすれば、あとは自動的に誰でも「正確に」聖書を読んで、理解することができるでしょうか。答えは「いいえ/否」です。なぜなら、20節で「勝手に解釈するものではない」と警鐘が鳴らされているからです。私たち人間は神の言葉を間違って解釈する可能性があるのです。これは聖書をどの位置において読むかにも通じます。以前学んだように聖書を自分の下に置けば自分がその解釈者です。反対に聖書を自分の上に置けば聖書が本当に言っていることを聞こうとします。主人としもべの関係を保つことをもう一度思い出してください。それで「聖書を自分の解釈で読まないこと」を「まず心得ておきなさい」(20節)と釘を刺しているのです。これは信仰の防波堤の役割をしてくれるものです。もう少し掘り下げると、この「解釈する」の原意は「説明する」です。「説明する」のに最もふさわしいのは行動であれば本人ですし、物であれば製作・製造者です。誰か他の人のことを「説明」するとき、私たちは自分から見たその人という視点から説明します。例えば事件を犯した人を「そんなことをする人のようには見えなかった」とか「いつかやりそうだと思っていた」などと説明するのが通常です。しかし、本当のことは本人しか分かりません。では、神の言葉はどなたが一番分かるでしょうか?自分ではないことは確かです!それで、私たちは聖書を学んだ教師・牧師を立て、みことばを聞きます。さらに、教会で集ってみことばを聞きます。独りよがりや個人的趣味に陥らないためにも、この交わりの中に身を置きましょう。
◆聖霊の照明
しかし、どんな学者、研究者、牧師も、完璧に聖書を正しく理解できるわけではありません。21節には最初に神からの言葉を語った預言者自身でさえも、その人自身から出たものではので特別ではないよ、と教えています。彼らは理解力にすぐれていたのではなく「聖霊に動かされた人たちが神から受けて語った」からです。鍵は「聖霊」にあります。聖書と聖霊の関係はとても強く、深いものがあります。それはイエスさまご自身が「助け主…聖霊はあなたがたにすべてのことを教え…思い起こさせてくださる」(ヨハネ14:26)、また「この方(聖霊)が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさる」(16:8)と言われているほどです。つまり、私たちは人間の理解力や努力によって聖書を正しく理解できるようになるのではなく、聖霊に頼ってこそ、聖書を本当に聞くことができるようになるのです。さらにこの「聖霊に動かされて」は、船が海風を受けて進むというニュアンスを持った言葉です。それは自分の意志や力によってではなく、船であれば風を受けて動かされるように、人間は聖霊によって動かされてはじめて、聖書をよく知ることができるようになるのです。このことを教会は「聖霊の照明」といって大切にしてきました。暗い世においてはまことの光だけが頼りです。罪や自己都合にあふれた私たちにとって聖霊の照明は何よりのともしびなのです。

心の行方

主日礼拝 2021年5月2日

聖書の言葉

さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸辺に立って、岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。
イエスはそのうちの一つ、シモンの舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして腰を下ろし、舟から群衆を教え始められた。
話が終わるとシモンに言われた。「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」
すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」
そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。
これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」
イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」
彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。

「ルカの福音書5章1-11節」(抜粋)

牧師の言葉

◆ 無関心から
「聖書の聞き方」シリーズ第二弾は、主イエスとシモン(ペテロ)の出会いの場面です。使徒ペテロはイエスさまの一番弟子として知られ、発言も行動も多く記されています。けれども、その出会いは静かなものでした。この箇所でまずイエスさまに「押し迫って」いたのは群衆です。彼らは「神のことばを聞こうと」求めています。しかし、その中にシモンはいません。「漁師たちは舟から降りて網を洗っていた」(2節)のです。近くでは見たことのない数の人々がイエスさまに押し迫っているのに、シモンは漁の後片付けをしています。一言で言えば彼は「無関心」でした。群衆の熱狂とシモンの無関心。しかし、イエスさまはシモンの舟に乗り、少し漕ぎ出すように声をかけて頼まれました。こんなちょっとした出会いから、あのペテロが生まれているのです。聖書を開くきっかけ、キリストのことを聞いたきっかけ、教会に足を踏み入れたきっかけ・・・あなたの場合はどうでしょうか。ぜひ、この場面と重ねながら、それこそイエスさまがあなたをご覧になり、あなたに声をかけられた貴重な出会いであり、神の計画にあることを覚えましょう。主は私たちが無関心でい続けるのをよしとはされません。主イエスを見ないで仕事をしていたとしても、そのまま放っておくお方ではないのです。

◆一対一で
群衆への話が終わると、イエスさまはすぐシモンに言われます「深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚を捕りなさい」(4節)。群衆への教えはどんなものだったかわかりませんが、ここからは個人的なやり取りが始まります。シモンは「夜通し働きましたが・・・網を下ろしてみましょう」(5節)と答えています。一晩中働いて、網も洗って、徒労感に襲われていたのに、イエスさまが舟に乗り込んで、話が終わったと思いきやさらに今から漁をしなさいと言われた。考えただけでも反発したくなるところですが、彼は「でも、おことばですので」とただそれだけの理由で再び網を下ろすのです。「あなたのことばの上に」というニュアンスです。このとき、シモンは初めて「神のことばの上に立った」のです。自分のよって立つところ(拠り所)が変わった瞬間でした。何をベースに生きるかは、とても重要です。人間中心か、神中心か。世間中心か、聖書中心か。このとき、シモンが一気にたぐりよせられたのは、イエスさまが一対一で会話をし、関わりを持ったからです。目の前で自分に向かって語らえるお方のことばに、自分はどう応答するのか。無関心でいるのか、それとも従うのか。自分の足もとにむなしく広げた網を見つめるシモンはもういません。押し寄せた群衆とは違うのだと殻を閉じていたシモンはもういません。あるのは、神のことばの上に人生を築き始めている彼の姿です。

◆引き寄せる
主イエスのことばどおりにすると、網が破れそうになるほどの大漁。指先から全身に感じる網の重みは、主イエスのことばの重みです。シモンはそれをラッキー!と喜んだのでしょうか。いいえ、彼の応答は意外なものでした。「主よ。罪深い私から離れてください」(8節)と、喜ぶどころか「自分が罪深い人間である」ことに気づいて、恐ろしくなったのです。それまで「先生」(5節)と呼んでいたのが「主よ」(8節)に変わり、膝下にひれ伏しています。

ここに大事なポイントがあります。
神が分かることと、自分の罪に気づくこととはセットです。
神認識には罪認識が欠かせません。人間は自分と同じ状態、考え、立場の人と一緒にいることを好みます。立場が違えば居心地は悪いですし、考えが違えば言い争いが起こるかもしれません。しかし、一番緊張するのは、自分よりも「聖い」存在と一緒にいることです。自分の醜さ、汚さ、心の動き、罪を知っておられる方と何も感じないで一緒にいることは不可能です。頼むから自分から離れてください、と思わず口走ったシモンの気持ちがわかる気がします。そして、それこそあなたも自分の罪深さに気づき見つめるきっかであり、すなわちそれは救い主イエスとの出会いです。自分に自信をもち、積極的に生きるのは良いことですが、自らの罪を脇において神の聖さを知らないのは愚かなことです。自分や人間に土台を置いた生き方には一時的な喜びはあっても、神の前では永遠に歯が立ちません。主イエスはシモンを引き寄せ「人を捕るようになる」とその後の人生を指し示しました。「すべてを捨てて従った」彼の姿に続きましょう。

▲ページの先頭へ