日本同盟キリスト教団 盛岡みなみ教会

メッセージ

日曜礼拝の聖書メッセージです。
今月の最新の週から順に載せています。
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心の養いとなりますように。

メッセージ

聖書の言葉

「祝福とのろい」

主日礼拝 2021年9月12日

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。
ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。
聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。
ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。
律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。
律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

「ガラテヤ人への手紙3章6-14節(抜粋)」

牧師の言葉

1.信仰の父、アブラハムの信仰
アブラハムが「信仰の父」と呼ばれるのには理由があります。創世記11章の終わりから登場するテラがアブラハムの父親でした。アブラハムが75歳のとき、神さまの声が彼にあり「生まれ故郷を離れ、わたしが示す地へ行け」との声に聞き従い、約束の地カナン(現在のパレスチナ)に向けて実際に旅立ちました。そこで子孫と土地の祝福が約束されるのですが、それらがすぐに手に入ることはなく、約束を信じて歩むその姿こそ「信仰の父」と呼ばれる所以になっています。見えない神を信じること、神の約束を握って歩むこと。これが「信仰の父アブラハムの信仰」でした。このガラテヤの箇所で「アブラハムは主を信じた…それが彼の義と認められた」は創世記15:6からの引用です。まだ一人も子がないまま不安に駆られた80代のアブラハムでしたが、その現実や心配よりも「主と主のことばを信じた」ことが「義と認められた」のです。この系譜にならって、私たちは「信仰の父アブラハム」と呼んでいます。私たちとアブラハムとの条件は驚くほど一緒です。実に、見えない神を、そのことばと約束によって信じていくのだからです。この信仰によって生きる者こそ「アブラハムの子」であり、これは神の祝福をいただく相続のしるしとしての呼び名です。血肉によらず、行いによらず、ただ信仰によって、私たちはアブラハムの子として神の祝福が約束されています。これこそ、聖書が「前もって知り」「前もって福音を告げた」(3:8)その内容です。
2.祝福とのろい
ここの箇所6~9節が祝福を説くのに対し、10節からは「のろい」の記述が続きます。「律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにある」(3:10)から始まり、律法のすべてを守り行わない者はみな、のろわれる(11節、申命記27:26)と旧約聖書から多くを引用しながら、話を進めていきます。「祝福とのろい」は対照的です。愛の神さまなら祝福だけを注ぐように語ってくだされば良いのに!と考えるでしょうか。それは人間にとって都合のよい考えかもしれませんが、神のお考えとは違います。人間は互いに遠慮して「言いにくいこと」が生じます。気分を害するのではないか、関係が壊れてしまうのではないかと思案するあげく、真実を伝えられないジレンマや失敗を経験します。しかし、それで相手が祝福や成長を取り逃すとしたら、それこそ深刻な損失です。逆に、神さまは私たちを愛しておられるからこそ、祝福と合わせてのろいについてもしっかりと告げてくださっていると考えるべきです。祝福だけを注ぐ神ではありません。そんな優しくない神さまを信じたくないかもしれませんが、もし、そうであれば神の義が歪められてしまいます。なんでも許容し、咎めることもせず、罪をそのまま見逃しておくならば、神の義は立たず、世界はより悲惨になることでしょう。ここで、はっきりとのろいについて告げてくださっている神の真剣さ、愛を汲み取りましょう。そして、それは「律法の行い」によって生きる者への警告であり、救いに導く声であることを。
3.キリスト・イエスによって
「律法によって神の前に義と認められる者がだれもいないことは明らか」(11)というのは、どんな正しい人間も行いによって神の義を獲得することは不可能だということです。誰ひとりとして、無理なのです。生まれてからずっとその道を突き進んできたパウロが言うのですから、彼以上に誇れる人はいません。そして、律法の要求を満たせない者に待っているのはのろいです。「木にかけられて処刑される」という極刑です。そうすれば、律法のすべてを守り行えなかった者への報いは終わります。しかし、それでは救いがありません。そして、驚くべきことに「キリストは…私たちのために(代わりに)のろわれた者となることで…のろいから贖い出してくださった」(13節)のです。これこそ、十字架で行われたことでした。何の罪のない方が、のろわれた者となり、苦しめられ、殺され、木にかけられる。私たちが受けるべきのろいを受けてくださったのです。「救い主」のこの究極の愛のわざに対して、あなたは何と応答するでしょうか?

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聖書の言葉

「始まりから完成まで」

主日礼拝 2021年9月5日

ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。
これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。
あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。 まさか、無駄だったということはないでしょう。
あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。 それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。

「ガラテヤ人への手紙3章1-5節」

牧師の言葉

1.なんと愚かな
この箇所の出だしは「ああ、愚かなガラテヤ人」です。この強烈な表現におどろかれるかもしれませんが、そうしなければならなかった理由を見てまいりましょう。この「愚か」とは知的に劣っているのではなく、神の真理に対する心の鈍さを指摘する語です(参照:ルカ24:25)。これは知性が高ぶれば高ぶるほど、また自分の行いの義に自信を持ち、固執するほど、神からの良き知らせ=福音・ゴスペルから遠ざかってしまうということです。ガラテヤ人の愚かさは「十字架につけられたイエス・キリストが目の前に描き出されたのに」見失っていることでした。この描き出すは「公的に展示する」という意味です。絵画や映画のシーンのように、はっきりとキリストの十字架が現れているのに、そんなことはなかったことのようにして歩んでいることを「なんと愚かな」と嘆いているのです。その理由は「惑わし」でした。これも「つながったものを外へ押し出す」という意味があります。せっかくキリストにつながったのに引き離されている、せっかく教会に通っているのに離れてしまった、せっかく聖書を読み始めたのにいつの間にかやめてしまった、あんなに燃えていたのに冷えてしまった・・・ガラテヤ人だけでなく、私たち一人ひとりにも当てはまってしまうヤバさをもって切り出しています。
2.救いの始まり
惑わされ、引き離されないための効果的な方法は「始めを思い出す(初心に帰る)」ことです。2節の「あなたがたが御霊を受けたのは」は「あなたが救われたのは」と読み替えてもよいです。救われたのは「律法を行ったから」なのか「信仰をもって聞いたから」なのか。よく思い出してみなさい、と。直前の2章終わりでは律法の行いではなくキリストの愛と義を信じることによって救われるのだということを確かめました。常にこの地点からスタートし、そのとおり歩み続けているかの点検が必要です。そして、離れていたら戻り、間違っていたら引き返し、惑わされたら矯正されて、純粋な福音を味わい続けるのです。続く3節でもまた「そんなにも愚かなのですか」と重ねて、神の福音から離れて生きようとするクリスチャンを引き止めるように語りかけています。行いではなく信じることによって救われたのなら、救われた後も重要なのは神に信頼し続けることであって、行いが重要視されるはずはありません。ルターが愛した次の聖句を紹介します。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」(ローマ10:17)。この教会で、礼拝で、キリストについてのことばがいつも語られ、聴かれることを願い、牧師も備えています。教会は何を大切にしているのですか?信仰にとって重要なことは何ですか?と問われたとき、まっさきに「キリストについてのことばを聴くこと!」と答えられますように。
3.御霊による完成
神の福音である救いは「始まり」だけでなく「完成」(3節)に向かうものです。救われたらそれでおしまい、あとはお好きなようにと放任主義ではありません。イエスさまが「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のよう」(マタイ25:14)と「タラントのたとえ」で教えられた通りです。救いを受けた者は、この素晴らしい救いを地中の中に隠すのか、それとも幾倍にも増やして過ごすのか分かれます。受けた救いをそのままにした者は「悪い、怠け者のしもべだ」と叱責を受け救いを活かし続けた者は「良い忠実なしもべだ」と称賛を受けています(マタイ25:21,26)。これはまさに十字架につけられたキリストは「無駄だったのか」(ガラテヤ3:4)、生かした(=無駄にしなかった)のかの違いです。私たちの救いに関するすべてのことはイエスさまがしてくださいました。それが「信仰をもって聞く」ということです。私たちの行いは一切入り込めません。それこそ、救いが神の恵みになるためです。そして、その救いは同じく信仰をもって聞くことによって完成されます。御霊(聖霊)は、私たちにすべてのことを教え、思い起こさせ、完成まで助けてくださるお方です。

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日曜礼拝の聖書メッセージです。今月の最新の週から順に載せています。このページがご覧になる方の心の養いとなりますように。

祝福とのろい

主日礼拝 2021年9月12日

聖書の言葉

「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。
ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。
聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。
ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。
律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。
律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。
それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。

「ガラテヤ人への手紙3章6-14節(抜粋)」

牧師の言葉

1.信仰の父、アブラハムの信仰
アブラハムが「信仰の父」と呼ばれるのには理由があります。創世記11章の終わりから登場するテラがアブラハムの父親でした。アブラハムが75歳のとき、神さまの声が彼にあり「生まれ故郷を離れ、わたしが示す地へ行け」との声に聞き従い、約束の地カナン(現在のパレスチナ)に向けて実際に旅立ちました。そこで子孫と土地の祝福が約束されるのですが、それらがすぐに手に入ることはなく、約束を信じて歩むその姿こそ「信仰の父」と呼ばれる所以になっています。見えない神を信じること、神の約束を握って歩むこと。これが「信仰の父アブラハムの信仰」でした。このガラテヤの箇所で「アブラハムは主を信じた…それが彼の義と認められた」は創世記15:6からの引用です。まだ一人も子がないまま不安に駆られた80代のアブラハムでしたが、その現実や心配よりも「主と主のことばを信じた」ことが「義と認められた」のです。この系譜にならって、私たちは「信仰の父アブラハム」と呼んでいます。私たちとアブラハムとの条件は驚くほど一緒です。実に、見えない神を、そのことばと約束によって信じていくのだからです。この信仰によって生きる者こそ「アブラハムの子」であり、これは神の祝福をいただく相続のしるしとしての呼び名です。血肉によらず、行いによらず、ただ信仰によって、私たちはアブラハムの子として神の祝福が約束されています。これこそ、聖書が「前もって知り」「前もって福音を告げた」(3:8)その内容です。
2.祝福とのろい
ここの箇所6~9節が祝福を説くのに対し、10節からは「のろい」の記述が続きます。「律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにある」(3:10)から始まり、律法のすべてを守り行わない者はみな、のろわれる(11節、申命記27:26)と旧約聖書から多くを引用しながら、話を進めていきます。「祝福とのろい」は対照的です。愛の神さまなら祝福だけを注ぐように語ってくだされば良いのに!と考えるでしょうか。それは人間にとって都合のよい考えかもしれませんが、神のお考えとは違います。人間は互いに遠慮して「言いにくいこと」が生じます。気分を害するのではないか、関係が壊れてしまうのではないかと思案するあげく、真実を伝えられないジレンマや失敗を経験します。しかし、それで相手が祝福や成長を取り逃すとしたら、それこそ深刻な損失です。逆に、神さまは私たちを愛しておられるからこそ、祝福と合わせてのろいについてもしっかりと告げてくださっていると考えるべきです。祝福だけを注ぐ神ではありません。そんな優しくない神さまを信じたくないかもしれませんが、もし、そうであれば神の義が歪められてしまいます。なんでも許容し、咎めることもせず、罪をそのまま見逃しておくならば、神の義は立たず、世界はより悲惨になることでしょう。ここで、はっきりとのろいについて告げてくださっている神の真剣さ、愛を汲み取りましょう。そして、それは「律法の行い」によって生きる者への警告であり、救いに導く声であることを。
3.キリスト・イエスによって
「律法によって神の前に義と認められる者がだれもいないことは明らか」(11)というのは、どんな正しい人間も行いによって神の義を獲得することは不可能だということです。誰ひとりとして、無理なのです。生まれてからずっとその道を突き進んできたパウロが言うのですから、彼以上に誇れる人はいません。そして、律法の要求を満たせない者に待っているのはのろいです。「木にかけられて処刑される」という極刑です。そうすれば、律法のすべてを守り行えなかった者への報いは終わります。しかし、それでは救いがありません。そして、驚くべきことに「キリストは…私たちのために(代わりに)のろわれた者となることで…のろいから贖い出してくださった」(13節)のです。これこそ、十字架で行われたことでした。何の罪のない方が、のろわれた者となり、苦しめられ、殺され、木にかけられる。私たちが受けるべきのろいを受けてくださったのです。「救い主」のこの究極の愛のわざに対して、あなたは何と応答するでしょうか?

始まりから完成まで

主日礼拝 2021年9月5日

聖書の言葉

ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。
これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。
あれほどの経験をしたのは、無駄だったのでしょうか。 まさか、無駄だったということはないでしょう。
あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で力あるわざを行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。 それとも信仰をもって聞いたから、そうなさるのでしょうか。

「ガラテヤ人への手紙3章1-5節」

牧師の言葉

1.なんと愚かな
この箇所の出だしは「ああ、愚かなガラテヤ人」です。この強烈な表現におどろかれるかもしれませんが、そうしなければならなかった理由を見てまいりましょう。この「愚か」とは知的に劣っているのではなく、神の真理に対する心の鈍さを指摘する語です(参照:ルカ24:25)。これは知性が高ぶれば高ぶるほど、また自分の行いの義に自信を持ち、固執するほど、神からの良き知らせ=福音・ゴスペルから遠ざかってしまうということです。ガラテヤ人の愚かさは「十字架につけられたイエス・キリストが目の前に描き出されたのに」見失っていることでした。この描き出すは「公的に展示する」という意味です。絵画や映画のシーンのように、はっきりとキリストの十字架が現れているのに、そんなことはなかったことのようにして歩んでいることを「なんと愚かな」と嘆いているのです。その理由は「惑わし」でした。これも「つながったものを外へ押し出す」という意味があります。せっかくキリストにつながったのに引き離されている、せっかく教会に通っているのに離れてしまった、せっかく聖書を読み始めたのにいつの間にかやめてしまった、あんなに燃えていたのに冷えてしまった・・・ガラテヤ人だけでなく、私たち一人ひとりにも当てはまってしまうヤバさをもって切り出しています。
2.救いの始まり
惑わされ、引き離されないための効果的な方法は「始めを思い出す(初心に帰る)」ことです。2節の「あなたがたが御霊を受けたのは」は「あなたが救われたのは」と読み替えてもよいです。救われたのは「律法を行ったから」なのか「信仰をもって聞いたから」なのか。よく思い出してみなさい、と。直前の2章終わりでは律法の行いではなくキリストの愛と義を信じることによって救われるのだということを確かめました。常にこの地点からスタートし、そのとおり歩み続けているかの点検が必要です。そして、離れていたら戻り、間違っていたら引き返し、惑わされたら矯正されて、純粋な福音を味わい続けるのです。続く3節でもまた「そんなにも愚かなのですか」と重ねて、神の福音から離れて生きようとするクリスチャンを引き止めるように語りかけています。行いではなく信じることによって救われたのなら、救われた後も重要なのは神に信頼し続けることであって、行いが重要視されるはずはありません。ルターが愛した次の聖句を紹介します。「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」(ローマ10:17)。この教会で、礼拝で、キリストについてのことばがいつも語られ、聴かれることを願い、牧師も備えています。教会は何を大切にしているのですか?信仰にとって重要なことは何ですか?と問われたとき、まっさきに「キリストについてのことばを聴くこと!」と答えられますように。
3.御霊による完成
神の福音である救いは「始まり」だけでなく「完成」(3節)に向かうものです。救われたらそれでおしまい、あとはお好きなようにと放任主義ではありません。イエスさまが「天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のよう」(マタイ25:14)と「タラントのたとえ」で教えられた通りです。救いを受けた者は、この素晴らしい救いを地中の中に隠すのか、それとも幾倍にも増やして過ごすのか分かれます。受けた救いをそのままにした者は「悪い、怠け者のしもべだ」と叱責を受け救いを活かし続けた者は「良い忠実なしもべだ」と称賛を受けています(マタイ25:21,26)。これはまさに十字架につけられたキリストは「無駄だったのか」(ガラテヤ3:4)、生かした(=無駄にしなかった)のかの違いです。私たちの救いに関するすべてのことはイエスさまがしてくださいました。それが「信仰をもって聞く」ということです。私たちの行いは一切入り込めません。それこそ、救いが神の恵みになるためです。そして、その救いは同じく信仰をもって聞くことによって完成されます。御霊(聖霊)は、私たちにすべてのことを教え、思い起こさせ、完成まで助けてくださるお方です。

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