日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
このページがご覧になる方の
心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「福音のパンを」

主日礼拝 2021年7月25日

それから三年後に、私はケファを訪ねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒たちにはだれにも会いませんでした。
神の御前で言いますが、私があなたがたに書いていることに偽りはありません。
それから、私はシリアおよびキリキアの地方に行きました。
ただ、人々は、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」と聞いて、
私のことで神をあがめていました。

「ガラテヤ人への手紙1章18-24節」(抜粋)

牧師の言葉

■パン種
ガラテヤ書のテーマである「福音」は「神から出た良き知らせ」であることを続けて確認しています。人間はこれに付け加えることも薄めることもしないで、福音を保ち続けます。ここでは福音をパンの工程に重ねて見ていくことにします。パン作りにはまず「パン種」がなければ始まりません。イエスさまは「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい」(マタイ16:6)と警告されました。彼らは神の福音に「規則」「言い伝え」「現実主義」を混ぜて教えていたからです。それではよいパンは焼けません。パン種に、神から出たものではないものが混じっているからです。使徒パウロもそのことをよく理解していて「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい」(第一コリント5:6-7)と記しています。福音を純粋なまま保つこと=「種なしパン」(〃5:7)とも書いています。生まれながらの古い性質、人間の価値観は福音を汚してしまいます。神が福音を啓示しておられるのですから、謙遜や遠慮などは無用。かえって神と敵対するものであることを自戒しましょう。
■撹拌(かくはん)
18-20節は、パウロが回心から3年間はおもだった人たちに会わずと記録しています。これは、神とじっくりと交わりを持ったこと、その期間が重要であることのしるしです。人の説得によらず、人の目による圧力でもなく、神と一対一で格闘するようにして過ごしました。パンの工程では「撹拌(かくはん)」ですね。粉は水やオリーブ油でしっかり練られる必要があります。良い生地が良いパンの土台となるからです。撹拌の目的は2つ以上のものを混ぜ合わせ質や温度を均一にし、なめらかにすること。撹拌によって古いものからまったく新しい生地になっていきます。ここをすっ飛ばし、拒否すると古いパン種が残ったままになり、腐敗していきます。それだからこそ、神の御手というミキサーでしっかりと混ぜ合わされ、捏ねられること。使徒パウロはこの過程を経てエルサレムにいた使徒ペテロを訪ねましたが、それは15日間でした。3年間と比べると短いのですが、この「訪ねて」(18節)はhistory(歴史)の語源となった言葉が使われ地ます。パウロは、ひたすら独学で神観や聖書理解を作り上げたのではなく、人からもしっかりと歴史を学び、よく撹拌される工程をたどりました。バランスに偏りがあり、調和が取れていないと無理をして、信じているフリや大丈夫な素振りをしてしまうものです。私たちは、福音を神から聞き、人からも聞きます。神によって撹拌され、人からも撹拌されます。これが礼拝や教会の交わりで実現していることです。神と人とによって古い性質が削られ、独りよがりの理解から守られます。撹拌の機会を逸しないように、教会の交わりの中にしっかりと身を置きましょう。
■焼成(しょうせい)
21-24節は、撹拌後の焼成のステージです。焼き上げの目的は、不要物質を放出し、加熱調整して隙間をなくし最高の状態に仕上げることです。「私のことで神をあがめていました」(24節)という結びは、使徒パウロにとって最高の褒め言葉です。クリスチャンの栄誉は、自分の名ではなく、神の名が讃美されることです。なぜなら「キリストのしもべ」(10節)にとっては、その主人である神、イエスの名があがめられることこそ喜びだからです。あなたのおかげで神の名が輝く。あなたのおかげで神さまのおられることがわかる、あなたの伝えた福音で神を信じることができた。私たちの目的は「神さまはすごい!」と目の前の人が告白し、そうやって世界中の人々がひざをかがめて礼拝することです。これがこんがりと焼き上がった美味しそうなパンと同じ状態ですね。パンを作る粉・種→撹拌・生地→焼成という工程は、そのまま福音に生きる者の姿と重ねられます。神から出た福音はムダにはなりません。キリストのいのちをムダにしたくはありません。主イエスがささげたいのちをパン種とする私たちは、キリストの香りを放つ者として過ごすのです。

▲ このページの先頭へ

聖書の言葉

「啓示と回心」

主日礼拝 2021年7月18日

兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。
しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、
私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。

「ガラテヤ人への手紙1章11-17節」

牧師の言葉

1. 啓示
ガラテヤ書の中心である「福音」。この箇所は福音が「どこから来たのか」という起源について記されています。前週の6-7節を見ると「福音はただ一つであり、別の福音、他の福音はない」とあります。そして、クリスチャンはただその「福音を受け入れた者」を指します。クリスチャンらしい生き方とか聖書の知識量はまったく関係がありません。それらはもともとの福音の中身ではないからです。そして、この福音が人間から出たものであれば、それはもう創作物語であり、不確かなことだって含んでいる可能性もあります。この世の様々な教えの一つ、他宗教の教えと変わりません。たとえ神や世の終わりや救いについて語っているとしても、「権威」の問題として、人間から出ているのであればすべて同じです。そして、使徒パウロはこの福音は「啓示」(12節)であると記しています。「啓示」は「覆い隠されているものを引き剥がす」という意味の言葉です。この場合、神の真理を神ご自身が明らかにされるのが「啓示」の意味です。「神がご自身の明らかにされる?啓示?それが聖書?そんなことをクリスチャンは疑わずに信じているの?」と疑問を持つかもしれません。しかし、そうでなければ決して神のことは分かりません。私という人間のことは私自身が言葉にして明らかにするまでは決して誰にも分かりません。他者から私について「心のなかではこう思っている」と言われても、一方的な想像であり、間違いもあります。それゆえ「聖書は神の啓示の書である」とはっきり告げているこの箇所は大変重要です。ぜひ整理しておきましょう。
2. 人間が頼み
13-14節は、使徒パウロが回心「前」何に熱心であったかを包み隠さず明かしています。神の教会を迫害し、信者を抹殺し、ユダヤ教の教えに人一倍熱心だったことです(使徒8:1;9:1-2、ピリピ3:4-6等)。ポイントは、彼は「自分は間違っていないと確信し生きていた」ことです。「同胞」や「同じ世代」と比較し、抜きん出ていた自分を誇ってもいました。「先祖の伝承」にも忠実で至らない自分などみじんも感じてはいなかったことが伝わります。しかし、彼が頼りにし、誇っていたものは「全てが人間によるもの」です。周囲の人間との比較から来る自信、父祖の伝承に対する完璧さ。おそらく付け入るスキや非の打ち所がないのが回心前のパウロでした。それでも、彼の身につけている鎧のすべて人間によるもので、「人間が頼み」の生き方です。
3. 神が頼り
15-17節は回心後に進みますが、それは「しかし」で始まり、ここから主語が「私」から「神」へと変わります。神はパウロが生まれる前から「選び出して・・・召してくださっ」(15節)ていたのです。それは「御子(イエス)を私のうちに啓示する」(16節)ためでした。「母の胎にあるときから選び出し」は決して大げさな言い方ではありません。パウロは、このことによって自分の出どころがはっきりしたのです。神は、実に私が生まれる前から計画をお持ちで、私はこの神と出会い、神の愛の中で過ごし、神のわざに少しでも用いられるように生きるのだ、と。どれほど人間的な知識を身に着け、世間で身を立て、人生経験を積んだとしても、神からの啓示はそれら以上に輝く光でした。あれほど自信と誇りに満ちていた頑迷なパウロを変えられることは、人間には無理です。頑固な人ほど、他の人間との議論や指導によっては決して変えられません。説得をしようとしても、おそらくもっと頑なになるだけです。おそらく、皆さんも同じような経験をしているのではないでしょうか。そうした人間を変えられるのは、いったい誰でしょう。それこそ「神」しかおられません。そして、人間同士の言葉や力ではなく、上からの光、神の啓示によって人は変えられるのです。啓示の中身は「御子=主イエス」です。あれほど人間を圧倒することにこだわっていたパウロは、誰にも相談することなくしばらく過ごしたことを16-17節でつけ加えています。私を変えたのは、他の誰の説得や教えでもない、ただ「啓示=神に」よったことの証しです。神を頼りとし、啓示通りキリストをあなたのうちに迎えましょう。

▲ このページの先頭へ

聖書の言葉

「クリスチャンの材料」

主日礼拝 2021年7月11日

私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。
しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。
今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。

ガラテヤ人への手紙1章6-10節」(抜粋)

牧師の言葉

1. 福音
ガラテヤ人への手紙の第二回目。テーマは「福音とは何か(真の福音)」です。福音≡良き知らせ(Gospel, Good News)はその響きだけでなく、中身を知ってこそ「主は素晴らしい!ハレルヤ!」とうなずけるものです。学びの要素も多いのがこのガラテヤ書ですが、正確に神のことばを聴く訓練はそのまま良き習慣ともなり、健康な信仰生活の最大栄養素になります。ぜひ集中力を高めてご一緒に見てまいりましょう。
 今回のタイトルは「クリスチャンの材料」です。クリスチャンは何でできているのでしょうか?更に言うと、何をもってその人はクリスチャンだと言えるのでしょうか。なかなか信仰に踏み出せない方たちが「自分はまだまだです」「もっと聖書のことが分かってからではないと」「私はクリスチャンにはふさわしくありません」と正直な心境を吐露してくださることがあります。ぜひ、これらの思いを抱えている方もこの箇所から「どうやったらクリスチャンになれるのか」を整理していただけましたらと願います。
クリスチャンの材料、その1は「福音」です。主イエスがその宣教の第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われたように、クリスチャンとは「福音を信じる」者のことです。そして、それ以外のものは何も必要ありません。善人であることも穏便な性格も善行もいりません。救われるために、人間の側でしなければならないことは何一つないのです。だから「福音=良き知らせ」と言います。私を救うために、神は何一つ私に要求せず、愛するひとり子イエス・キリストを十字架につけ、よみがえらせてくださった。この方を信じる者はひとりとして滅びることがない、というのが福音です。「ほかの/別の」福音など決して存在しないのです。
2. 混ぜないこと
しかし、ガラテヤのクリスチャンたちは揺さぶられていました。あたかも「ほかの福音」があるかのようにふれ回る教師たちがいたようです。彼らはクリスチャンであるためには割礼を受け、律法を守り行わなければならない、と強く訴えていたようです(*これらについては、後の章で見ていきます)。しかし、それではせっかくの「福音」が台無しです。純粋なものに、誤りを混ぜれば、それは不純物です。神の恵みの福音(使徒20:24)にも、別のものは決して混ぜ入れてはなりません。たとえ、それがどんな良い事であっても、有益な事柄であっても、「それらのおかげでクリスチャンになる(である)」わけではないからです。この点を、いつもずらされない軸として持っていましょう。とかく、私たちは不安を煽られがちです。また、自分に対して真面目であればあるほど、欠点や至らなさに悩むものです。それでも、大事なのは「福音を信じていること」です。私の一切の行いや頑張りによらず救われているからこそ、素晴らしいのです。「混ぜるな危険」。浴室洗剤のボトル等を見るたびに福音を思い出してください。
3. 変わらないこと
使徒パウロがこの手紙で伝えたいことは、大きく2つのことです。1つ目は、伝える側について、福音に混ぜものをしないこと、2つ目は、受け取り側について、ほかの教えに移って行かないことです。使徒パウロがせっかく正しい福音を伝えたのに、それを受けた者たちは「急に離れて、ほかの福音に移って行く」(6節)ことがあったので、驚いて=がっかりしています。この「移って行く」は「自分の忠誠の座を移す」という大事な意味があり軍隊内での反乱や脱走兵、または政治で他党に走る人を指します。そんな変わり身は福音を受け入れた者にはふさわしくありません。そして、本日のテーマである「クリスチャンの材料」として、まず正しい福音を聴くこと、そして、受け入れたら変わらないことです。それ以外はどんなことも問われません。品行方正であることも、礼拝を休まないことも、たくさん奉仕をすることも、それがその人をクリスチャンにしている・クリスチャンだと認められているものではないのです。ただ一つの材料は、福音を信じているかだけです!そして、いわゆるクリスチャンらしさ(聖さや御霊の実、人格的な成熟等)はその後に醸し出されてくるものです。それはいつも福音を味わうことによってのみなされます。

▲ このページの先頭へ

日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

福音のパンを

主日礼拝 2021年7月25日

聖書の言葉

それから三年後に、私はケファを訪ねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒たちにはだれにも会いませんでした。
神の御前で言いますが、私があなたがたに書いていることに偽りはありません。
それから、私はシリアおよびキリキアの地方に行きました。
ただ、人々は、「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」と聞いて、
私のことで神をあがめていました。

「ガラテヤ人への手紙1章18-24節」(抜粋)

牧師の言葉

■パン種
ガラテヤ書のテーマである「福音」は「神から出た良き知らせ」であることを続けて確認しています。人間はこれに付け加えることも薄めることもしないで、福音を保ち続けます。ここでは福音をパンの工程に重ねて見ていくことにします。パン作りにはまず「パン種」がなければ始まりません。イエスさまは「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい」(マタイ16:6)と警告されました。彼らは神の福音に「規則」「言い伝え」「現実主義」を混ぜて教えていたからです。それではよいパンは焼けません。パン種に、神から出たものではないものが混じっているからです。使徒パウロもそのことをよく理解していて「わずかなパン種が、こねた粉全体をふくらませることを、あなたがたは知らないのですか。新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい」(第一コリント5:6-7)と記しています。福音を純粋なまま保つこと=「種なしパン」(〃5:7)とも書いています。生まれながらの古い性質、人間の価値観は福音を汚してしまいます。神が福音を啓示しておられるのですから、謙遜や遠慮などは無用。かえって神と敵対するものであることを自戒しましょう。
■撹拌(かくはん)
18-20節は、パウロが回心から3年間はおもだった人たちに会わずと記録しています。これは、神とじっくりと交わりを持ったこと、その期間が重要であることのしるしです。人の説得によらず、人の目による圧力でもなく、神と一対一で格闘するようにして過ごしました。パンの工程では「撹拌(かくはん)」ですね。粉は水やオリーブ油でしっかり練られる必要があります。良い生地が良いパンの土台となるからです。撹拌の目的は2つ以上のものを混ぜ合わせ質や温度を均一にし、なめらかにすること。撹拌によって古いものからまったく新しい生地になっていきます。ここをすっ飛ばし、拒否すると古いパン種が残ったままになり、腐敗していきます。それだからこそ、神の御手というミキサーでしっかりと混ぜ合わされ、捏ねられること。使徒パウロはこの過程を経てエルサレムにいた使徒ペテロを訪ねましたが、それは15日間でした。3年間と比べると短いのですが、この「訪ねて」(18節)はhistory(歴史)の語源となった言葉が使われ地ます。パウロは、ひたすら独学で神観や聖書理解を作り上げたのではなく、人からもしっかりと歴史を学び、よく撹拌される工程をたどりました。バランスに偏りがあり、調和が取れていないと無理をして、信じているフリや大丈夫な素振りをしてしまうものです。私たちは、福音を神から聞き、人からも聞きます。神によって撹拌され、人からも撹拌されます。これが礼拝や教会の交わりで実現していることです。神と人とによって古い性質が削られ、独りよがりの理解から守られます。撹拌の機会を逸しないように、教会の交わりの中にしっかりと身を置きましょう。
■焼成(しょうせい)
21-24節は、撹拌後の焼成のステージです。焼き上げの目的は、不要物質を放出し、加熱調整して隙間をなくし最高の状態に仕上げることです。「私のことで神をあがめていました」(24節)という結びは、使徒パウロにとって最高の褒め言葉です。クリスチャンの栄誉は、自分の名ではなく、神の名が讃美されることです。なぜなら「キリストのしもべ」(10節)にとっては、その主人である神、イエスの名があがめられることこそ喜びだからです。あなたのおかげで神の名が輝く。あなたのおかげで神さまのおられることがわかる、あなたの伝えた福音で神を信じることができた。私たちの目的は「神さまはすごい!」と目の前の人が告白し、そうやって世界中の人々がひざをかがめて礼拝することです。これがこんがりと焼き上がった美味しそうなパンと同じ状態ですね。パンを作る粉・種→撹拌・生地→焼成という工程は、そのまま福音に生きる者の姿と重ねられます。神から出た福音はムダにはなりません。キリストのいのちをムダにしたくはありません。主イエスがささげたいのちをパン種とする私たちは、キリストの香りを放つ者として過ごすのです。

啓示と回心

主日礼拝 2021年7月18日

聖書の言葉

兄弟たち、私はあなたがたに明らかにしておきたいのです。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
私はそれを人間から受けたのではなく、また教えられたのでもありません。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。
しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、
私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。

「ガラテヤ人への手紙1章11-17節」

牧師の言葉

1. 啓示
ガラテヤ書の中心である「福音」。この箇所は福音が「どこから来たのか」という起源について記されています。前週の6-7節を見ると「福音はただ一つであり、別の福音、他の福音はない」とあります。そして、クリスチャンはただその「福音を受け入れた者」を指します。クリスチャンらしい生き方とか聖書の知識量はまったく関係がありません。それらはもともとの福音の中身ではないからです。そして、この福音が人間から出たものであれば、それはもう創作物語であり、不確かなことだって含んでいる可能性もあります。この世の様々な教えの一つ、他宗教の教えと変わりません。たとえ神や世の終わりや救いについて語っているとしても、「権威」の問題として、人間から出ているのであればすべて同じです。そして、使徒パウロはこの福音は「啓示」(12節)であると記しています。「啓示」は「覆い隠されているものを引き剥がす」という意味の言葉です。この場合、神の真理を神ご自身が明らかにされるのが「啓示」の意味です。「神がご自身の明らかにされる?啓示?それが聖書?そんなことをクリスチャンは疑わずに信じているの?」と疑問を持つかもしれません。しかし、そうでなければ決して神のことは分かりません。私という人間のことは私自身が言葉にして明らかにするまでは決して誰にも分かりません。他者から私について「心のなかではこう思っている」と言われても、一方的な想像であり、間違いもあります。それゆえ「聖書は神の啓示の書である」とはっきり告げているこの箇所は大変重要です。ぜひ整理しておきましょう。
2. 人間が頼み
13-14節は、使徒パウロが回心「前」何に熱心であったかを包み隠さず明かしています。神の教会を迫害し、信者を抹殺し、ユダヤ教の教えに人一倍熱心だったことです(使徒8:1;9:1-2、ピリピ3:4-6等)。ポイントは、彼は「自分は間違っていないと確信し生きていた」ことです。「同胞」や「同じ世代」と比較し、抜きん出ていた自分を誇ってもいました。「先祖の伝承」にも忠実で至らない自分などみじんも感じてはいなかったことが伝わります。しかし、彼が頼りにし、誇っていたものは「全てが人間によるもの」です。周囲の人間との比較から来る自信、父祖の伝承に対する完璧さ。おそらく付け入るスキや非の打ち所がないのが回心前のパウロでした。それでも、彼の身につけている鎧のすべて人間によるもので、「人間が頼み」の生き方です。
3. 神が頼り
15-17節は回心後に進みますが、それは「しかし」で始まり、ここから主語が「私」から「神」へと変わります。神はパウロが生まれる前から「選び出して・・・召してくださっ」(15節)ていたのです。それは「御子(イエス)を私のうちに啓示する」(16節)ためでした。「母の胎にあるときから選び出し」は決して大げさな言い方ではありません。パウロは、このことによって自分の出どころがはっきりしたのです。神は、実に私が生まれる前から計画をお持ちで、私はこの神と出会い、神の愛の中で過ごし、神のわざに少しでも用いられるように生きるのだ、と。どれほど人間的な知識を身に着け、世間で身を立て、人生経験を積んだとしても、神からの啓示はそれら以上に輝く光でした。あれほど自信と誇りに満ちていた頑迷なパウロを変えられることは、人間には無理です。頑固な人ほど、他の人間との議論や指導によっては決して変えられません。説得をしようとしても、おそらくもっと頑なになるだけです。おそらく、皆さんも同じような経験をしているのではないでしょうか。そうした人間を変えられるのは、いったい誰でしょう。それこそ「神」しかおられません。そして、人間同士の言葉や力ではなく、上からの光、神の啓示によって人は変えられるのです。啓示の中身は「御子=主イエス」です。あれほど人間を圧倒することにこだわっていたパウロは、誰にも相談することなくしばらく過ごしたことを16-17節でつけ加えています。私を変えたのは、他の誰の説得や教えでもない、ただ「啓示=神に」よったことの証しです。神を頼りとし、啓示通りキリストをあなたのうちに迎えましょう。

クリスチャンの材料

主日礼拝 2021年7月11日

聖書の言葉

私は驚いています。あなたがたが、キリストの恵みによって自分たちを召してくださった方から、このように急に離れて、ほかの福音に移って行くことに。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるわけではありません。あなたがたを動揺させて、キリストの福音を変えてしまおうとする者たちがいるだけです。
しかし、私たちであれ天の御使いであれ、もし私たちがあなたがたに宣べ伝えた福音に反することを、福音として宣べ伝えるなら、そのような者はのろわれるべきです。
今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。

ガラテヤ人への手紙1章6-10節」(抜粋)

牧師の言葉

1. 福音
ガラテヤ人への手紙の第二回目。テーマは「福音とは何か(真の福音)」です。福音≡良き知らせ(Gospel, Good News)はその響きだけでなく、中身を知ってこそ「主は素晴らしい!ハレルヤ!」とうなずけるものです。学びの要素も多いのがこのガラテヤ書ですが、正確に神のことばを聴く訓練はそのまま良き習慣ともなり、健康な信仰生活の最大栄養素になります。ぜひ集中力を高めてご一緒に見てまいりましょう。
 今回のタイトルは「クリスチャンの材料」です。クリスチャンは何でできているのでしょうか?更に言うと、何をもってその人はクリスチャンだと言えるのでしょうか。なかなか信仰に踏み出せない方たちが「自分はまだまだです」「もっと聖書のことが分かってからではないと」「私はクリスチャンにはふさわしくありません」と正直な心境を吐露してくださることがあります。ぜひ、これらの思いを抱えている方もこの箇所から「どうやったらクリスチャンになれるのか」を整理していただけましたらと願います。
クリスチャンの材料、その1は「福音」です。主イエスがその宣教の第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われたように、クリスチャンとは「福音を信じる」者のことです。そして、それ以外のものは何も必要ありません。善人であることも穏便な性格も善行もいりません。救われるために、人間の側でしなければならないことは何一つないのです。だから「福音=良き知らせ」と言います。私を救うために、神は何一つ私に要求せず、愛するひとり子イエス・キリストを十字架につけ、よみがえらせてくださった。この方を信じる者はひとりとして滅びることがない、というのが福音です。「ほかの/別の」福音など決して存在しないのです。
2. 混ぜないこと
しかし、ガラテヤのクリスチャンたちは揺さぶられていました。あたかも「ほかの福音」があるかのようにふれ回る教師たちがいたようです。彼らはクリスチャンであるためには割礼を受け、律法を守り行わなければならない、と強く訴えていたようです(*これらについては、後の章で見ていきます)。しかし、それではせっかくの「福音」が台無しです。純粋なものに、誤りを混ぜれば、それは不純物です。神の恵みの福音(使徒20:24)にも、別のものは決して混ぜ入れてはなりません。たとえ、それがどんな良い事であっても、有益な事柄であっても、「それらのおかげでクリスチャンになる(である)」わけではないからです。この点を、いつもずらされない軸として持っていましょう。とかく、私たちは不安を煽られがちです。また、自分に対して真面目であればあるほど、欠点や至らなさに悩むものです。それでも、大事なのは「福音を信じていること」です。私の一切の行いや頑張りによらず救われているからこそ、素晴らしいのです。「混ぜるな危険」。浴室洗剤のボトル等を見るたびに福音を思い出してください。
3. 変わらないこと
使徒パウロがこの手紙で伝えたいことは、大きく2つのことです。1つ目は、伝える側について、福音に混ぜものをしないこと、2つ目は、受け取り側について、ほかの教えに移って行かないことです。使徒パウロがせっかく正しい福音を伝えたのに、それを受けた者たちは「急に離れて、ほかの福音に移って行く」(6節)ことがあったので、驚いて=がっかりしています。この「移って行く」は「自分の忠誠の座を移す」という大事な意味があり軍隊内での反乱や脱走兵、または政治で他党に走る人を指します。そんな変わり身は福音を受け入れた者にはふさわしくありません。そして、本日のテーマである「クリスチャンの材料」として、まず正しい福音を聴くこと、そして、受け入れたら変わらないことです。それ以外はどんなことも問われません。品行方正であることも、礼拝を休まないことも、たくさん奉仕をすることも、それがその人をクリスチャンにしている・クリスチャンだと認められているものではないのです。ただ一つの材料は、福音を信じているかだけです!そして、いわゆるクリスチャンらしさ(聖さや御霊の実、人格的な成熟等)はその後に醸し出されてくるものです。それはいつも福音を味わうことによってのみなされます。

▲ページの先頭へ