日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「聖書はカノン」

主日礼拝 2021年6月13日

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」

「マタイの福音書24章35節」

牧師の言葉

◆ 基準を決める
「聖書の聞き方」シリーズ8回目は「基準としての聖書」です。聖書は全部で66巻です。それ以外のものは「聖書外典(旧約外典、旧約偽典、新約外典)」と呼び、聖書正典とは区別されます。ちなみに「外典」の語源は「アポクリファ=隠されているもの」で、秘儀のようにありがたいものとして広く公開はされない類のもので、史実性や内容的に疑いや評価が分かれるものも多くあります。それとは対照的に「聖書正典」は旧約が39巻、新約が27巻で、神のことばとしての権威を疑われたり、聖書から取り外されたりしたことが一切ありません。それで聖書正典を「カノン」と呼び、これは「標準・基準」を意味します。教会や宗派の正しさを見分ける唯一の方法は「聖書66巻を基準としているか」です。聖書以外の書物を並べて権威をもたせたり、偉大な人物の言葉を同等に扱うならば、それは間違っています。なぜなら、それらは「基準から外れている」からです。どんな良い書物であっても、どんな偉い立場や良心的な人の発言であっても、聖書と同等に扱うならば、それは「基準を変えている」ことになります。それを守っていくのは、移りやすい時代や違った地域に立てられている教会にとって最大の使命でもあります。どの時代、どの土地にある教会も「聖書正典を基準」とします。そして、牧師のメッセージもそれに基づいて務めを果たすものです。それはひとえに「主の教会」だからです。神の言葉を土台とし、キリスト・イエスを要の石としていなければ「主の教会」ではなくなってしまいます。「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」(マタイ16:18)
◆消え去るもの
聖書正典という「基準」を持つことは、他のものをそれと同列にしないということです。この箇所ではその比較対象は「天地」です。天と地は見えるものすべてであり、私たちよりも存在は大きく、長く持続しています。大地は私たちの下にあり、土台として堅く据えられ、地震はあっても揺るぎなさを感じるものです。大空はどこまでも広がり、太陽の光、雨、虹、夜空の月星など人間が見上げて、広い世界の多彩さを味わいます。私たちは生まれてから死ぬまですべての時間をこの天地の間で過ごします。しかし、イエスさまの言葉に注目しましょう!「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」。この「消え去る」は文字通り過ぎ去る、消えてなくなるという意味です。他には「滅びる」(ルカ16:17)とも訳されています。「そんなはずはないでしょ(笑)」「そんな聖書を信じるなんて、それこそ信じられない!」「天地が消え去るなんてバカバカしい」こんな反応が普通かもしれません。なぜなら、私たちはそうした教育を受け、そうした社会に生きてきたからです。それでも、このシリーズで大事にしているのは、私が聖書についてどう思うかではなく、聖書が私に何と言っているか、です。そして、それはそのまま「聖書は神さまが私たちに何を、どう信じてほしいのか」を告げている書物だということです。まさに「人間の命令を教え込まれて」(イザヤ29:13)きたので、聖書が幻、たわごと、イカサマのようにしか聞こえなくなってしまいました。それは、人の教えを受け入れてしまったからです。私たちは「人からどう思われるか」にとらわれてしまっていて、「神さまがどう思っておられるか」については超鈍感、無関心になってしまっています。聖書は、私たちの歪んだ人生観を修正し、生きづらさから解放し、正しいことを言うとバカにされる世界から救い出してくれるのです。
◆ 永遠に立つもの
聖書を基準とすると、2つの生き方に分けられます。1つは、自分の人生やこの世界を素晴らしくするのは私であり、人間であるという生き方です。これが聖書を基準としない生き方の中心です。もう1つは「聖書こそが真の人間らしさ、世界の正しい治め方だから、聖書に聞き従う生き方です。これは文字通り聖書を基準・カノンとする神中心の生き方です。ここでの話題である「天地」と「わたし(イエスさま)のことば」を天秤にかけてみたら、どちらが重いでしょうか。あるいは(小さな)自分のこだわりや常識と聖書の教えを天秤にかけてみたら、より長く支持されているのはどちらでしょう。この世や自分を中心するか、神を中心とするか。それは聖書の聞き方によって判別することができます。神さまが望んでいるのは・・・後者ですね。なぜなら、神さまは高圧的支配ではなく、私たちをこよなく愛しておられるお方だからです。

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聖書の言葉

「ハッピーセット」

主日礼拝 2021年6月6日

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。
同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。
しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。
あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。

「ヤコブの手紙2章14-19節」

牧師の言葉

◆ 益であること
「聖書の聞き方」シリーズ7回目は「みことばを行う聞き方」です。今朝の箇所で14節と16節にまったく同じ語句で「何の役に立つでしょう」と言われています。これは「いいえ、何の役にも立ちません」という答えを想定しての問いかけです。役に立たないのは「信仰があると言っていても行いがない」という「信仰」のことです。役立たずは厳しい表現ですが、この言葉は他では「得」(第一コリント15:32)とも訳されています。文字通り、得るものがないということです。詩篇1篇の「籾殻(もみがら)」を思い出しますね。要点は「言っていることとやっていること」が問題ではなく「信じていることとやっていること」です。私たちの行動の始まりは「何を信じているか」です。大げさのようですが、椅子を座ることにも、食べ物を口にすることにも「信じている」ことから行動に移しています。壊れている椅子には座ろうとしませんし、道端で拾った物を食べようとはしません。座ることや食べることにも「それが大丈夫だ」と信じているので、行動にするのです。だから、行動にすることから、何を信じているのかを明らかにすることができるのです。そして、ヤコブが痛烈に批判しているのは、行いがないなら、信仰もないことです。いくら自分は信仰があると言ったとしても、信仰の証明になりませんし、役に立つことがなく、籾殻と同じに他なりません。
◆ 信じていること
ヤコブの展開を見てみると、これが一般論ではなく、教会内・クリスチャンの間で起こっている問題だということがわかります。「兄弟たち」「あなたがたのうちの」と始まり、衣服や食事がままならない人がいても、助けずに知らんぷりをして、なおかつ「自分はクリスチャンです」と胸を張っている人がいる、という光景を描いているからです。社会的な問題、世界規模での飢餓への対応を求めているのではなく、自分の家族(神の家族)・兄弟姉妹に対する行動を求めているのです。この2章の始まりでは身なりの良い人は良い席へ、貧しい人には立ち席を案内していたり(2:1~3)、「利己的で自慢話の好きな人がいたり」(3:14)、「戦いや争い」(4:1)、自らの「ぜいたくや快楽にふける」(5:1~6)人が多くいたようです。それが、教会内にいたということを問題にしているのです。なぜなら、彼らこそ「私には信仰がある」といってはばからず、聖書を読み、礼拝をささげ、教会に来ながらも、その心や行いは役に立たないことばかりだったからです。19節には「悪霊」も登場しますが、彼らも「神は唯一だと信じています」。しかし、正しい知識を信じていても、悪霊の行動はいつも神に反逆するものでした。神を恐れつつも逃げ回ったり、画策をしたりして、一向に悔い改めることをしません。生涯悪霊として行動するのです。信じているならば、行いも伴わなければ、悪霊と同じだとヤコブは迫っているのです。聖書は、自分を探るための「両刃の剣」(ヘブル4:12)でした。信じていることとやっていることの一致に不安を感じるなら、どちらに合わせていくのか導きを求めましょう。
◆ 行うこと
行いのない信仰は「死んだもの」(17節)と言われます。反対は「生きている信仰」であり「行いの伴う信仰」です。「行う」ためにはどうしたら良いのでしょうか?ヒントは「口」にあります。ヤコブは1章で「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい」(1:17)、「みことばを行う人となりなさい」(1:22)と命じています。「行い」よりも「口」が先に出るとどうしてもつじつまが合わなくなります。私たちはやっていないことを言うこともありますし、言ってしまったことを後からやるのも大変で、すべてできるかというと疑問です。けれども、やっていることを口にするのは楽なものです。そこには虚勢や虚飾も必要ありません。聖書の筋道を整理しましょう。救われるのは、もちろん信仰のみです。行いによってはだれも救われません。ただ、キリスト・イエスの従順と十字架の死と復活を信じることによって救われます。しかし、その信じたことは必ず行いを伴います。救いは信仰のみ、けれども、信仰は行いとセット。もし、そうでないならその信仰は「死んでいる」のです。そこには迷いがありません。信じていること、聖書が教えていることに聞き従えばよいからです。そしてやったことを口にする。背伸びや人の目から免れ、神の前に生きられるのはなんと爽やかでしょう!

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

聖書はカノン

主日礼拝 2021年6月13日

聖書の言葉

「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。」

「マタイの福音書24章35節」

牧師の言葉

◆ 基準を決める
「聖書の聞き方」シリーズ8回目は「基準としての聖書」です。聖書は全部で66巻です。それ以外のものは「聖書外典(旧約外典、旧約偽典、新約外典)」と呼び、聖書正典とは区別されます。ちなみに「外典」の語源は「アポクリファ=隠されているもの」で、秘儀のようにありがたいものとして広く公開はされない類のもので、史実性や内容的に疑いや評価が分かれるものも多くあります。それとは対照的に「聖書正典」は旧約が39巻、新約が27巻で、神のことばとしての権威を疑われたり、聖書から取り外されたりしたことが一切ありません。それで聖書正典を「カノン」と呼び、これは「標準・基準」を意味します。教会や宗派の正しさを見分ける唯一の方法は「聖書66巻を基準としているか」です。聖書以外の書物を並べて権威をもたせたり、偉大な人物の言葉を同等に扱うならば、それは間違っています。なぜなら、それらは「基準から外れている」からです。どんな良い書物であっても、どんな偉い立場や良心的な人の発言であっても、聖書と同等に扱うならば、それは「基準を変えている」ことになります。それを守っていくのは、移りやすい時代や違った地域に立てられている教会にとって最大の使命でもあります。どの時代、どの土地にある教会も「聖書正典を基準」とします。そして、牧師のメッセージもそれに基づいて務めを果たすものです。それはひとえに「主の教会」だからです。神の言葉を土台とし、キリスト・イエスを要の石としていなければ「主の教会」ではなくなってしまいます。「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」(マタイ16:18)
◆消え去るもの
聖書正典という「基準」を持つことは、他のものをそれと同列にしないということです。この箇所ではその比較対象は「天地」です。天と地は見えるものすべてであり、私たちよりも存在は大きく、長く持続しています。大地は私たちの下にあり、土台として堅く据えられ、地震はあっても揺るぎなさを感じるものです。大空はどこまでも広がり、太陽の光、雨、虹、夜空の月星など人間が見上げて、広い世界の多彩さを味わいます。私たちは生まれてから死ぬまですべての時間をこの天地の間で過ごします。しかし、イエスさまの言葉に注目しましょう!「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」。この「消え去る」は文字通り過ぎ去る、消えてなくなるという意味です。他には「滅びる」(ルカ16:17)とも訳されています。「そんなはずはないでしょ(笑)」「そんな聖書を信じるなんて、それこそ信じられない!」「天地が消え去るなんてバカバカしい」こんな反応が普通かもしれません。なぜなら、私たちはそうした教育を受け、そうした社会に生きてきたからです。それでも、このシリーズで大事にしているのは、私が聖書についてどう思うかではなく、聖書が私に何と言っているか、です。そして、それはそのまま「聖書は神さまが私たちに何を、どう信じてほしいのか」を告げている書物だということです。まさに「人間の命令を教え込まれて」(イザヤ29:13)きたので、聖書が幻、たわごと、イカサマのようにしか聞こえなくなってしまいました。それは、人の教えを受け入れてしまったからです。私たちは「人からどう思われるか」にとらわれてしまっていて、「神さまがどう思っておられるか」については超鈍感、無関心になってしまっています。聖書は、私たちの歪んだ人生観を修正し、生きづらさから解放し、正しいことを言うとバカにされる世界から救い出してくれるのです。
◆ 永遠に立つもの
聖書を基準とすると、2つの生き方に分けられます。1つは、自分の人生やこの世界を素晴らしくするのは私であり、人間であるという生き方です。これが聖書を基準としない生き方の中心です。もう1つは「聖書こそが真の人間らしさ、世界の正しい治め方だから、聖書に聞き従う生き方です。これは文字通り聖書を基準・カノンとする神中心の生き方です。ここでの話題である「天地」と「わたし(イエスさま)のことば」を天秤にかけてみたら、どちらが重いでしょうか。あるいは(小さな)自分のこだわりや常識と聖書の教えを天秤にかけてみたら、より長く支持されているのはどちらでしょう。この世や自分を中心するか、神を中心とするか。それは聖書の聞き方によって判別することができます。神さまが望んでいるのは・・・後者ですね。なぜなら、神さまは高圧的支配ではなく、私たちをこよなく愛しておられるお方だからです。

ハッピーセット

主日礼拝 2021年6月6日

聖書の言葉

私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。
同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。
しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。
あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。

「ヤコブの手紙2章14-19節」

牧師の言葉

◆ 益であること
「聖書の聞き方」シリーズ7回目は「みことばを行う聞き方」です。今朝の箇所で14節と16節にまったく同じ語句で「何の役に立つでしょう」と言われています。これは「いいえ、何の役にも立ちません」という答えを想定しての問いかけです。役に立たないのは「信仰があると言っていても行いがない」という「信仰」のことです。役立たずは厳しい表現ですが、この言葉は他では「得」(第一コリント15:32)とも訳されています。文字通り、得るものがないということです。詩篇1篇の「籾殻(もみがら)」を思い出しますね。要点は「言っていることとやっていること」が問題ではなく「信じていることとやっていること」です。私たちの行動の始まりは「何を信じているか」です。大げさのようですが、椅子を座ることにも、食べ物を口にすることにも「信じている」ことから行動に移しています。壊れている椅子には座ろうとしませんし、道端で拾った物を食べようとはしません。座ることや食べることにも「それが大丈夫だ」と信じているので、行動にするのです。だから、行動にすることから、何を信じているのかを明らかにすることができるのです。そして、ヤコブが痛烈に批判しているのは、行いがないなら、信仰もないことです。いくら自分は信仰があると言ったとしても、信仰の証明になりませんし、役に立つことがなく、籾殻と同じに他なりません。
◆ 信じていること
ヤコブの展開を見てみると、これが一般論ではなく、教会内・クリスチャンの間で起こっている問題だということがわかります。「兄弟たち」「あなたがたのうちの」と始まり、衣服や食事がままならない人がいても、助けずに知らんぷりをして、なおかつ「自分はクリスチャンです」と胸を張っている人がいる、という光景を描いているからです。社会的な問題、世界規模での飢餓への対応を求めているのではなく、自分の家族(神の家族)・兄弟姉妹に対する行動を求めているのです。この2章の始まりでは身なりの良い人は良い席へ、貧しい人には立ち席を案内していたり(2:1~3)、「利己的で自慢話の好きな人がいたり」(3:14)、「戦いや争い」(4:1)、自らの「ぜいたくや快楽にふける」(5:1~6)人が多くいたようです。それが、教会内にいたということを問題にしているのです。なぜなら、彼らこそ「私には信仰がある」といってはばからず、聖書を読み、礼拝をささげ、教会に来ながらも、その心や行いは役に立たないことばかりだったからです。19節には「悪霊」も登場しますが、彼らも「神は唯一だと信じています」。しかし、正しい知識を信じていても、悪霊の行動はいつも神に反逆するものでした。神を恐れつつも逃げ回ったり、画策をしたりして、一向に悔い改めることをしません。生涯悪霊として行動するのです。信じているならば、行いも伴わなければ、悪霊と同じだとヤコブは迫っているのです。聖書は、自分を探るための「両刃の剣」(ヘブル4:12)でした。信じていることとやっていることの一致に不安を感じるなら、どちらに合わせていくのか導きを求めましょう。
◆ 行うこと
行いのない信仰は「死んだもの」(17節)と言われます。反対は「生きている信仰」であり「行いの伴う信仰」です。「行う」ためにはどうしたら良いのでしょうか?ヒントは「口」にあります。ヤコブは1章で「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい」(1:17)、「みことばを行う人となりなさい」(1:22)と命じています。「行い」よりも「口」が先に出るとどうしてもつじつまが合わなくなります。私たちはやっていないことを言うこともありますし、言ってしまったことを後からやるのも大変で、すべてできるかというと疑問です。けれども、やっていることを口にするのは楽なものです。そこには虚勢や虚飾も必要ありません。聖書の筋道を整理しましょう。救われるのは、もちろん信仰のみです。行いによってはだれも救われません。ただ、キリスト・イエスの従順と十字架の死と復活を信じることによって救われます。しかし、その信じたことは必ず行いを伴います。救いは信仰のみ、けれども、信仰は行いとセット。もし、そうでないならその信仰は「死んでいる」のです。そこには迷いがありません。信じていること、聖書が教えていることに聞き従えばよいからです。そしてやったことを口にする。背伸びや人の目から免れ、神の前に生きられるのはなんと爽やかでしょう!

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